SUMMIT SERIES

SCROLL

PRODUCT

  • GTX Pro Bib

    GTX Pro Bib GTX プロ ビブ

    GTXプロジャケット同様に最高クラスの防水透湿素材を採用。踏み外すことのできない氷と岩の世界を確実に登り歩くために、膝まわりの可動性と運動追従性を向上させ、高い防御性を備えたアルパインビブ。
    1. 雪の侵入を抑え、ヒートロスを軽減させるハイチェスト仕様
    2. アジャスタブルサスペンダー
    3. 容易に用足しができるドロップシート仕様
    4. 防護性、軽量性、しなやかさを誇る40D GORE-TEX® Pro採用
    5. 足を上げても裾まわりがずり上がりにくいDRIVELINEを採用したパターン
    6. アイゼンガード仕様
    NP61712
    ¥48,000+税Buy
    ブラック K(UNISEX)
    カナリ―イエロー CY(MEN'S)
    ブルーバード BD(WOMEN’S)
    Sizes : XS, S, M, L, XL, WS, WM
    Fabrics : 〈表地〉40D GORE-TEX® Pro 3層(表:ナイロン100%、中間層:e PTFE、裏:ナイロン100%)
  • Cobra52 XP

    Cobra52 XP コブラ52 エックスピー

    耐摩耗性に優れ、軽量で引裂きにも強いX-Pac fabricを使用した、汎用性に優れたエクスペディション用パック。大型のクランポンポケットやアックスホルダーなど、アルパインクライミングに求められる機能を全て備えている。アタックザックとして使用することもできる。
    1. 耐久性のある高強度な素材
    2. 取り外し可能な可動式の雨蓋
    3. 大型のクランポンポケット
    4. パッド入りのヒップハーネスは取り外し可能
    5. ギアループとポケットつきのヒップハーネス
    6. アックスホルダー
    7. ロープキャリーシステム
    NM61754
    ¥32,000+税Buy
    ホワイト×ブラック(WK)
    素材:Dimention-Polyant fabric、1000Dコーデュラ® ナイロン
    寸法:M/63×27×22cm L/66×27×22cm
    容量:M/50L L/52L 重量:M/1760g L/1870g
    適応背面長:M/43-51cm L/48-56cm
  • Assault 2

    Assault 2 アサルト 2

    防水透湿素材DRYWALL™を使用することで軽量化と快適性を同時に実現させた、エクスペディション用シングルウォールテント。テントの一部を覆って前室空間を生み出すフライシートは取り外して使うことも可能で、さまざまな使用目的に対応できる。
    1. 防水透湿素材DRYWALL™のシングルスキン
    2. 上部にベンチレーションウィンドウつきのドロップドア
    3. 通気性と安定性を高める両サイドのベンチレーションウィンドウ
    4. イージーピッチのX型デザイン
    5. DAC製ステーク
    NV21707
    ¥80,000+税Buy
    サミットゴールド(SG)
    素材:キャノピー/DRYWALL™(50D ポリエステルリップストップ)1200mm PUコーティング フロア/40D ナイロンリップストップ3000mm PUコーティング(シリコン撥水加工) フライシート/30D
    ナイロンリップストップ1500mm PUコーティング(シリコン撥水加工)
    収容人数:2名 平均重量:2.44kg フロアサイズ:208×122cm
    フロア面積:2.5㎡ 高さ:107cm 出入口数:1 ポール本数:3+1
    収納サイズ:56×18cm
  • INFERNO -29

    INFERNO -29 インフェルノ -29

    氷点下29度の気温にも耐えうるほどの高い保温力を発揮するエクスペディション用スリーピングバッグ。撥水性を持たせた800フィルのProDown™を中綿に使用することで、湿気にも強く、快適性もアップした。台形のシェイプがキープされるトラペゾイドバッフル構造により無駄なダウン量も削減、それによって軽量化が実現された。
    1. ボルテッド・フットボックス
    2. 背面とフード、フット部分は防水透湿素材を使用
    3. 開閉しやすいセンタージッパー
    4. 立体的なフードとドローコード
    5. 断面が台形のトラペゾイドバッフル構造
    NBR41501
    ¥110,000+税Buy
    カラー/アスファルト×コーションオレンジ(AG)
    表:Neovent Air fabric(150Dナイロンリップストップ)
    中綿:RDS 認定800フィルProDown™ 裏:ナイロンタフタ
    サイズ:Reg 全長:R/198cm 対応身長:R/183cm
    最低温度規格:-29℃ 断熱材重量:R/1034g
    平均重量:R/1503g 収納サイズ:51×28cm

