New Sports Vol.03 ルール -後編-
「ルール?展」から見つけるニュースポーツとルールの可能性
- NEW SPORTS
- 2021.10.29 FRI
六本木ミッドタウンの21_21DESIGN SIGHTで行われている「ルール?展」。私たちの思考や行動様式を形づくっている法律や公共インフラ、契約や合意、マナー、習慣など、様々な“ルール”を取り上げ、私たちの日常に揺さぶりをかけてきます。TikTokがきっかけで起きた予想外の混雑と観客の行動で展示ルールの変更が検討される中で行われた、為末さんとディレクターの三人(法律家 水野祐/コグニティブ・デザイナー 菅俊一/キュレーター・プロデューサー 田中みゆき)によるルールとスポーツ、ゲーム、遊びをめぐる鼎談は、ニュースポーツにどんな視点をもたらしてくれたのでしょうか
(田中みゆきさんはここからリモートでご参加いただきました)。
(前編はこちらから)
遊びにおける秩序形成ができていく中で、社会が自生的に出てくるというイメージはすごくある
ニュースポーツとは何か、を考える
—— 田中さんよろしくお願いいたします。田中さんがいらしたので、ここから改めてニュースポーツについてお話していければと思います。この連載で“ニュースポーツ”と呼んでいるものには具体的な定義があるわけではありません。今のところ“遊び”と“スポーツ”の中間にあるようなものをイメージしています。例えば、勝敗が曖昧だったり序列化されない遊び/スポーツを継続的に続けるにはどういう形が良いのだろう、というようなリサーチとして様々な方にお話を伺っています。
為末 今、言っていただいたように「ニュースポーツを作ろう!」みたいなことをやっています。今回の展示で「鬼ごっこ」についての作品がありましたが、いろいろな取り組みをやったひとつとして、「鬼ごっこを敵味方や攻守がはっきりしていない状態でやったらどうか」というものがあります。すごく乱暴に括ってしまうと、全てが実力によって決定される世界と、全てが運によって決定される世界の間をイメージしています。実力の世界は競技ごとに最適化がなされてしまい、計画されてつまらないところがある。一方で運の世界は努力も何もしようがない。「この実力と運の加減でおもしろさもいろいろ変わるんじゃないか」という議論をしていて。行き着いたのが、サイコロでした。一度やったのは、三つの色のグループに分かれてもらって、面ごとに色が違う三面サイコロを振り、出たサイコロの色の人が鬼になって「追いかける」と「逃げる」が変わるやり方。相手に近づいていかないと捕まえられないけれど、面が変わった瞬間に捕まえられやすくもなる。だから「最適な場所がよくわからない」というところもあったりして。子どもたちは予想外の動きもしたりもしたんですが、そんなことをトライしました。どういう形であれば、既存のスポーツ観にもチャレンジしつつ、参加する人がみんなおもしろがれるようなものできるだろうかという取り組みです。
—— ルールを厳密にしていけばいくほど“スポーツ”と呼ばれるものに近くなっていくというのは、みなさんに共通で認識していると思うのですが。その間でどのようなことがあり得るのかなぁというのが考えていきたいところです。
水野 「ルール?展」の絡みでいうと、硬い社会派な展示が多かったと思うんですけれども、“遊び”という概念はすごく需要だと思っています。社会学者のロジェ・カイヨワや歴史家のホイジンガなどが唱えた『遊議論』と呼ばれるものでは「遊びは社会構成の原初である」と言っています。実際遊びにおける秩序形成ができていく中で、社会が自生的に出てくるというイメージはすごくあるなと思っていて。じゃあ、今の僕らの社会を見てみると「全然そんな風になってなくない?」というところも一方である。もうちょっと“ルール破り”みたいなものをある種肯定的に捉えることができるのか、できないのかというところは、一つのおもしろい論点だなぁと思っていましたね。
—— 為末さんはニュースポーツのあり方として「ヒエラルキーを崩す」ということも前回お話しされていましたけれど、ニュースポーツに他のどんなことを期待していますか。
