Tomorrow is another day

2017年9月、日本を代表するアルパインクライマー馬目弘仁がめざした頂は、インドにそびえる未登攀のダラムスラ峰西壁。1985年にイギリス隊がトライしたきり、32年間忘れ去られた標高6,446mの岩峰だ。 それは果てしなく難しい岩壁なのか? はたまた、登る価値がない岩峰なのか?
行ってみなければわからない。季節外れの大雨と氷河の後退で苦しめられる馬目さん含むザ・ノース・フェイスチームは、人類未踏の壁を登ることができたのか?!
手に汗握る緊張の連続と、感動と笑いが渦巻くクライマックスは、アルパインクライミングの魅力そのものを映し出す。

馬目弘仁(まのめ ひろよし)

1969年福島県生まれ。ザ・ノース・フェイスグローバルアスリート。高校時代から山岳部に所属し、信州大学在学中に本格的なロッククライミングをはじめる。2009年ネパールヒマラヤテンカンポチェ峰(6,550m)北東壁初登攀など、国内外の山々で先鋭的な登攀を重ねる。2012年キャシャール南ピラー(6,770m)初登攀で登山界のアカデミー賞、ピオレドールを受賞。若手育成のためにアルパインクライマーミーディングを主催し、日本のアルパインクライミングシーンを牽引する。3児の父。長野県松本市在住

1信州・松本まで馬目弘仁
に会いに行く。

待ち合わせ場所のファミレスに愛車スズキ・ジムニーに乗って馬目さんは現れた。
4月13日の金曜日。時刻は夕方18時。気温は7℃前後。
「いやー今日は、昨日とうってかわって寒いですね。」
ジムニーから降りてきた彼の身なりはというと、半袖と素足にサンダル。さすが、アルパインクライマー。寒さに強い。
「いい感じで顔が焼けてますね。いいなあ。最近は山に行けてなくて。」
客席に座るとインタヴュアーの黒い顔を見て、羨ましそうにそう言った。
馬目さんは、高校2年生の長女、小学4年の長男、小学1年生の次男を持つ三児の父だ。

「上の子と、下の子の入学式が重なって、ここ最近忙しかったもんで。」
奥さんと共働きということもあり、子供の面倒をよくみて、一緒に過ごす時間を大切にするよき父親だ。そのなかで1か月も海外遠征へ出かけられるのだから、家族の応援と協力なしではアルパインクライマー馬目弘仁という男は存在しない。
「子供達もこの動画を見てましたよ。『あ、父ちゃん落ちた!』って笑いながら、あのシーンを何度も(笑)おいおい、ほかの場面も見なさいよって。」
馬目さんは岩に登っていないときは、木に登っている。一年を通して松本広域森林組合に勤める木こりである。重機が入れないところでもロープワークを駆使して高木に登り、少しずつ上から切って、ロープで木材を吊り下ろし、伐採を遂行する。林業の世界でも、ピオレドーラーのロープワークが活きている。
ファミレスのメニューを持つ手は、岩のようにゴツゴツしていて、擦り傷があちこちにあった。

「今日も現場仕事だったので、この時間になるともうお腹がペコペコ。食べながらでも話せるようにワンプレートがいいかな。」
インタビューのことを気遣いながら、ステーキがのったピラフを注文した。
そして、ホットコーヒーをすすりながら、小学生が夏休みの思い出を語るようなキラキラした眼差しで、ダラムスラ遠征のことを話しはじめた。

26,000m級の未踏峰に
登りたい。

ダラムサラ峰の西壁に登ろうと決めたのは、昨年4月。遠征のわずか5ヶ月前のことだった。
「パートナーの山岳ガイド上田幸雄(注1)さんはインドに行ったことがないと。ぼくもインドには11年くらい行っていなくて。メルー(注2)を登ったあとはずっとネパールでしたから。あと、近年ネパールは物価が上がっていて、インドの方が安く行けそうだと。それと家族の都合で9、10月しか休みがとれなかったんですが、9月、10月のネパールはモンスーンの影響を受けて厳しい。いろいろな要素を踏まえて、まずインドに行こうと決めました。」