INTERVIEW

  • Alex
    Honnold

    クライミングを語る フリークライマーアレックス・オノルド

    Alex Honnold(アレックス・オノルド)
    1985年、カリフォルニア州生まれ。10歳からクライミングを始める。カリフォルニア大学バークレー校を19歳で中退し、その後はヨセミテ国立公園をホームグラウンドにFord社の車で寝泊まりしながらクライミング活動を中心とした生活を送る。2010年、世界で最も優れたクライマーに贈られるゴールデンピトン賞を受賞。2015年、その年の最も優れたアルパインクライミングを顕彰するピオレドール賞を受賞。2017年7月にはヨセミテ国立公園エルキャピタンの壁フリーライダーをフリーソロのスタイルで登り、世界を驚かせた。
    クライミングの世界では誰もがその名を知るアレックス・オノルド。2014年2月、南米パタゴニア地方にあるフィッツロイを主峰とする連山7峰の稜線を縦走する「フィッツ・トラバース」(距離6.4キロ、合計標高差4000メートル)を成功させ、2017年7月には米ヨセミテ国立公園内の岩壁エルキャピタンの主要ルート「フリーライダー」を、安全用具もロープも使わないフリーソロの方法で、わずか3時間56分という恐るべき速さで登りきった。クライミング史上稀に見る偉業を次々と成し遂げる異才のクライマーにとっての限界という名の壁は、一体どれほどの高さなのか?メールによるQ & Aを通じてそれを探った。
    Q. サクラメントのクライミングジムに通っていた少年時代、一日に何時間くらい壁と向き合っていましたか。また、当時どのようなトレーニングをしていましたか?
    A. 子供の頃は週に4、5回はジムに通って、毎回数時間ずつクライミングをしていました。10代の頃には毎回3時間以上は登っていました。そうやって、たくさんの時間をクライミングに費やした以外に特別なトレーニングはしていません。高校時代に「寝る前に懸垂を150回する!」と決め、それを実践していた時代が一時期だけありましたが、クライミング技術を向上させる上で役に立ったかというと、そうは思えません。
    Q. 現在も車で寝起きする暮らしを続けているのですか? 
    A. 昨年、ラスベガスに家を購入しました。けれども現在も変わらずVAN LIFE(車中泊生活)や、あるいは海外に滞在していることが多いですね。今年はヨセミテに2ヶ月、夏のあいだはノースウェスト(北米北西部)にロードトリップに出かけていました。ですから、家で過ごしたのは、今年は15日だけです。
    Q. 平均的な一日の過ごし方について教えてください。朝は何時頃に起きて、食事は何を食べ、何時頃に寝ていますか?
    A. どの国に滞在するか、その日に何をするかによって異なります。現在はフランスに滞在していますが、ここでの登攀は、朝早すぎてもダメなので、午前10時頃に起床して、眠るのは夜遅い時間です。今季のヨセミテは真逆で、毎朝午前四時に起床して、暑くなる前に登っていました。朝食はしっかり食べるほうです(ミューズリーとフルーツ)。朝夕は、しっかり食べて、日中は適当に何かをつまんでいる感じです。
    Q. クライミングはサブカルチャーだと思いますか? それとも、オリンピックのようにアスリートが技を競い合う競技でしょうか? また、あなたがクライミングを始めた頃と比べて、クライマーの数やシーンの規模は拡大していると思いますか。
    A. 子供たちが誕生日にクライミングのジムに行ったりする時代ですから、もはやサブカルチャーとは言えないかもしれません。しかし、クライミングとサブカルチャー的なライフスタイルは切り離せないものだと考えています。そもそも私自身も車に住んでいるし、こういったライフスタイルは、アメリカではまだ一般的とは言えませんからね。クライミング・シーンは拡大し続けるでしょう。少なくとも今後10年は。スケートボードやサーフィンやスノーボードのように多くの人が親しむスポーツになって、しかし、野球ほど大きくはない規模にまで発展するのではないかと期待しています。そうした動きにオリンピックは確実に貢献しているし、クライミングが競技として認められたことは素晴らしいことだと思います。ジムでおこなうクライミングの認知度はすでに高いので、いずれは世界規模でおこなわれるスポーツになると思います。
    Q. ヨガ、マインドフル、メディテーションなど、精神集中のために行っているメソッドはありますか。
    A. 瞑想は一度もしたことがありません。ヨガのクラスに、過去に何度か女性の友達と通ったことはあるけれど、それもストレッチをするのが目的でした。ヨガをおこなうことによって期待できる効果があることは理解していますが、それを必要だと感じたことはありません。クライミングが十分に私をマインドフル(心を集中させること)にしてくれます。巨大な壁を1人で登っているときは、どうしても集中せざるを得ない状況ですからね。
    Q. 2008年にヨセミテのムーンライトバットレス(北米ザイオン国立公園にある壁)をフリーソロ登攀する直前に、車のなかで、これから起こりうる出来事や身体の動かし方をイメージしている様子が著書『アローン・オン・ザ・ウォール』(アレックス・オノルド、デイヴィッド・ロバーツ著、堀内瑛司訳/山と渓谷社)に描かれていました。具体的には、取り付きからトップまで全ての動きをイメージするのか、核心部のムーヴだけを詳細に想像しているのか?
    A. 両方です。可能性のある登り方の、すべての局面をイメージします。動き一つ一つと、そのときの感覚、つまり、予想し得る全ての結果とシナリオをイメージするのです。雨が降ったら? 指を怪我したら? 岩が落ちてきたら?腕がパンパンになって疲れたあとの動きは? 予想に反して疲労困憊したら? 全ての可能性をイメージするようにしています。そうやって自分のマインドを訓練するのです。なかでも核心部に関してはさらなる時間を費やして、イメージを確実なものにしています。