為末 “スポーツ”と呼んでいる領域を比較的広く捉えています。ヨーロッパだとチェスとかまでスポーツに入ってきます。僕は個人的に“ロコモティブ・スポーツ”と呼んでいるんですが、移動するだけのことを“スポーツ”と呼んでいるものもあります。例えば、泳いでいるのがスイミングになり、走っているのが陸上やマラソンになり、川や海の移動はカヌーになったり、サーフィンになったりしてきた。それらは後に“スポーツ”に入れたけど、もともとは生活に近かった。そういう感じがニュースポーツのきっかけなんじゃないかなと思っています。
もうひとつ、“ニュースポーツ”でおもしろくなればいいなと思っているのは、先程出たヒエラルキーのことです。日常の中にある役割や立場、肩書みたいなものがスポーツをしている間は崩れる、というのがスポーツの役割として大きかったと歴史的には言われています。でも今は、経済的な貧富の差や権力関係、ジェンダーなどむしろ更にヒエラルキーが反映されてしまっているということがある。日常的にヒエラルキーに組み込まれている人がスポーツを介すると、そこからすこし逸脱することができる。終わればまた日常に戻りはするんだけど、戻った時にはすこし違った見え方をするみたいな役割がもうちょっとスポーツにあったらいいんじゃないかと。そんなことを議論しています。
社会の大部分はマジョリティに向けて作られています。…そこで生じた障害を、ある種タフに、自分たちのルールで乗り越えていく創造性
利他的なスポーツやゲームはあり得るか
田中みゆき(以下田中) なるほど。ありがとうございます。為末さんは、展示していた『ルール?』の映像は見ていただきましたか?
菅 時間の都合で観てもらえていないんです。
水野 社会の大部分はマジョリティに向けて作られています。法律なんかまさにそうですけれども。そこで生じた障害を、ある種タフに、自分たちのルールで乗り越えていく創造性みたいなものに着目している作品だと思います。
菅 これは『ルール?』の中の一つの章で、横断歩道の渡り方ですね。目が見えない方の場合、音を手掛かりにするしかないんですけれども。隣の人が持っているビニール袋の音がすごく手掛かりになっていて。パサパサと袋が擦れる音がしたことで、隣で立っていた人が歩いた、つまり信号は青になり車も止まっているので安全に渡れるということが確定したとわけです。こういう音が無いと、本当に今渡っていい状態なのか確定しないため「どうやって渡って安全だと確定させるのか」がすごく重要だということがわかります。
—— 信号無視をする人もいますしね。
菅 そう。だから一人の音だけでは確定しない場合があるんですよ。複数人の音が出てはじめて確定する状況もある。「横断歩道を渡る」という達成条件に対して、「何をもって渡って安全と判断していいのか」はその人固有の能力に委ねられているとも言えます。
—— 田中さんが言ったゲームという意味では、ここではAからB地点に移動することが目的なわけですね。
菅 そうです。スポーツの場合は基本的に達成条件があって、やり方は決まっていますよね。この道具を使わなければいけないとか。だけどもし達成条件だけがあって、やり方の自由度が高まると、ある程度変わってくるのかなという気はしますね。今は達成条件からやり方まで、ある程度定められた上で、どうそのやり方を辿りながら達成するかになっているから最適化が起こる。この渡り方のように、「達成条件はあるんだけど、渡り方、やり方は自由」みたいな。そういう設計ができるとすこし変わってくるのかなと。
為末 なるほど。
水野 まあ、社会そのものはわりとそうなってはいるんですけどね。
菅 そこがきちんとスポーツとして定義される。だから、ゲームのメタファーで言うと、今までゲームのクリアの概念はすごく明確なものが多かったんですけれども。そうじゃなくて、「何をもってゴールとするか」とか“オープン・ワールド”のような単線的にクリアを目指すのではなく自分がそのゲームの中で自由に振る舞えて、ゴールが明確に規定されていないゲームが、最近増えてきています。そういうスポーツの作り方もあり得そうですね。たぶんみゆきさんが作っている作品にもそういうものはけっこうあるんじゃないかなと思います。