ヒマラヤ山脈は、インド亜大陸とチベット高原を隔てる無数の山塊から構成される巨大な山脈だ。インド領に絞ったとはいえ、無数にある岩峰のなかから、どのようにしてエリアを選定していったのだろう?  「期間は1か月間なので、アプローチが短い、近い山域がいいなあということになっていろいろ探していたら、知人が2016年にダラムスラ峰があるラホール山群をトレッキングしたときの写真を持っていると教えてくれまして。その写真を見せてもらったら、おおなかなかいい山があるなと。ぼくも行ったことないし、上田さんもラホール山群おもしろそうだねと。」
知人が撮影した写真をもとに目標を決める。なんて斬新でアナログでシンプルな旅のはじまりだろう。そもそも馬目さんがいう「いい山」とはどういう山なのだろう?
「かっこいい山ですよね。岩っぽくて。壁もありそうで。充実したクライミングが楽しめそうな。」

こうしてエリアはラホール山群に決まった。続いて具体的なピークの特定がはじまるわけなのだが、その探し方には面を食らってしまった。
「ここからがグーグルアースの出番です。」
知人が提供してくれた血の通ったアナログな『写真』からの最先端テクノロジー『グーグルアース』。傷だらけのイカツイ手が小さいマウスをイジイジしている光景は、まったく想像できない。
「鳥になった気分でインドヒマラヤをずーっと見ていって、ダラムスラの西壁がわりといい感じで。アプローチも短くて2、3日でベースキャンプに入れるっていうんですよね。それはいいなあと。」

グーグルアースで訪れたことがない山域を見ているときって、やっぱり楽しいのでしょうか?
「あれ見はじめると、1時間なんかあっという間に過ぎちゃいますよね。標高差まででるじゃないですか。だから壁の大きさがだいたいわかるんですよね。これ1,000mあるのかな、ないのかなとか。それは、楽しいですよねー。片手に記録集、昔の『岩と雪』(注3)などを広げて記録と照らし合わせながら。上田さんも上田さんでやって。これはどうだ、あれはどうだと、報告し合いながら、ダラムスラの西壁に決めました。未踏だろうというのも大きな決定打でしたね。通常ならじっくり1年以上前から目標とする山は決めるものですが、今回はわりと直前に決まりました。」

3空気が薄い5,000mの
ベースキャンプの娯楽

ザ・ノース・フェイスチームふたりの挑戦を写真と動画で記録するために山岳ガイドであり、フォトグラファーでもある黒田誠(注4)さんがチームに加わった。こうして気心の知れた仲のいい同年代のアラフィフ山男トリオの旅がはじまった。
まずは成田空港からインドの首都デリーへ。
ムービーのなかに馬目さんが空港で本を読んでいるシーンがある。(1:15)
なんの本を読んでいたのだろう? 過去の遠征隊の記録? あるいはヒマラヤ登山の歴史かなにかだろうか?

「いや、あれは村上春樹の『騎士団長殺し』ですね。おれ村上春樹、わりと好きで。普段、あんな長編読めないじゃないですか。遠征に出たときは、ここぞとばかりに本を読みます。成田空港からベースキャンプまでずっと読んでました。」
『騎士団長殺し』ってまだ文庫になっていないですよね? あんな分厚い単行本を上下巻、計2冊もベースキャンプまで持って行ったのですか?