    Q. 本には「そのときの気分や天候から感じる気配などから、クライミングを中止して逃げ出してきたことも多い」ありましたが、「気配」とは、どのようなものか。中止したときの気まずさ、罪悪感はありませんか。それでも止めるのは、なによりも身の安全を優先するからという理由からでしょうか。
    A. 恐怖を少しでも感じたならば、それはフリーソロをやめたほうが良いというサインです。その恐怖心にはソロに対する確信の無さやモチベーションの低さが影響していると思います。自分に無理な強要はしないよう心がけています。簡単そうなことでも、なにかの理由でひどく怖さを感じて、途中で中止したりすると後ろめたさを感じることもあるけれど、大半はあまり気にしません。また別の日に、自分が良いと思う登り方で登れば良い。時間の制限があるわけではないですから。安全が一番の優先順位です。僕だって老後を過ごしてみたいですからね。
    Q. 2013年にはフレディ・ウィルキンソン、レナン・オズタークと3人でデナリ南東のルース氷河へ、翌年にはトミー・コールドウェルと南米パタゴニア地方のフィッツロイ山群縦走へ出かけています。アルパインクライミングは、何度も下見をしてから挑むフリーソロとは違った、かなり挑戦的な行為のようにも思えますが、それでも実行に移すのはパートナーに信頼を置いているということでしょうか?
    A. エクスペディションの経験に関しては、部分的にはパートナーの力に依るところが大きいと思います。良い仲間と冒険したいという願望や、世界中の綺麗な山を見たいという理由で挑む場合が多いです。「エクストリームな観光」という感じで、素晴らしく感動的な角度から山を眺めることができますからね。エクスペディションは、これまで自分がおこなってきたクライミングに対する感謝の気持ちを改めて教えてくれるものだと思います。
    Q. 2014年に挑んだ南米のフィッツロイ山群縦走のパートナーであるトミー・コールドウェルとは過去にヨセミテ・トリプルの継続登攀に挑んだことがあるなど仲が良いようですが、睡眠不足や寒さなどのストレスから喧嘩になったりしたことはありませんでしたか? また、そのような場合、どのようにして平常心を獲得していますか?
    A. 喧嘩は一度もありませんでした。僕たちは互いにリラックスした関係だし、友達と楽しいことをしているときにストレスを感じることはありませんよね。リスクの許容やルート選択に関しても、似たような判断を下す傾向があるため喧嘩にはなりません。お互いを信頼し尊敬し合っていますから。
    Q. フィッツ・トラバースにおいて最も困難だったのは、どの地点でしょうか? 寒さ、痛さ、その他、どのようなことが原因でそう感じたのでしょう。
    A. 最大の難所は、フィッツ・ロイのノース・ピラーの頂上部分からフィッツの頂上へ向かう壁をトミーのリードで登ったとき。自分はビレイ担当で、持っていたジャケットを全て着てユマーリング(登高器を使用して登ること)するだけだったので、さほど大変ではなかったけど、あまりの難しさから諦めようと思う一歩手前でした。トミーが登れなかったら今回の縦走は断念する結果になったかもしれません。
    Q. フィッツロイ・トラバースに挑むまで、あなたは本格的なアルパインクライミングを経験していなかったと思いますが、いざ体験してみてどうでしたか。アルパインの難しさや面白さについて教えてください。
    A. 難しいのは雪と氷そして氷河! フィッツロイの登攀は、素晴らしと心から言える経験でした。きわめて状態の良い岩壁を登っているみたいな感覚。花崗岩の登攀は過去にも数多く経験していたので、それほど大変ではありませんでした。もちろんアルパイン箇所の多いクライミングは今でも緊張します。けれども、それこそがクライミングの楽しさでもあるし、回数を重ねるたびに気持ちの良い登攀ができていると思います。初心に戻って学べる感覚が素晴らしいですね。
    Q. わずか5日間でトラバースを終えましたが、このクライミングを成功させた要因は何でしょう?
    A. 僕もトミーも岩を登るのスピードは早いほうだから、そのおかげで達成できたとも言えるでしょう。あの年はシーズンを通して悪天候が続き、たまたま調子の良さそうな日が訪れたのでアタックすることにしました。もっとも、シーズン通して悪天候だったということは、クラックに雪と氷が詰まっているということを意味してるわけですけれども。ともあれ好天に恵まれたのは非常にラッキーでした。岩の状態が良ければ、もっと早く縦走できたと思います。
    Q. 2017年7月にエルキャピタンの「フリーライダー」をフリーソロで登りましたが、本番に移る前にどれくらいの時間を練習に費やしましたか。その様子についても教えてください。
    A. エルキャピタンの壁は異なるルートで過去に60回くらい登ったことがあります。過去11年間に費やした時間を平均すると毎年に数ヶ月をヨセミテの登攀に費やしていることになります。それだけでも、かなりの練習になっていますね。「フリーライダー」には30日か、それ以上の時間を費やしました。全てのルートを数回ずつ登っていますが、だいたいは頂上からラペルして特定のセクションに取り組んでから攻略したものです。エルキャピタンのために入念にトレーニングをしていたし、時間をかけて登り方について考えていました。かなりの体力と時間を費やして実現できたプロジェクトでした。
    Q. 頭のなかに「やってみたい計画のチェックリスト」がノート一冊分あると本には書かれていました。挑戦してみたい対象として「パキスタン・カラコルム山脈のトランドタワー」の名前などがありましたが、ほかに登ってみたい壁はありますか?
    A. パキスタンには来年、遠征に出かける予定があります。実際に登攀が可能かどうかはやってみないとわかりませんが。アジアの山を登った経験は、ほとんど無いので、観光も楽しみながらクライミングができたらと思っています。登ってみたい壁は、世界中に他にもまだまだ沢山あります。
  • Yusuke
    Sato