田中 そうですね。ゲームで言えば『デス・ストランディング』というゲームクリエイター小島秀夫さんのゲームはご存知ですか? ある荒廃した世界に、物を持ち運びする“ポーター”だけが世界を自由に行き来できるという設定のゲームです。自分がポーターとなって、いろんなところに物を運ぶんですね。運んでいくことですこしずつストーリーが進んでいくゲームなんですけど。その中ですごくおもしろいし、大事だなと思うのが、今盛んに言われている「利他」の考え方が反映されていることなんです。ポーター同士が物を運ぶ量には限界があって、それを超えると捨てないといけないんですよ。ただどうせ捨てるんだったら、誰かの役に立つ場所に捨てるとか。あと「この山はこっちから登った方が登りやすいよ」というメッセージを残しておくとかができる。そういう痕跡がルートの中に残されていて、それが役立ったという反応も全て蓄積されていくんです。だから、同じ「山を登って荷物を届ける」というミッションをするにも、いろんな人の通った跡だったり知恵だったりが繋がって、より良いルートが見つけられていくというのが、すごく画期的だなと。今までは、個人が「与えられた設定でどれだけ早く行くか」とか「目的をどう達成するか」っていうことだけだったと思うんですけれども。他者の過去のユーザーだったり、これからやるユーザーのことも踏まえてゲームが設計されているというのが、すごく大事な考え方だと思っていて。何かそういうことが必要になってくるんじゃないかとわたしは思っています。
為末 今回のオリパラでスケートボードの選手の話でおもしろいなと思う話がありました。我々の古典的なオリンピック系のスポーツは、基本的に新技は本番でいきなり出したほうがいいんですね。体操では新技に名前もつきますし、そのほうが勝ちやすいから。でもSNSがここまで普及したことで、新しい技を先にSNSに上げちゃうらしいんですよ。それを見てみんなが真似をするので、試合までに他の選手もできるようになっていることがあるらしくて。でもそれが「クールだね」という価値観なんです。これまでのアスリートの思想とはまったく異なってきている。それは今おっしゃったような「利他的」と言えるほどは思ってはいないのかもしれないですが、「シェアする」ということがコンペティションの勝ち負けと同じくらいの基準としてある。それがすごくおもしろかったんですよね。
水野 それは、「順位を高めるよりも、コミュニティに対して技を還元したほうがクールだ」というカルチャーがあるということなんですかね。
為末 そうなんでしょうね。我々の世界は順位、メダル以外の評価軸があまりないので、みんなメダルを欲しがります。でも“メダリスト”や“フォロワーが多い”というだけじゃない評価基準が他にもいくつかあって、選手たちの行動や結果が見る角度次第でクールとなる。コミュニティへの還元も大きなひとつの要素なんだと思います。
菅 やっぱり“大会”という概念が独特なんでしょうね。
水野 スケートボードもプロの中では大会はあるけど、アスリート・スポーツ的な競技性がまだそこまで持ち込まれていない。
菅 ストリートで生まれたところからのグラデーションがあるから、大会の概念はまだそこまで強くないような気がしますね。でも、「eスポーツ」は大会の概念が強いですよね。
為末 ええ、我々に近くなっているような気がします。
「ルール自体は悪くない」
「気づく」「つかう/守る」「破る/壊す」「つくる/更新する」
—— 「気づく」→「つかう/守る」→「破る/壊す」→「つくる/更新する」→「気づく」……、という『ルール曼荼羅』が展示されていましたが、ニュースポーツとしてもそれが大事な考えだと思いました。一度ルールを解体しても、結局またルールができて、ある程度固定化していきます。すると、また解体するというサイクルがぐるぐるしてきます。「気づく」「つかう/守る」「破る/壊す」「つくる/更新する」というサイクルがうまく回っているという事例はありますか。
「ルール曼荼羅」