「はい、古本屋で買った厚い単行本です。本は可能な限り持っていきますね。今回は少ない方で、7、8冊。3人あわせたら20冊くらいあったと思いますよ。読み終わった本は、キッチンテーブルに積んでおくんです。そうすると、みんな勝手にそこからとって読む。今回一番面白かったのは、黒田さんが持ってきた吉村昭の『深海の使者』ですね。第二次世界大戦中に日本から同盟国であるドイツへ連合軍に見つからないよう潜水艦を派遣しているんですよ。ジブラルタル海峡を超えると連合軍の勢力範囲なので、ほとんど浮上できない。だから船内がどんどん汚染されて、しかも潜水艦の中は狭くて、これビバークみたいだわって。これビバークよりきついわって盛り上がって。(笑)」

4インドヒマラヤで
大貧民が大流行する日も近い?

ベースキャンプの娯楽といえば、テントの中で将棋(11:37)もやっていましたね。トランプ(10:25)はなにをやっていたんですか? インド人の登山連絡官も参加していたから、ポーカーですか?

「いや、あれは大貧民ですね。大貧民しかしなかったですね。インド人の彼に教えて、4人で。そしたら彼はインテリなもんで、大貧民強かったですね(笑)」

あと、悪天時の娯楽といえば、なんですか?

「みんなiPodは持ってきていましたね。でもあんまり音楽は聞かなかったな〜。」

みなさん、お酒は飲むんですか?

「ぼくも上田さんも大好きなんですよ。登頂祝い用にベースキャンプへビール500ml缶を3本運び上げていました。アタック終わって、山頂踏んでからのビールはさすがにうまかったなあ。3本じゃぜんぜん足んねーやっ、失敗したーって。倍あってもよかったねっていうのが今回の反省点ですね。(笑)」

さぞ、デリーへ下りてからの打ち上げは盛り上がったことでしょう。

「インド登山局のドミトリーに泊まっていたんですけど、公的な機関だからタバコと飲酒は建前上禁止なんですよ。でも上田さんとぼくは、どうしても部屋の中で酒飲みたくて。外でいろいろ買ってきて、ドミトリーでおおっぴらに飲むわけにいかず、じゃあシャワー室で飲むかって(笑)不良高校生じゃあるまいし。どうしようかって話していたら、インド人パーティーがウイスキー持ってきて、おいおめーらも一緒に飲めって誘ってくれたんで、救われましたね。インドのラム酒、美味しかったなあ。」

5ベースキャンプの
楽しみであるはずの食事が苦行?

今回は、長引く雨のせいで停滞日が多くなりました。ベースキャンプでの楽しみといえば、食事だと思いますが、なにを食べていたんですか?

「エージェントに頼んでいたコックさん、いわゆるキッチンサポーターがふたりいて毎食彼らが作ってくれました。基本はダルスープとお米ですね。今回はコックをハズしましたね。いままでで一番ひどかったなあ。いやー、いい人なんですけど、料理の腕がいまいちで。それでいて毎日同じメニューなんですよ。3人とも食にうるさい方じゃないんですけど、さすがにきつかったなあ。毎日豆と米。いやー、やられました。」

日本から日本食は持っていかなかったんですか?

「アタック食は全部日本から持っていきました。だいたい2週間分くらいですね。高度順化と、アタック用の食事です。アタック食といったって、日清食品のカレーメシと詰め替え用のどん兵衛、エナジージェルのショッツ、この3種類だけですよ。あと行動食はインドでグラノーラを買ったり。インスタント系の食べ物は、やっぱり日本から持って行った方がいいですね。インドやネパールにもインスタントラーメンの種類はいっぱいあって、片っ端から買って試してみましたが、ハズすとすごい味ですよ。これは高所では吐いちゃうんじゃないかというくらい。やっぱり日本のどん兵衛が高所の胃には一番優しくて、いいですね。」

6人工物がまったくない
山中で眠りたい。

これまでの遠征先のネパールでは、村々のロッジに泊まって歩くロッジスタイルで、今回は久々にテントに泊まりながら歩くベースキャンプ方式をやったとムービーのなかでおっしゃっていましたね。