    厳冬期黒部横断を語る アルパインクライマー佐藤裕介

    佐藤 裕介(さとう ゆうすけ)
    1 9 7 9年、山梨県甲府市生まれ。高校山岳部で登山、クライミングを開始。以後、フリークライミングからアルパインクライミング、沢登りなど幅広いジャンルで活躍を続ける。そのいずれもが世界トップレベルのオールラウンドクライマー。今年の夏にはパキスタン・チャラクサ氷河にあるベアトリス(5800m)で750mに及ぶルート「The Excellent Adventure」のフリー化に成功(11P、5.13a)。日本山岳ガイド協会認定山岳ガイドステージⅡ。山梨県甲府市在住。
    黒部横断とは、後立山連峰を越えて黒部川を渡り、富山県側に抜ける山行のことを言う。厳冬期の黒部は日本でもっとも隔絶された環境であり、黒部横断は国内でもっとも厳しい登山と言われている。1 度でも成し遂げた者は賞賛の声で迎えられるが、その黒部横断を、これまでに11 回にも渡って行なった男がいる。佐藤裕介、日本が世界に誇るオールラウンドクライマーである。2016 年、雪洞泊19 日間の末に、標高差380m にも及ぶ剱沢大滝左壁ゴールデンピラーの初登攀に成功し、32 日間の黒部横断を遂行した。
    黒部横断との出会い
     初めて黒部横断を行なったのは22 歳の時。毎年厳冬期に長期山行をしていたんですが、冬山縦走で一番難しいことをやろうと思うと黒部横断になるんですね。黒部ダムの下流側、十字峡周辺を渡って剱岳に抜けるルートが好きです。もっとも山深くてなかなか逃げられない、隔絶感がすごいところだから。ひたすら湿雪にまみれて、もがきながら10 日間以上登山を続ける。山小屋はどこにもないし、十字峡に入れば無線も繋がらない。自分らの能力で全部解決するというのが絶対前提です。
     学生時代に二回やりました。一度は3月にソロで。その後、経験豊富なリーダーと厳冬期に行ったんですが、3 月と厳冬期は全然違うんですよね。本当に厳しい。もっと経験積んでから戻って来ようと、その後5 年くらい期間が空きました。
    2008 年の経験
     再び黒部横断に戻ってきて、自分の登山観に大きな影響を与えた山行がありました。2008年、剱岳の三ノ窓から池ノ谷ガリーを通過しようと思ったんですけど、そこは雪崩が頻繁に起きるポイントなんです。強い冬型の天候になったときに大きな雪崩に流されました。1.2kmくらい流されて、全員死んでもおかしくない状況でしたが、奇跡的にみんな助かりました。あれ以降、二度目はないなって思ってます。その後、3mも雪が積もる悪天が続いて1週間近く全く動けませんでした。黒部って本当にこうなっちゃうんだって思いましたね。一番隔絶感を植え付けられた経験で、それ以来非常に臆病になりました。それがトラウマになって、翌年は隔絶感に負けました。十字峡ですごい雪に降られて、後立山を登り返して帰ったんです。
     2008 年の経験は、生き残った感をひしひしと感じる、すごい体験でした。あれを越える体験は、黒部以外ではできないだろうなと感じています。中毒性があるのかもしれませんね。やりたくないっていうか、とくに最初頃は行く前が一番不安だったかな。想像するのも気が重い。ちょっとした遠征に行くよりもプレッシャーだったりします。
    八ツ峰、そしてゴールデンピラーへ
     黒部に戻ってきた当時、過去十数年間は厳冬期の八ツ峰は誰にも登られていなくて、黒部横断して八ツ峰を登りたいと思いました。八ツ峰には毎回敗退しましたが、いつもすごく充実した山行でした。そうやって通っていると、対岸にすごい壁や尾根が見えて、行きたいところが増えるんです。そういったルートから八ツ峰を目指して、5回目でやっと登れました。それで次は、それまで見てきてずっと気になっていた壁ゴールデンピラーを登ってみようと思ったんです。
