親と子とアスリート vol.4 田中正人
かつて人のやる気をなくさせる天才だったアドベンチャーレーサーの父と冷静で人格者の娘
- 親と子とアスリート
- 2021.11.1 MON
大自然をフィールドにトレッキングやマウンテンバイク、シーカヤックなど多種多様な種目を行いながら、地図とコンパスを頼りに決められたルートを踏破するアドベンチャーレース。そんな過酷なレースをプロレーサーとして取り組み、メディアでは指導っぷりから“鬼軍曹”ともあだ名されるアドベンチャーレーサー田中正人さん。
人の気持ちがわからない、自分が正しいという強い自我の時代を経て、意識的に自らを変革してきた田中さんは、どんな幼少期を過ごたのか。そして14歳になる自分の子どもをどう育ててきたのか。チームのプロデューサーでもあり、妻でもある竹内さんも交えて、話しを聞いた。
田中正人
アドベンチャーレーサー
1993年第1回日本山岳耐久レースで優勝し、それがイベントプロデューサーの目に留まり、レイドゴロワーズ・ボルネオ大会に間寛平チームとして出場。日本人初完走を果たす。以降、8年間勤めた化学会社を辞め、プロアドベンチャーレーサーに転向。数々の海外レースで実績を作り、国内第一人者となる。現在、海外レースに出場する一方で、国内イベントの企画、運営及び講習会や、若手育成、アウトドアスポーツの普及振興にも携わる。また、自身の経験を活かし「人間が学ぶものは全て自然の中にある」をテーマに全国で講演を展開する。
絶対的に自分に自信があったから。根拠はないけど。
校舎の裏で一対一の決闘をしていた
–田中さんはテレビで鬼軍曹と呼ばれ、怖いイメージを持たれていますが、どんな子どもでしたか?
もう我の強い自己主張が強くて、自分の考えが世の中で一番正しいと思ってましたね。
意見が対立したら全部論破するし、論破できちゃうから、「ほらやっぱ俺が正しいじゃないか」、「俺の言ったとおりじゃないか」みたいな、そんな超嫌なやつですよね。
ーーそれはいつ頃から?
わかんないですねー。物心ついた頃からかな。喧嘩もよくしてました。口論で埒があかなかったら手が出る。
ーーもはや論破できてないですね(笑)
取っ組み合いのケンカでしたね。だから当然、敵を作ったりしますけれど、それも全然気にならず。
ーーその気にならないというのは、「俺は正しいから正しいことをしているだけだ」という感じですか?
人って人に嫌われたくないとかクラスで仲間外れにされたくなくて、びびってるというか空気読むというかさ。そういうことをする人の気持ちが微塵も理解できなくて。なんかそれって自分の弱みになってない? みたいな。それ本来の自分じゃないでしょ? って。自分は絶対的に自分に自信があったから。根拠はないけど。全然気にならなかったし喧嘩しても気にならなかった。クラスの大勢を敵に回しても全然平気。
ーーなるほど。家の中ではいかがでしたか? ご兄弟は?
2つ違いの姉がいます。お互い小学生のときまでは対等に喧嘩してましたね。でも口じゃ絶対勝てないですよ。口で勝てないから手を出して母親に怒られる。
ーー家の中では、学校のようにはいかなかったわけですね。
小学校の頃、おもしろかったですよ。決闘状をもらって、放課後に校舎の裏で一対一の決闘とかやってました。
ーー我が強い同士で仲がいい人もいたんですか?
でもね、やっぱ取っ組み合いの喧嘩するとそういう人ほど、仲良くなるわけじゃないけど認め合う。そういう不思議な感じはありましたね。僕が嫌いだったのは、番を張って喧嘩する人じゃなくて、その取り巻きなんです。小学四年生のときかな、クラスの女の子が「田中くんがいじめられてます」と議題を提起して、クラスで話し合うことになっちゃった。それでその時すごいショックを受けて、「俺っていじめられてたの?! 対等に喧嘩してるつもりだったよ!」と。何か犯人捜しみたいになっちゃって。番を張ってる人は正々堂々と喧嘩してるから素直に認めたんですけど、取り巻きみたいなやつらがいきなり僕のところに寄ってきて、「僕やってないよね?」とか言い出す奴がいて。その時に「もう本当にこういう人間にだけはなりたくない」と思いましたよ。
卒業式にはランニング姿で
ーーそういう子どもだった田中さんをご両親はどういうふうに見ていたんですか?
これがわからないんですよ。何も言われたことがないんです。
ーー怒られも慰めも何もなかったと?