為末 でも今はインターネットのプラットフォームを持っている企業が一番その取り組みが早いのかもしれませんね。
水野 おっしゃるとおりですね。でもそもそも社会自体がそうあるべきだと思うんです。ちなみに昨今、個人情報の保護が叫ばれる世の中ですが、個人情報保護法なんかは3年おきに見直すという規定が法律のなかにあらかじめ入れられています。ポイントはルール自体が悪者なのではなくて、ルールを一回作るとそれがそのままになって思考停止になりやすい、というのがルールの良くない面だと思っています。「ルール自体は悪くない」というのが、僕らが展覧会を企画する時に考えていたことで、ルールは良い方向にも作用するし、良くない方向にも作用する道具である。だから、ちゃんと定期的に見直しをかけることを、あらかじめ自明のものとしておけば、ルールはよりクリエイティブに使えるんじゃないかというのが結論めいた話ですかね。
ただ「何をクリエイティブとするか?」というのはまた難しい話で。建築家の青木淳さんが「原っぱと遊園地」というメタファーを使っています。「原っぱという状態が一番クリエイティブだ」と。要は、遊園地が朽ち果てていって、逸脱が可能になった時に、原っぱが生まれてくる。「原っぱはいきなり設計できるものではなくて。遊園地をまず一回作り、それが廃れ、朽ち果てて、逸脱可能になった状態で、初めて原っぱが生まれてくるんだ」ということを言っていて。「遊び心を持ってどう逸脱させるか」や「逸脱可能性をどう発見するか」というポイントが大事なのかなと。それは見直しにも通じる話で、原っぱをいきなり作るのは難しいという話でもあります。
菅 あと「唯一絶対の完成形は作れない」という前提に立たなければいけないですよね。絶対に歪みは出るし、老朽化もするし、もともと作ったものの構想外のことは常に起きる。「じゃあ、その時に直す」ということが当たり前のモードになっていないと厳しいですね。普通の展覧会はオープン日に完成しているけど、この展覧会は完成していません。だから、いろいろなことをフォローし、メンテナンスしています。メンテナンスはすごく大変で地味です。でもそれをやり続けられるかどうかが、この展覧会についてはすごく大事なところなんだろうなと思います。「何か新しいことをやりました!」とバーンッって出すのは一瞬派手で、みんなそこに飛びつきやすいんですが、本当に必要なことはもっと丁寧で地味なことなんですよね。
同じ立場の人が他にもいるから、その人も利益を得られるようにしよう
当事者は他の当事者を想う
為末 田中さんに伺ってもいいですか? パラリンピアンたちと「こんなのがあるといいね」ということを話していくと、たくさん出てきても最後には「これはリソースやコストとの話になる」と思ったんです。要するに一度デザインしてしまったものを、もう一度ふさわしいあり方にリデザインしていく時の合意の取り方や決め手が、最後は「どこまでコストをかけていくのか」になるのではないかと。それに対して、いろんなマイノリティの方々の声が反映されるシステムがあるのは大事だなと思ったんです。このあたり、どんな風に思われますか。
田中 たくさん言いたいことがあるのですが(笑)…。マイノリティの人たちと話していて、わたしが一番学んだことは、例えば、車いす用の駐車場がありますよね。車いすの友人がそこには「車を停めない」と言うんです。それはなぜかと訊くと、「自分よりもっと重度の人が来る可能性がある。自分はそれほど重くないから違うところに停める」んだと。当事者の人たちは、他の当事者のことを考えている人がとても多いです。目が見えない人に意見を聞く時も、「見えない状態は人によって違うから他の当事者の意見も聞いて欲しい」と言われたり。その感覚は自分にはなかったなと。「同じ立場の人が他にもいるから、その人も利益を得られるようにしよう」という考え方をすごく学びました。