     ゴールデンピラーは高さ380m、最大80度の傾斜がある氷雪と岩と薮のミックス壁です。一番難しいところは薮のない逆層の岩で、手がかりもなく支点も取れない。とにかくすごい迫力の壁です。かつて登ったパキスタンのゴールデンピラーとイメージがピッタリで、黒部のゴールデンピラーと呼んでいました。 
     登ろうと思えば思うほど、いろいろな危険が見えてきて、最初は「取り付くことなど考えてはいけない。危険すぎる」と自分に言い聞かせたほどです。すごい傾斜で、あれを登るって思うだけで、すごくゾッとしました。登るべき課題だとは思ってたんですが、怖くてね。でもとりあえず取り付きまで行ってみるだけでも意味があると思って2015 年にトライしました。けれど悪天候続きで取り付きにさえ行けませんでした。
     通常の黒部横断は予備日を含めて20日くらいなんですが、翌2016年はもっとチャンスを待てるように32日間取りました。荷物もいつもは35kgくらいですが食料を増やして40kgに。体重も6kg増やしました。
    厳冬黒部の悪天候
     一番乗り越えなきゃいけなかったのは天候でした。12月の下旬から2 月いっぱいの厳冬期の黒部は、世界的に見ても非常に天気が悪くて、一週間のうちに晴れるのは一回くらい。ゴールデンピラーは雪崩のリスクが高いところに入って行くので、雪の降らない日が3 日続かなきゃいけないと思いました。降雪後、雪が安定するまで1日は待たなきゃダメ。翌日に剱沢に入って、その日のうちに壁を登り出す。でもあれだけの壁だと敗退する可能性もあるわけで、また雪が降ってきたら登ることも帰ることもできなくなってしまう。だから3日間雪が降らないときを待とうと最初に決めたんです。
     十字峡に入る手前の携帯の電波が入るところで、ずっと待ちました。結局そこに作った雪洞で19 泊して、日程的にあとがなくなって、これはダメかなという感じになったんですけど、とにかく取り付きまで行ってみようと。そしたら意外と登れそうで。あれは、かなり行き当たりばったりでしたね。結局2回のトライ、トータル50日くらいの間で3日間雪が降らないときは一度もありませんでした。想定してたよりも少し悪い天気のなかで行ったって感じです。無駄足になってでも危なくない範囲で奥に進もうとしたのが良かったんだと思います。
    前進への判断
     行っても良いんじゃないかなって思った要因はいくつかありました。まず、途中で天気が悪くなって、雪崩で吹っ飛ばされるようなところしかない壁だったら行けないと思ったんですけど、下から見ると一カ所だけ雪崩を避けられるところがありました。とりあえずそこまでは雪が安定している夜間でも登れる見込みがついたんです。その後の天気はわかりませんでしたが、壁の右のほうに垂直に近い部分があって、すごく難しいけど、そこを登れば突発的な雪崩で死ぬことはないと思いました。けっこう強引ですけどね。そうとう思い入れてた課題だったんで、目の前にしたらもう登りたくなっちゃって。雪洞で19泊して、目の前にある壁は、なんとなく登れそうとなったら、リスクも当然あるけれど、やってみようと。メンバー3人ともがそういう気持ちになれたのが大きかったです。
    トラブルを乗り越えての登攀
     19日間の雪洞生活は入院生活みたいなもので、そこからいきなり重荷を担いで標高差1000mを下ったんで、仲間のひとりが膝を痛めてしまいました。休養して膝が良くなったら帰るというのが正しい判断だとは思うんですけど、どうしても行きたかったんですよね。だからひとりは空身で歩いて、もし行けそうだったら行こうと。取り付きまで行って彼に聞いたら「この壁のためだったら良いかな」って。登っているうちに段々気にならなくなったみたいです。
     ぼくは右手首を痛めました。十字峡に懸垂下降したときに打ったんだと思います。だんだん腫れてきて、テルモスのキャップを開けるだけで「痛い!」ってくらい。これはまずいなと思ったんですけど、今更帰るなんて言えないし、テーピング を少し巻いて、まあ我慢しかないですよね(笑)。