そういうことが学校で起きていたことも知らないんじゃないかな。家では学校のことを言わなかったし。
ーー先生と面談とかで話しが出たりもしそうですが。
昔の学校の先生は言わないですね。中学1年生の時、明らかに不良っぽい雰囲気のやつらが出てきたんですね。小学生でボクシングをやってるツッパリがいて、僕がなびかないから「ちょっとこの野郎」と思ってたみたいで、ちょいちょい嫌がらせがあって、ちょっと顔を怪我して帰ったことがありました。さすがに親もどうしたんだとなるわけですけど、僕は一切言わなかった。学校内のことは絶対に自分で落とし前をつけると思ってたから。月曜日の朝、全校集会で体育館に集まって、終わると体育館からぞろぞろ出てくる人混みに紛れてそのツッパリから思いっきりみぞおちにパンチくらったんです。痛いとかじゃなくて、もう頭に血が上って、そいつの胸ぐらをつかんで「おとなしくしてりゃいい気になりやがって!」と、取っ組み合いに。先生がバッときて羽交い締めにされて引きはがされて終わりましたけど、あの頃はいろいろありましたね。
ーーそんなことがあっても先生からは言われなかったんですね。
生徒としてはめちゃくちゃ優等生だったと思いますよ。真面目で勉強もまあまあ普通にできたし、部活も一生懸命やっていました。ただ協調性はなかった。
ーー一見真面目な生徒ですね。
小学生の時、冬でも半袖半ズボンの子がいますよね。僕もそうだったんですけど、5年生の時に誰が最後まで半袖半ズボンでいられるかという競争になったんです。僕ともう1人の男が残って、意地の張り合いになって半袖半ズボンでひと冬過ごしちゃったんですよ。
ーー意地の張り合い。
6年生になったら今度はランニングだ!となって、さらにもうひと冬過ごしたんです。で、6年制の最後は卒業式ですよね。卒業式はみんな中学の制服、学ランを着るんですけど、そこで勝ちました!(笑)
ーーえ(笑)
卒業式の前に校長室に呼ばれて、「お前もしかして卒業式にそんな格好で出ないだろうな」って言われて、「大丈夫っす」と言っておいて、言っておいたのにそのままの格好で卒業証書をもらいに行った時の校長先生の苦虫を噛み潰したような顔が、いまだに忘れられない。うちの父親が市議会議員をやっていたんですけど、その卒業式のときに来賓で壇上に上がってるんですよ(笑)。その行動に対して、父は「よくやった」と言ってくれましたね。
ーー自分で決めたことをやるというのはその頃からあったんですね。
好き勝手やってましたね。うちの父親もすごい反骨精神のある人でしたね。
とにかく親からは怒られなかった
泥だらけになっても褒めてくれた両親
ーーお父さんとは普段からいろいろと話す関係だったんですか?
僕はもうすごく父親っ子で。市議会議員ですごく忙しくて、朝起きたらいないし、夜も寝てから帰ってきてすれ違いは多かったですね。だから置き手紙でやりとりをしていた時期もありました。父は釣りが好きだったので、たまに連れいってもらえるのがすごく楽しみでしたね。あと夜一緒に寝る時、とにかく父親の昔話を聞くのが好きで、若い頃こうだったとか昔はこんな仕事してたとか。いろんな話しを聞いていました。
ーーそれはいくつくらいの時ですか?
保育園から小学校低学年の頃ですね。とにかく親からは怒られなかった。例えば小学校一年生の時、マッチを擦るのを覚えたんですね。楽しくてマッチを擦りまくっていたんですけど、ある夜、目が覚めてマッチを擦っていたみたいで、絨毯を燃やしちゃったんですよ。その時も、怒られなかった。外から泥だらけで帰っても褒められてましたし、ある意味相当甘やかされて育ったと思います。そのままを受け止めてもらっていたんだなって。否定されたことがない。
ーー自我の強さとその褒められ続けたことは何か関係があったんでしょうか。
あるでしょうね。こういうことしちゃいけないとか、そういう考え方は駄目みたいのはなかったですからね。
ーーいわゆる思春期的なものはあったんですか?
そうですね。中学2年の頃、自分の性格を見直さなきゃいけないという時期が少しあったんです。友だちとのやりとりで自分がちょっと折れたことがあって。自分が折れた時の結果がいつもと違うんですよね。「あれ、こっちの方がいいじゃん」みたいに思って。僕が自己主張して正論で論破しても、向こうはやっぱり納得しないわけじゃないですか。でもこっちが折れたら、相手は「(え、折れるの? じゃあ、) 僕はこう思うんだけど」みたいになって、自分が素直になって引いてみるとこんなに人間関係が変わるんだって、中学2年ぐらいのときに感じ始めましたね。アドベンチャーレースをやるようになってから、そのことはもっと強烈に思わされましたけどね。
ーーアドベンチャーレースになって初めて団体でやることになったということは、子どもの頃も団体で何かをすることはなかったんですか?