あと、今のお話の具体的な例でいうと、「ハードとソフトの両方が必要だ」ということがまだまだ浸透していないと思っています。例えば、「バリアフリーだけど、すごく待たなければならないエレベーターに乗って行く」のと、「ちょっとした小上がりがあって車いすではそのまま行けないけれど、入り口のスタッフが車いすを一緒に上げてくれる」。どっちが行きやすいかというと、後者の方が行きやすいんですよね。でも、それがあまり認識されていなくて。結局「バリアフリーにしたら、それで終わり」と思っているところも多いんです。ちょっとした障害でも、人がカバーできるように教育されていれば、クリアできるものがたくさんある。一方、駅で駅員さんが「目が見えない人には声がけするように」と指導を受けているんですけれども、ちゃんと目的を持って歩いているのに「お手伝いしましょうか」と毎回杓子定規に止められても逆に困ると言う人もいます。そのソフトの塩梅って一番難しいと思うんですけど、逆にすべての施設をバリアフリーにするよりも余程お金をかけずにできることで。そこのバランスの認識がまだあまりされていないなぁと思いますね。
為末 “利他”という言葉を考えると、利他的な概念がみんなに広がったところにルールを付けて、「利他的でなければならない」システムが導入された途端に、利他性が失われる気がするんですよ。やはり自発的であることが利他的であることとセットである気がして。強制に落とした時に何かが損なわれてしまう気がしてしまいます。ニュースポーツも利他的であることが自発的に出てくるような要素や仕組みがあると、すごくおもしろいかもなぁと、今のお話を聞いていて思いました。まさにそれは「意識を変える」というのがポイントなのかもしれませんが。そういうアイディアはありますか? 強制ではないんだけど、利他性が引き出されやすいデザインというのかな。
音って健常者にとっては単に“音”なんですけど、見えない人にとっては存在と結びついている
耳を澄ますスポーツとはどんなものだろうか
田中 銀座ソニーパークで、6、7月にかけて目が見えない人と「オーディオゲームセンター」というプロジェクトをやっていました。普通のビデオゲームは、目の見えない人はプレイできない仕様なので、「それだったら自分で作ってしまおう」という全盲の男子プログラマーと出会ったことで、世界中にもそういう猛者たちがいることを知りました。独学でプログラムを覚えた目の見えない人たちが、自分で作ったゲームを世界中で交換してプレイし合っているような場があるんですよ、ネット上に。
Courtesy of Ginza Sony Park Project
Courtesy of Ginza Sony Park Project
Courtesy of Ginza Sony Park Project
Courtesy of Ginza Sony Park Project
ウェブ版の「オーディオゲームセンター」は5年くらい前からやっているプロジェクトで、今年初めて複数のゲームが同時にプレイできる場を設けたんです。そうしたら、音だけだったら自分も楽しめるかもしれないと、当事者の方たちがものすごくたくさん来てくれて。会場のソニーパークの運営の人たちは最初「目の見えない人なんて見たこともない」という状態だったのが、行く度にいろんなケアが生まれていたんです。「どういう情報や配慮が必要か」という情報がシェアされ、整備されていきました。誘導の仕方など基本的なことを学べる場所はあります。でも「ゲームをする」という目的を作った時、プレイ中は邪魔だから荷物は床に置いてもらおうか、でも床に置いたら目の見えない人は躓くから躓かない場所を考えようとか、解像度の高いルールが生まれて、アップデートされていきました。「やっぱり当事者がいるだけで、こんなに想像力が進むんだな」というのをすごく感じました。それは、特殊な例ではあるんですけれども、誰でもそういう人が目の前に現れると、もう考えざるを得ないんですよ。その存在を無視できないと、自発的にその人を含めた環境が生まれて、更新されていくというおもしろい例だと思っていて。
水野 この展覧会のテーマでもあるんですけど、押し付けられるんじゃなくて、自分ごととして主体性を作っていく過程で初めてルールが内在化、内面化されていく。そうしないと、むしろあまり意味がないんじゃないかという気はしますね。
為末 「オーディオゲームセンター」はどんなゲームなんですか?