     スノーシャワーが強くなるなかでアックスを振りまくってリス(細い割目)を探し、なんとかピトンを設置して、意を決して進むの繰り返し。非常にシビアで難しいクライミングでした。落ちたら10m以上落下し、簡単に骨折してしまいそうな状況で、非常にプレッシャーが高かったです。右手首は痛さで感覚がなくなり、前腕は乳酸でパンパン。なんとか集中力を切らすことなくそのピッチを登り終わったときは、かなり疲弊してしまって、自分にしては珍しくリードを交代してもらいたいと思ったくらいです。真っ暗ななかで壁を登りきり、テントを設営するときには手首は異様に腫れて箸も持てませんでした。
     黒部横断やってると全部が順調に行くことってないです。必ずなんかトラブルがあるんだけど、それをなんとかして乗り越えないと続かないですよね。
    経験の蓄積
     これまでの8年間で100日以上を厳冬の黒部で過ごしました。何回も入っているうちに黒部でどのように行動するべきかがだんだんとわかってくるんです。
     たとえば、剱沢は雪崩の巣で、側壁の右からも左からもくる。逃げ場がない。雪崩を回避するためには雪質を見るしかないです。どこでどういう雪が降ってどれだけ晴間があって、どの面に日が当たっていればいけるんじゃないかとか。黒部のなかでも標高はかなり違って、十字峡は1000m切ってるんですよ。最悪なことに雨が降ることもある。剱沢大滝でも1500m以下。だから雪が降っても一日太陽が当たったら、けっこう安定するんです。けれど2000m以上だと、雪が溜まってるところがあったら本当に怖い。そのあたりは形状と標高で判断するしかないです。厳冬期の剱沢に入ったことのある人って、たぶん数えるほどしかいません。ぼくらはそこに3回入ってます。長い期間黒部に入ることで、ここの雪質がだんだん読めるようになってきました。
     それから一週間分くらいの食料しかなくてハマったらすぐ逝っちゃうと思うんですけど、20日間分以上用意して行けば大丈夫。悪天候が続いても10日間待てば必ずそこそこの天候になる。そのくらいのつもりで、どんと構えられるようになりました。すごい山深いけど、雪崩の心配のないルートを延々と歩いて脱出する方法もあるんですよ。何度もそういう状況を経験しているうちに、当然緊張する場面はあるんですけど、日程さえ取って、天気の回復を待つ覚悟があれば、なんとかなるんじゃないかなと思うようになりました。
     ヒマラヤみたいな派手さはないけど厳しさは十分にある。雪山の総合力が一番試される場所だと思います。それを克服していくのには、たぶん経験の蓄積でしょうね。雪の中でどれだけ暮らしたか、どれだけ重い荷物を担いできたか。体力とか精神力も含めて、毎年雪山に通い続けるっていう、その蓄積だと思います。
    簡単に手に入るものはおもしろくない
     また今年も行きたいと思っています。ゴールデンピラーを登っていたら、対岸に「あれ良いな」っていうのが見えたんです。まだ登ってない尾根もたくさんあるし、やることは尽きません。黒部横断は、かなり特殊ですね。ひとつの登山のジャンルだとも言えます。あそこまで隔絶されたところはないし、前に進むためには裸になって川を渡らなければいけないっていうのも他ではあまりない(笑)。最高の充実感を得るには良い所です。
     簡単に手に入るものは、たいしておもしろくないっていうのは昔から変わらないこと。苦労して、いろいろ痛めつけられながらも這い上がって行く、その結果、ちゃんと生きて帰って来られれば良い。黒部横断をやったら、結果はどうあれ人生の糧となるような素晴らしい経験ができる。それが黒部横断なんだと思います。
  • The Fact
    about
    Hypothermia