嫌いでしたね。チーム競技は向いてないし自分でもおもしろいと思えませんでした。昔は別に人間1人で生きてりゃいいじゃんぐらいしか思ってなかったですし、中学ぐらいで、将来的に人と接する仕事とか人とコミュニケーションをとらなきゃいけない仕事、営業とか接客業とかは絶対できないし、やりたくもないしと思ってましたね。
ーーそれで研究職になったわけですね。
そうですね、高専の工業化学科に進学して、卒業後すぐに就職して研究所に入り、好きな有機合成実験をやっていました。本当に天職だったと思います。
なのにアドベンチャーレースを途中で知って、打ちのめされて。このまま人生を終えたら人としてまずいなと思って。ある意味、自分の苦手なことをずっと避けて生きてきた。でもそれはそれで幸せなんですよ、自分の好きなことだけやっているんだから。でも、自分の苦手なところから逃げてちゃ駄目だなと思った。アドベンチャーレースは一番自分の足りないものが出るし、自分が一番成長できる場になるなと無条件に思って。そうしたらもう次の年には会社を辞めるみたいな(笑)。
94年に初めてアドベンチャーレースをやって、95年の暮れぐらいに会社辞めて、96年にみなかみに来て、97年にカッパCLUBを立ち上げました。ここを拠点にして、ガイドで収入を得ながら、これでやっていけるとなって今も続いてる感じですね。
僕がやる気を出せば出すほど、メンバーが引いていく
「いちいち命令すんな!」とキレられるキャプテン
――アドベンチャーレースを通して、自分の苦手に改めて気づき、修正をしながら今にまで至ると思うのですが、どんな過程だったのでしょうか。
94年にはじめてアドベンチャーレースに挑戦しました。間寛平さんが「レイドゴロワーズ」に挑戦するためのチームに誘われて、1週間弱のレースでした。地図が読める人間として実質リーダーとしてチームをひっぱっていく立場だったんですが、三日目、めったに怒ることがないと言われた温厚な寛平さんから「いちいち命令すんな!」とブチ切れられたんです。寛平さんはレース終盤には円形脱毛症にもなっていました。無事に完走できて目標は達成できたけれども、自分の人間性について結果以上に不出来さを痛感して。
初期の女性メンバーからは「キャプテンは人のやる気をなくさせる天才ですね」と言われたこともありました。会社を辞めてプロでやっていこうとしていた鼻息の荒い時期でした。
――リーダーなのに指示することに納得してもらえず、やる気も失わせていたと……
チームリーダーの仕事だと思って僕がやる気を出せば出すほど、メンバーが引いていくわけです。その理由が当時まるでわかっていなかった。
――空回りの時期だったんですね。
何をどうしていいかわかんないから、何か学ばきゃと思ってチームワークやリーダーシップについての本を読みはじめました。力強く引っ張るリーダーではなくて、下から支えるサーヴァント型のリーダーシップが大事なんだと本に書かれていて、そうかと思ったけど、どうしていいかわからない。
――今までと逆なわけですもんね。
スタイルを変えなきゃいけないと悶々としましたね。出来上がっている価値観を大人になってから変えるのはそんなに簡単じゃない。崩してしまっても何をしていいかわからない。それで僕の代わりに僕以外のチームメンバーがやる気を出して引っ張ったかというとそうでもないわけです。ある程度は誰かが引っ張ってくれないとダメなんですよね。
現時点でも答えが出ているわけではなくて、ひとつひとつの事象に向き合うことなんです。一番気をつけているのは、相手を否定しないこと。経験の差もあってどうしてもメンバーの発言を未熟と思ってかぶせてしまうのをやめなくちゃいけなくて、でも出ちゃう時もあるから、その時は素直にごめんと謝ろうと。完璧に修正できてるわけではないですが、その場その場で謝って、訂正できるようにはなってきたと思います。
――親からは否定されず、褒められて育ったのに自分が誰かを育てるときには違うものなんですね。
そうなんですよね。でも、わざとらしく褒めても相手にそれが伝わったら逆効果じゃないですか。だから褒めるところがないとなった時は、感謝を示そうと。いてくれるだけでありがたいんだって。結局僕の指導力不足ということになるわけで、過去のことを本当に反省して、「正論は害悪だ」とまで思っていますから。
なぜ僕がこんなにアドベンチャーレースにハマったのか。個人競技だったら絶対人生は賭けていない。チーム競技で、チームビルディングが必要で、しかも詰めていけば自分自身の人間性が問われて、それも変え続けていかなければいけないっていう。そこがアドベンチャーレースのすごいところ。学校でも職場でも時間が終われば、家に帰ってお酒なんかも飲める。アドベンチャーレースはゴールするまで24時間逃げ場がなくて、人間同士がぶつかり合います。チーム4人は一時も離れてはいけないというルールがある。大自然に入っていくと、協力しあわないと出てくることさえできないかもしれないんですから。
「もうお父さんとは今後一切走らない!」
子どもから勉強させられる日々
――2001年にご結婚されて、娘さんは13歳、中学2年生です。お子さんができて、家族もチームになったのではないかと思います。チームビルディングで悩み、実践してきた中で、子育てについてはどうされてきましたか?