「誰もまわりにいないベースキャンプ方式は、やっぱいいですね。明かりがないからほんとに星がバーっときれいで。テンカンポチェ(注5)もキャシャール(注6)もそうですけど、どこにいても何かしら人工物が目に入るんですよね。建物とかほかの隊のテントとか。今回はそれらがまったく見えなくて。ときどき上空をインド軍の軍用機が飛ぶくらいで。たかだかキャラバン2日くらいですけど、社会から隔絶された自然のなかで過ごす1ヶ月は、ほんとよかったですね。」

ダラムスラ西壁のアプローチがあまりにも危険という判断から、目標を無名峰に変更しました。気持ちの切り替えの早さや、写真だけの情報で未踏峰を登りきってしまうところはさすがです。

「転進した無名峰を登っているとき、かなりの確率でこれは未踏だなという感じはありました。ロープで懸垂下降して下りないといけない岩壁なので、登られていればなにかしらの痕跡は残るはずなんですよ。誰も立ったことがない一番上までいってみたいなあとずっと思って、登っていました。結構ドキドキしましたよ。ヘッドウォールって呼んでいましたけど、一番傾斜がきついところがビレー点から死角になるんですよ。もしツルツルの壁のスラブ帯がでてきたら、一回下りて、違う面を探さないといけないですからすごい仕切り直しになるなあと。氷が繋がっているのを見たときは、嬉しかったですね。これで登れると。登っていると、スラブ帯の上に氷が張っているというのがだんだんわかってきて、雪が降って、溶けて、氷に発達して、かえってあの雨がよい方に転んだんだと思いました。」

自分たちが初登頂したという証を、山頂に残してきたりするものなのですか?

「そういうことはしないですね。でも必然的に残っちゃいますよね。頂上から懸垂下降しないといけないので、支点は残る。今回は、岩にかけたスリングが残っています。」

7ダラムスラの西壁に
再チャレンジしたい?

その無名峰の頂上から、ダラムスラ西壁の全容が見えたんですね? どうでしたか?

「やっぱりかっこいいなって思いました。かなり登れるつもりでもいたんですよね。壁の高低差は1000mくらい。アイガー北壁みたいってイギリス隊は言っていたけど、アイガー北壁くらいだったら登れるなと。さくっと登って、釣りでもして帰るか、みたいなお気楽な。ダラムスラ自体は何度も登られている山ですが、西壁は未踏だと思っていました。」

でもそのときすでに、韓国隊が登っていたと。韓国隊がダラムスラの西壁を登ったと知ったのは、いつ頃ですか?

「ずいぶんあとの11月頃でしたね。上田さんから『驚きの情報』とかいうメールが届いて、『登られてた』って。はよ、いうてくれやって感じでしたね(笑)」

これでダラムスラ西壁は未踏ではなくなったわけですが、もう一度チャレンジしたいとは思いますか?

「ラホール山群の30、40年前の写真があるんですけど、その頃といまとでは、山の様子がぜんぜん違ってて。山へ取り付く間に氷河が後退してできた斜面が100m、200m規模でアリ地獄の縁みたいなガレ場がずーっと両側にあるんですよ。ムービーでもありましたけど、雨が降るとあちこちで土砂崩れが起きて。どこの山もそうなんですよね。唯一僕らが転進した無名峰は、氷河からまっすぐ壁が立っているから危なくなかったんです。だからもう一回あの山域に行っても、あのガレ場を越えないといけないと思うと、ちょっと危ないなあと。だから、もういかないかな。」

8K2に登るなら、
6,000m峰を3回登りたい。

馬目さん自身は、8,000m峰には興味はないんですか?

「昔はあったけどいまはぜんぜんないなあ。なんでだろ? ただで行ってこいと言われたら、行くかもしれんけど(笑)。K2は登ってみたいけど、K2に登るお金があったら、6,000m峰3つ登れますよ。あと、8,000m級の山は行ったことがないので、これから8,000m級に登るとなると、まず歩いて登れるノーマルルートを登って自分の体がどうなるかというのを知ることからはじめないといけない。高度順化にも時間がかかるから、最低でも2ヶ月間は欲しいところ。2ヶ月休んだらさすがに首になっちゃうかな〜(笑)」

山の高さはたしかに魅力ではあるけれど、未踏峰であり、クライミングの質にこだわりたいということですね?