    「低体温症」の真実 整形外科医師金田正樹

    金田正樹(かねだ まさき)
    1946年、秋田県生まれ。71年、岩手医科大学卒業。73年、第二次RCCエベレスト登山隊にドクターとして参加。83年、国際緊急援助隊(JICA)の第一号医師となり、アフガン紛争、湾岸戦争、イラク戦争などの医療支援にあたる。前日本山岳ガイド協会ファーストエイド研修委員長。著書に『災害ドクター、世界を行く』(東京新聞出版局)、『感謝されない医者 ある凍傷Dr.のモノローグ』(山と渓谷社)、『トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか』(共著、同)
    人間の身体が長時間にわたって冷やされることにより起こる疾患に「低体温症」がある。
    低体温症の恐ろしさは、いったん身体の温度が下がり始めたら思いがけず早いペースで、しかも自分の意思に反して意識障害などを引き起こし、やがて死に至るケースも少なくないところである。じつは身近なところで誰にでも起こりうる疾患でありながら、登山愛好者のあいだでも、その実態は意外と知られていない。
    2012 年に出版された『トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか』(ヤマケイ文庫)という本がある。
    2009 年夏の北海道の山で起きた大量遭難事故の顛末や要因を、関係者への丹念な取材をもとに調査・報告した本である。低体温症の実態について仔細に綴られた貴重な論考であり、登山をめぐる状況についても多くの気付きを与えてくれる、山岳愛好者には必読の書といえる。
    この本の著者の一人であり、低体温症や凍傷など山で起こる外傷の治療・施術を過去に数多く手がけてこられた金田正樹医師に低体温症の実態について話を伺った。

    低体温症とは何か?

    ―― 低体温症のメカニズムについてお聞きしたくて来ました。
    人間の体温は常に36度台に保たれるようになっています。そのおかげで正常な活動ができるようにできているわけですが、その体温が35度以下に下がることで発症する様々な身体内の変化が「低体温症」と呼ばれるものの正体です。この場合の体温とは、体温計で測られる体温ではなく、身体の核心部の温度を意味します。核心部とは、内蔵や脳や肺などのことで、これらは人間の活動を維持するために重要な役割を担う、いわば生命維持装置。ですから、どんなことがあっても36度台に保たれるようになっているのですが、これが冷やされて35度以下になると身体に様々な変調が起こります。
    ――人の体温はどのようにして失なわれていくのでしょう?
    人間の体温が奪われる要因として、主に以下の 4 つがあげられます。
    すなわち「放射」「蒸発」「伝導」「対流」です。ふだん着ている服を脱ぐと寒さを感じますね。これが「放射」です。外気を遮断していた服が無くなると身体から熱が逃げるから冷える。
    「蒸発」は水分が水蒸気になるときに熱が奪われる現象、気化熱のことです。汗をかいたあとに扇風機にあたると冷たく感じますね。あれが「蒸発」です。
    「伝導」は、氷の上に座るとおしりが冷たくなりますね。おしりの温度が氷に「伝導」して熱が奪われていくからです。
    「対流」というのは風によって体温が奪われる現象です。風が吹くと身体が寒くなりますね。
    これらが人間の体温を低下させる主な要因です。逆に言えば、これを遮断すれば低体温症にならずに済む可能性が高くなるというわけです。
    ―― 体温低下になる要因が、山には多くありそうですね。
    山で体温が奪われる条件として「濡れ」も大きく影響していますね。雨で身体が濡れた状態のまま長時間にわたって強い風に吹かれたら体温は下がります。これが山で低体温症を引き起こす最も大きな原因とも言えます。実際、山での遭難例を調べてみると、稜線上で遭難するケースが最も多いのです。稜線では強い風が吹く。そこで遭難することが多いということは、風による「対流」によって身体が冷されるからなのです。フリースや羽毛の服など、風を遮断できる服を着ていれば断熱保温効果が期待できますが、身体を防御できないまま寒冷な状況下に長時間いると、どんどん身体から熱が奪われてしまいます。人は寒くなるとガタガタ震えますね。体温が34 度くらいになると全身的な震えがくるわけです。
    人間の熱は筋肉で作られています。身体が冷やされると脳からの司令をうけて筋肉は身体を震わせて熱を作ろうとする性質があります。身体を震わせるには燃料が必要で、その燃料をつくるのが、ごはんやパンなどの炭水化物です。これがエネルギーとなって筋肉を動かすことで熱がつくられる。ですから、ごはんを食べずに行動してエネルギーがなければ、稜線で雨が降って風が吹き、体温が下がり熱を作らなきゃいけないというときに筋肉を動かすことができないので、どんどん体温が下がるわけです。
    体温が33 度になると血液の温度も下がります。血液は酸素や栄養と同時に熱も運んでいます。血液は心臓から動脈を通って身体全体へと流されて循環し、車のラジエーターのような働きをして、人間の身体の温度を調整しているわけです。
    ―― 血液の温度が下がると、どんな変化が起きますか?
    血液中の赤血球の中にはヘモグロビンという物質があって、これは主に鉄分ですが、これが酸素と結びつくわけです。呼吸したときに肺の中で酸素と結びついたヘモグロビンが心臓から送り出され、血管を通って全身の組織へ酸素を送っているわけです。それが毛細血管の隅々にまで届くと、ヘモグロビンから酸素が放たれる。
    それで今度は二酸化炭素をくっつけたヘモグロビンが肺へ戻ってきて、というように身体のなかをグルグル循環している。ところが、血液の温度が下がってしまうと、ヘモグロビンと結びついていた酸素が放たれなくなるんです。
    人間の身体のなかで酸素を最も必要としているのは脳です。脳は人間の各器官にさまざまな司令を出す、いわばコンピューターと同じような役割を果たしているけれど、酸素不足に弱い。高所や、大勢の人が詰め込まれた狭い空間では酸素不足になって頭痛が起こりますよね。それと一緒で、低体温症になって温度が下がると脳に届けられる酸素の量が少なくなって障害を起こすわけです。低体温症になると、かなり早い段階で脳障害を起こし、意識が朦朧として防御する方法が自分で取れなくなる。

