名古屋近辺にたくさんある富士山

「富士山すべり台」という“登山”する遊具

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  • 2022.6.27 MON

名古屋にお住まいの方にとっては馴染み深い遊具。それは、通称「富士山すべり台」と呼ばれる山の形をした「プレイマウント型」のすべり台遊具。なぜか名古屋とその周辺に集中して存在するたくさんの“富士山”。そんな名古屋市内や市外120カ所以上に存在する「富士山すべり台」をすべて調査、撮影し、『名古屋の富士山すべり台』(風媒社)としてまとめたのが牛田吉幸さん。平日は企業で働きながら、3年かけて富士山を巡礼し、登り、滑り、撮ってきた牛田さんに、“そこにあったらたしかに登りたくなる”不思議な山、「富士山すべり台」とは何か教えてもらいました。

富士山すべり台、知ってますか?

はじめまして。富士山すべり台研究家の牛田吉幸です。
公園などに残るコンクリート遊具の調査をライフワークにしています。

皆さんは富士山すべり台って、見たことありますか?

名古屋になぜ富士山すべり台が集中しているのか

これは主に名古屋市とその周辺のとても限られたエリアに集中して普及した築山型のコンクリート遊具で、裾野が富士山のように大きく広がった形になっています。なぜ名古屋という特定のエリアに山型のコンクリート遊具が集中的につくられたのでしょうか。

ひとつは戦後復興です。かつて石原裕次郎が、名古屋の街を歌った「白い街」(1967年)という曲を流行らせました。城下町の名古屋は市街地の多くが戦火に焼かれ、戦災復興計画によって道路の拡幅などが行われ街が新しくなります。そこらじゅうで工事が進み、樹木もまばらに真っ白なビルが立ち並ぶ風景を半ば揶揄する意味でも、「白い街」と呼ばれたのです。

そうした都市再生の結果として昭和40年前後に名古屋市のいたる所に大量の公園がつくられることになります。1959年には、台風災害としては明治以降最多の死者・行方不明者数を記録し、その後災害対策基本法制定のきっかけにもなった伊勢湾台風がありました(内閣府 報告書「1959 伊勢湾台風」)。その後の復興計画に伴う防災拠点としての公園整備も背景のひとつだったのではないかと想像しています。

富士山すべり台=プレイマウントは現在122基

それまで名古屋市では市の職員が公園をひとつひとつ設計していたのですが、それでは到底手が追いつきません。そこで図面の共通化が図られました。共通図面の中には遊具もいくつかあり、「プレイマウント」という富士山型の築山遊具もこのときに生まれています。これが現在、富士山すべり台と呼ばれているものの原型です。

初めてつくられたのは昭和41年度。後から小公園に見合った小さなサイズも設計され、名古屋市内各所に普及します。また、名古屋市の図面が転用され、アレンジを加えられながら、周辺の市や町にも富士山すべり台は拡がります。それらを合わせると今までに150基以上がつくられ、現在でも122基が確認できています(2022年6月現在)。

お椀型やプリン型などさまざまな築山遊具が全国各地にありますが、富士山型の遊具というのは意外にもほとんど例がなく、名古屋独自の形と言っていいでしょう。数ある築山遊具のなかで、富士山型の特長とはなんでしょうか。結論から言えば「山登りにスピード感をもたらした」画期的な遊具、というのが私の見立てです。

富士山に登ることができて初めて一人前

小さな富士山すべり台ならともかく、大型の富士山すべり台はなかなかに手強い相手。小学校低学年くらいでは、最後まで登りきれずにズルズルと滑り落ちてしまいます。「初めて駆け上がることができたときは嬉しかった」という思い出話を、地域の人から聞いたことがあります。「手をつかずに駆け上がることができてやっと一人前、とても誇らしく思った」とも。

そう考えると、この末広がりの形はよくできているなあ、と感心します。勢いよく駆け込んでも躓いて転ぶようなことはありませんし、頂上に届かなくてもそのまま滑り降りるだけなので安全です。弧を描いた形は、怪我をしないための工夫でもあるんですよね。安心して失敗できる環境があるからこそ、大胆にくりかえしチャレンジできる。まさにこの「安心して失敗できる」点が富士山すべり台の最も優れた点ではないか、と思うわけです。ぐっと視点が高くなる山頂への登頂体験は非日常の高揚感をもたらします。公園の地面をミニチュアの大地のように眺めながら、草地は森に、土は畑に、雨の流れた跡は蛇行する大河に見立てて、空想の橋を架け、電車を走らせ、架空の町を想像する。子ども時代にはそんな一人遊びをしていたなあ、と思い出します。

富士山すべり台に登った子たちは、山頂でぼんやり座ったり、寝転がって空を見たり、友だちとじゃれあったりして、なかなか下りてきません。みんなここにいるのが大好きなのです。気が変わると滑って下りてきては、すぐに折り返して山頂へダッシュ。これを飽きるまでくりかえしています。

最近では珍しいコンクリートの遊具。これからの存続やいかに。

日本でコンクリート遊具が大量につくられたのは昭和30年代半ばから昭和40年代にかけての高度経済成長期。団地などの建設ラッシュで左官職人が多く活躍していたため、コンクリート遊具の製造コストも比較的安く済んでいたのでしょう。当時つくられた遊具の多くは現在、経年劣化を理由に撤去が進んでいます。富士山すべり台も初期のものは設置から50年以上経っていますが、幸いにもこれまで大きな事故もなく、その多くが定期的なメンテナンスを受けて現在も残っています。

2019年に嬉しいニュースがありました。令和元年の夏に新しい富士山すべり台が誕生したのです。名古屋市の若手職員がコンクリート遊具に興味を持ち、設置を決めたとのこと。富士山すべり台は年齢の低い幼児から遊べるので、ユニバーサルデザインの観点からも現代にふさわしい遊具なのです。

この一見古くて新しい遊具が、名古屋の町で末長く見られることを願っています。