たまたま夫婦で価値観が一致していて、特別話し合いはしていないんですけど、とにかくの娘の意思や思いを否定しないで、ありのままを愛してあげたいという思いは強いですね。あとは子ども扱いせず1人の人間として認めてあげること。親が頭ごなしに子どもに対して言うことがないように。そうは言っても、生活しながらの細々としたことは言いますよ(笑)。できるだけ本人に選択肢を与えて自分で決断し、選んでもらうようにしています。
――田中さんご自身は親に褒められて育ってきて、一方で自分のチームをつくった時にはなかなか褒めることができずに努力を重ねてきました。自分の子どもにおいては、親からの影響と自分の経験とどちらから来ていると思いますか?
どっちもあるかもしれないですね。でも、子育てしているというよりも子どもに学ばされてます。すごくおもしろいのが、結局子どももチームのメンバーも一緒なんですよ。メンバーだと細かいことは言わずに限界がきた時にガツンと言われるわけですけど、自分の子どもはほんのちょっとした僕の言動や行動について言ってくる。勉強を教えると熱が入ってくる時がありますよね。そうすると「何で怒ってるの? そんなならもういい、やだ!」とストレートに言ってくるわけです。つまり、チームメンバーも娘ほど素直に言えないだけで、思っているんだろうと気づいて。ものすごく子どもから勉強させられます。
――子どもは正直で、田中さん本来の性格にとってはその素直さがありがたいということですよね。
通っていた小学校が家から2.5キロぐらいあったんですが、「走っていこう!」と言って、朝一緒に走って登校していたんです。 1年間ぐらい続けるとタイムが伸びてくるわけですよ。そこで僕の悪い癖で熱が入っちゃって……。記録が伸びているときは、あとはどれだけ苦しみに耐えて積み重ねるかが大事じゃないですか。その領域に入った途端に、「もうお父さんとは今後一切走らない!」といきなり言われて。
――それはお子さんの気持ちもわかる気がしますね(笑)
本当に学ばされますね。ありがたいです……。
冷静すぎてときにムカつくけど、人格者の娘
――お父さんがアドベンチャーレーサーで、日々トレーニングしていることに対してお子さんはどう見ているのでしょう。
好きなことやってると思っているんじゃないかな。困った親ですよね。「親の仕事は?」と言われても何と答えたらいいかという感じですし。どうやって食べてるのか僕でさえよくわかってない(笑)。アドベンチャーレースの競技に繋がらない仕事はやらないということだけは決めて、お金稼ぎのための仕事は一切していていなかったりもするので。
――お子さんはそのこともわかってくれているのでしょうか?
そこまでわかってるのかなー。どう?