「そうですね。標高が高くなると難しいクライミングはできないですよね。酸素が薄いから。よっぽど超人的な人でないと。ぼくはやっぱりテクニカルな壁っぽいルートが好きなので、そうなるとやっぱり6,000mから7,000m前半くらいの方が、全力を出し切って、楽しいクライミングができますよね。」

馬目さんほどのトップクライマーなら、スポンサーを募って遠征費を集められそうですが、なぜそれをやらないのですか?

「そういうのにはエネルギーを注いだことはないですね。申し訳ないですけどね。」

日本のクライマーはみんな自費で遠征を行っているイメージですけど、そういうポリシーみたいなのがあるんですか?

「ないです。みんなめんどくさがっているだけじゃないですか。(笑)」

お金を出させてください!というスポンサーがいたら拒まないということですね?

「ぜんぜん拒みませんよ。ただどういう義理かにもよりますよ。義理が少なければ少ないほど、シンプルには登れることは間違いないですから。でも山にいけるなら、背に腹は変えられない。(笑) ネパールよりもインドの方が安くあがるかと思ったらそうでもなかったですね。結構かかりました。ひとり75万円くらい。50万円くらいで収まると思っていたんですけど、甘かったですね〜。」

9山岳ガイドではなく
林業をやっている理由

多方面から聞かれると思うんですが、なぜ馬目さんは山岳ガイドをやらないんですか?

「山岳ガイドをやってしまうと、土日家にいなくて、子供との時間がなくなるなあと思って。かみさんがわりと仕事が趣味みたいな感じで、多い月には10日以上出張するんですよ。だから子供が小さいうちは無理かなあと。あと6年すると下の子が中学校へあがるんで、ガイドをやるなら5、6年後でしょうか。」

子供たちと山に登ったりするんですか?

「去年ぐらいから、長男と次男とボルダー登ったり、山へ行きはじめました。今年は、テント担いで北アルプスのどっかへ行ってみようかと話しています。下の坊主がやっとオネショしなくなったんですよ。(笑)テント生活でオネショってきついですもんね。」

10これからの目標と
スタイル

次の遠征は、いつ、どこへいくかって決まっていますか?

「だいたいぼくの遠征は、一年おきなので今年はお休みして、来年どこへ行こうかと上田さんと連絡をとりあっていますね。上田さんはペルー行きたいなあって言ってましたね。ペルーもいいけど、ぼくはもう一回ヒマラヤの未踏峰に行きたいなあと思っていて。」

どこか目をつけている山があるんですか?

「とくにはないんだけど、ランタン谷の方へ行ってみたいなあと。また3人と相談して決めたいと思います。今回行ってみて思ったけど、年齢が近いメンバーといくのもいいなあと思いましたね。これまで自分よりもひと回りくらい若いメンバーと行くことが多かったんですけど、さすがに50歳近くなって、20代、30代とでは体力が違いすぎる。もう一緒のペースで動くのは無理かなと。2015年、46歳のカンテガ(注7)のときにそう感じましたね。アドバンスキャンプまでモレーンを越えて、2泊3日、標高差1,000m以上あって。一週間以上の食料と、ハードギアだからひとり30kg以上の荷物を背負うわけです。メンバーとは対等だから均等割。あれはつらかったー。(笑)アドバンスキャンプについたときにはヘロヘロでしたね。2、3日その辺でゴロゴロしてーと思っていたけど、次の日から偵察へ。」

具体的にはどういうところに若者とのギャップを感じますか?