    低体温症の恐しさ

    ―― 脳が酸欠状態になって、頭が「ぼーっ」としてしまうんですね。
    トムラウシ山で遭難して生き残った10 人に当時の状況について訊ねてみると「自分に何が起こっていたか、わからなかった」と、誰もが口をそろえて言うのです。報道では装備不足と報じられていましたが、雨具も着ていたし、装備は十分でした。ザックの中にはフリースや長袖の下着が入っていた。ところが彼らは、それを着ていなかったんです。
    ―― なぜでしょう?
    血液の温度が下がって、ヘモグロビンから酸素が放れないせいで脳が障害を起こし、やはり何が起こっていたか、わかっていなかった。寒さを防ごうとすることも忘れて、自分が何をしているかさえもわからなくなってしまう。これが低体温症の怖いところです。
    ―― 脳障害というのは、考えがまとまらなくなったり、まっすぐ歩けなくなるような状態ですか?
    自分の意思とは関係なく、奇声を発する、呂律が回らなくなる、うわごとを言うなど、いろいろです。こんなこともありました。昭和38 年に愛知大学の山岳部が冬の合宿で薬師岳へ向かった。そこで猛吹雪にあって遭難して部員全員が死亡したのですが、その年の冬は豪雪だったので途中で捜索が打ち切られてしまった。春に雪解けになってから捜索へ向かったら、約半分が裸だったというのです。みんな服を脱いじゃった。何故かというと、体温の調整をする脳の中枢が壊れてしまったからです。人間の頭のなかには視床下部という部分があります。脳の中枢司令部にあたる部分で、ここから指令が出されて体温調整がおこなわれます。いわばサーモスタットのような役割を果たしているのですが、寒さを感じると筋肉に震えを起こして熱を作ろうとします。ところが酸素が脳にいかなくなるとこのサーモスタットが壊れて、逆に頭のなかでは「暑い!」という感覚になってしまう。青森の八甲田山での雪中行軍遭難事件を描いた新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」でも、みんな裸になるじゃないですか。あれも同じで、脳の中のサーモスタットが狂ってしまったんです。
    ―― 低体温になることで脳以外の臓器も、やはり変調をきたすのでしょうか。
    肝臓の機能が低下して血液が酸性になったり、心臓が送り出す血液の量も減少したりと、さまざまな影響がありますね。

    防御と回復

    ―― 低体温症の兆候を感じたときに自ら回復する方法はあるのでしょうか?
    まずは逃げることでしょう。これは遠くへ逃げるという意味ではなく、岩影やハイマツの中に隠れるなどして、身体が冷やされ続ける環境から逃げるということです。ツェルトなどで風を遮断することも有効でしょう。
    風を遮断できたおかげで助かった例がトムラウシでもありました。若いガイドさんが低体温症で意識朦朧としてバタンと倒れた、その場所が、たまたまハイマツの中だった。北海道のハイマツは高さが1m くらいあるので、風は上を吹き抜け身体に直接は当たらず、そのおかげで救命されてから幸運にも意識を戻したんです。
    おなじくトムラウシで遭難にあった六〇代の女性は、一人で歩いていたけれど、ザックから断熱マットを出しておしりに敷いた。「伝導」を防いだわけですね。それからザックから寝袋を取り出して、ザックのなかに入って五時から翌朝までビバークしたんです。リュックからものを出したときにチョコレートがあったので、それを食べた。そのとき身体のなかがポーッと熱くなりましたと、彼女は言ったんです。身体の熱源となるカロリーを摂取することがいかに大切かをわからせてくれた例といえるでしょう。
    亡くなった人は、そういうことをしてなかった。大事なのは低体温症をはじめとする山の病気や怪我にまつわる基本的な医療知識を、山へ向かう人ならば誰もが身につけること。ちょっとした行動の違いが、生死をわけるのです。
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