(竹内さん)わかってるよ。
――思っている以上にお子さんは大人ですね。
僕よりすごいですよ。人に対する配慮というか、場を読むというか。学校だと女の子がよくグループをつくりますよね。排他的なグループをつくりたがるのってひとりでいることを恐れる弱さを持っているからで、常に自分の味方、仲間が欲しくてつるんでる。うちの娘は僕と似ているのかそういうのが嫌いみたいです。グループに入れさせられようとするのを一生懸命距離を取っているという話しをよく聞きます。
でも逆に1人で完全に浮いてるような子には積極的に声をかけたり、昼ごはんを一緒に食べるようにしたりしていて。あとは下級生とやたら仲がいい。すごいですよね。人格者なんですよ。僕の子とは思えないくらい。
――お父さんが悩み、格闘している姿を見てきたことが何か影響しているんでしょうか。
(竹内さん)チームビルディングは小さい頃から混ざって一緒にやってもらっていて、大人と対等に話を聞けるんです。あるお題に対してディスカッションをするんですけど、後から家に帰って田中と2人で振り返って咀嚼するんですね。そこに娘もいて、「あの時のあの人はそういう気持ちじゃないと思うよ」ってちゃんと意見を言ってくれるんです。俯瞰して見ることができてますね。だからか、「多分、私は学校の先生に嫌われてると思う」とも言ってました。
――冷静すぎるということなんでしょうね。
母親が感情的に怒ることも時にはあるわけですけど、怒られている娘はすごい冷静なんですよ。一歩引いて見てる。
(竹内さん)それがまたムカつくんですよ(笑)。以前、いじめとまではいかなかったのですが、小学校で父親のことをおもしろおかしく扱われて、「お前の父ちゃん、人殴る」「パワハラー」とからかわれたことがあったみたいで。子どもはよく意味もわからずそういうことを言うじゃないですか。当時は私たちにあんまり言わなかったんですけど、ちょっとあったみたいです。中学校は全然違うところに行っているので、誰にも何も言われず気楽なようです。そこら辺は少しかわいそうだったなと。
――それは学校から言われたんですか?
(竹内さん)いや、「あの時、実はね」って子どもが後から話してくれました。お父さんがやっていることはすごい理解してて、今こういう風だよってレースをオンラインで見て、話したりもしています。後は「まあいいんじゃない、好きなことやってくれたら」と。本人は全くアドベンチャーレースをやる気はないみたいですけどね。
「3人はすぐにありがとうを言う」
ありがとうが言い合える家族
――父と母で役割があったりしますか?
僕はほとんど怒らないんですよ。両親がともに昭和初期の生まれで、家事は女がやるものという考えでお姉ちゃんにはすごく厳しかったんです。でも長男である僕は怒られないという。僕自身もそういう状況に甘えて、家のことをできてなかったという自覚があるので、娘が家のことで怒られてても僕は擁護しちゃうんですね。娘と妻はすごいお喋りで、学校から帰ってきた途端に今日あったこと全部喋ってます。
(竹内さん)子どもが生まれたときに、アドベンチャーレースと子どもを合わせて何かできないかなと考えたことがあって、「ファミリーアドベンチャー」というのを始めたんです。うちの子は2歳から始めて、もう10年くらいなるんですけど大好きで。家族単位の参加で、小学生がひとりいれば後はおじいちゃんでもおばあちゃんでも、従兄弟でも友だちでも誰が来ても5人集まればいいということにしています。ラン、水場、クッキング、オリエンテーリングなど1泊2日でやるんですね。うちの子も一緒に参加して、何年も他の家庭の子どもの成長をずっと見てきました。
(田中さん)子どもだけ集めてやるサマーキャンプはありますけど、うちは親子で集めて親子の絆を深めたり、お互いより理解し合うことを目標にしてるんです。そうすると良くも悪くも親子関係がすごい出るんですよ。親が頭ごなしに命令する家庭は、子どもが萎縮していて、自分の主張があまりないんです。そういうのがすごい見える。そういうのをすべてなくしていきたい。
(竹内さん)そういううまくいっていなそうなチームとか、ひとりになっちゃってるなという子のところに娘が入っていったりするんです。スパイじゃないですけど、あのチームはお父さんがこうで、子どもがこうなっちゃってるよとか、観察して伝えてくれるんです。
――アドベンチャーレースを一緒にやるわけでないけれど、子どもは自分の家族もよその家族も側でずっと見てきて、覚えてきたことがたくさんあるんでしょうね。
(竹内さん)私の両親(子どもにとってはおじいちゃん、おばあちゃん)が娘と実家で過ごした時のことで、すごく言っていたのが、「3人はすぐにありがとうを言う」と。そのことにすごく驚いていて。私たちにとってはいつもどおりなんですけど、家でお皿を洗ってくれたとか布団を畳んでくれたとか、何かやってくれるとお礼を言うんですね。お互い別に意識もしてなかったんですけど、子どももそれをずっと見ていて、お迎えに行くと「ありがとう」、何かちょっとやると「ありがとう」って言うようになっていました。これはその人に敬意を払うということなのかもねと話をしていました。要は1人ひとりにリスペクトしていくこと。チームメンバーにもそうです。ただ、13歳という年齢や時期もあってか「ごめんなさい」が素直に言えないことがあるので、そこはこれからですね。
(田中さん)元々僕はありがとうを言う人間ではなかったんですが、妻の影響ですね。感謝しています!