「クライミング自体はぜんぜん問題ないんですけど、ビバークしたときの寒さの耐性とか、回復力とかですね。ビバークなんて一睡もできないんですけど、20代は寝ないなりに動けるんですよね。」

若いメンバーが、馬目さんにあわせるようなカタチになるということでしょうか?

「どっちかというと、逆で、俺の方が引きづられるんですよ。若い連中に。その結果、オーバーワークになりかねないなという気もして。1泊2日くらいなら若いやつと組んでやるのもいいんですけど、やっぱり長期山行となると同じくらいの歳のメンバーがいいなと。そういう意味では今回はよかったですね。」

11味がある山登りをしたい。

50代を目前にして、体力の衰えを感じるようになったということは、これから馬目さんはアルパインクライミングの第一線から退いていくのでしょうか?

「自分でやれる範囲でのチャレンジングなことは、これからも続けていきたいなと思います。そういうことをしている大先輩は世界にいっぱいいますしね。ピオレドールを3度受賞しているイギリス人のポール・ラムズデン(注8)は、ぼくと同じ年なんですよ。彼なんかは自分にあった目標を見つけていますよね。いいとこ目つけるなあと思いますね。味がある山登りとでもいうんでしょうか。アルパインクライミングって、年を追うごとに楽しみ方を変えていく、そういう分野でもあるのかなという気がします。目標の選び方自体も味わいがあるというか。そういうのがいいですね。」

ところで今回登った無名峰ですが、初登の3人に命名権があるということですね。3人でどういう名前にするか考えていたりするんですか?

「どうする?って聞いたら、ふたりとも「うーーーん」って言ったっきり。興味ねーんだなこいつらと思いました。(笑)というわけで決めてません。いずれ初登頂の記録申請を提出したインド登山局から名前どうする?って連絡がくるとおもうんですけど。つけなくてもいいかなー。」

(注1)上田幸雄(うえだ・ゆきお)
1967年生まれ。日本山岳ガイド協会認定の山岳ガイド(ステージⅡ)。富山に移り住んで25年、土着登山を信条に県内、近隣の山々を登る。国立登山研究所講師として登山リーダーの育成にも注力する。ザ・ノース・フェイスジャパンのサポートアスリート。
(注2)メルー峰
ヒマラヤ山脈にそびえる標高6,250mの岩峰。2006年、メルー中央稜「シャークスフィン」を4度目の挑戦で登頂。世界で第2登の記録となった。2016年に公開されたドキュメンタリー映画『MERU / メルー』で一躍有名になった名峰。
(注3)岩と雪
1958年から1995年まで山と溪谷社が出版していた先鋭的なクライミング雑誌。ここに記録を乗せることが当時のクライマーの目標であり、ステータスだった。現在は『ROCK&SNOW』と名前を変え発行。
(注4)黒田誠(くろだ・まこと)
1973年生まれ。信州白馬を拠点に活動する国際山岳ガイド。夏山縦走からパウダースキーまで、幅広く山の楽しみを伝える。山岳地帯での写真やムービーの撮影技術に定評があり、メディアなどでも引っ張りだこのマルチガイド。
(注5)テンカンポチェ峰
ヒマラヤ山脈のネパール領にそびえる標高6,500mの山。2009年、馬目さんは岡田康さんとともに北東壁を初登攀した。
(注6)キャシャール峰
ネパールヒマラヤのクーンブ山群にある標高6,770mの山。2012年、馬目さんは花谷泰広さん、青木達哉さんとともに南ピラーを初登攀した。その遠征が高く評価されピオレドールを受賞。
(注7)カンテガ峰
ネパールと中国の国境付近にそびえる標高6,779mの山。2015年、馬目さんは鳴海玄希さん、青木達哉さんとともに北壁を登攀。
(注8)ポール・ラムズデン
1969年生まれのイギリス人、アルパインクライマー。ミック・ファウラーのパートナーとして先鋭的なクライミングを続け、その功績が高く評価され、ピオレドールを3度受賞している。
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