田中 ウェブ上には他にもあるんですが、ソニーパークで展示したのはシューティング・ゲームとレーシング・ゲームとホラー・ゲームです。全てモニタなどの視覚情報を表示するものはありません。レーシング・ゲームの「大爆走! オーディオレーシング」はガイドメロディの音がコースに沿って移動するので、その音に合わせてハンドルを切っていき、ラップタイムを競います。音の方向を認識しながらプレイするのですが、健常者は平均5分くらいのラップタイムだったのに対して、目の見えない人は3分を切る人もいました。
為末 そんなに違うんですね。
田中 そうなんです。いわゆるゲームセンターのように横一列にレーシング・ゲームのシートが置いてあって、プレイ中は誰が目の見えない人かは一見わからないんですね。レースが終わり、立ち上がって移動する時に、白杖を持っていることに気づいて「あ、この人、目が見えなかったんだ」と初めてわかるという場にしていました。
為末 へえ! それはおもしろいですね。
菅 僕も体験させてもらいました。隣に目の見えない方がいたんですが、僕はずたぼろに負け、余裕の最下位でした(笑)。「こんなにできないんだ!」と。でも、できないからつまらないということは全くなかったんですよね。一方で、できないけどおもしろいという感覚はあって。さらに「上手くなったらおもしろくなる」という感覚ももちろんありました。そういうことは大事だなと。
田中 やっていくとみんなすごく上手くなるんです。「いかに聴力というものが無自覚で訓練されていないか」ということですよね。私たちは視覚的な「見方」はすごく養われていると思うんですけれども、「聴き方」はおざなりになっていて。みんながそうしたことを自覚する場として作ったというのもありますね。
水野 確かに100メートル走とかでも下位だとつまらなくなって、みんな徒競走が嫌いになるみたいな世界ってありますよね。「負けてもおもしろい」というのはすごく大事な気がするな。
為末 健常者の方はゲームが終わった後に、世の中がすこし変わって見えるでしょうね。
田中 そうですね。「音からものを想像する」って私たちはあまりやっていないと思うんですね。音って健常者にとっては単に“音”なんですけど、見えない人にとっては存在と結びついているんです。足音から「わりと大柄な人が来るな」とか、「この人は何か焦っているな」とか、そういうところまで想像するんですよね。そういう想像力が私たちには全然なかったなと思っていて。それは「オーディオ・ゲームセンター」をやってすごく学んだことです。
為末 耳を澄ますスポーツって少ないんですよ。音を聴いてはいるんですけど、耳を澄ますところまではいきません。サバイバルゲームが五輪スポーツ入りしたら、耳を澄ますスポーツと言えるかもしれませんが(笑)。耳を澄ます局面がある…、要するに動きが止まっているスポーツ。そういうのは考えたことがありました。
菅 陸上のスタートは耳を澄ます感じもありそうですね。総合格闘技とかは、倒して組んだ時に息遣いで「疲れているな」とか判断することもありそう。あとはコーチの声はけっこういろんなスポーツであるんじゃないかな。
為末 もっと微かに「聴こえたかな?」みたいなのが重要になる感じのもの。聴こえるか聴こえないかわからないような微かな音が勝敗に結びつくスポーツのかたちがあり得るかもしれないなと。
水野 おもしろいですね(笑)。めちゃくちゃ広がりがありそう。
為末 「しーっ…」とするような(笑)。目の見えない人のブラインド・サッカーとかにはそうした要素が少しありますが、選手たちはかなり激しくやっているので。今うかがって、そういうものを開発してもおもしろいかもと思いました。
—— 静寂じゃないとできないスポーツ。
菅 あんまり動いちゃいけないっていうことでもあるのかな。
為末 そういうことですね。動くと不利になっちゃうような。
—— じっとしていることが何らかの競技性を生んでいるという。超ゆっくり動くとか。
為末 剣の達人の動きのような(笑)。
—— 舞踏に近くなってくるのかもしれない。表現的なスポーツにも可能性がありそうですね。
菅 「ばれてはいけない」みたいな。移動がリスクになるということか。
為末 動くときはダーッと動いてもいい気はするんですよ。
菅 お互いに動いてしまえば、音だらけになりますからね。
—— 今度は視覚が有利になってくるということですよね。
菅 ええ。耳を澄ますスポーツ。おもしろいなぁ。カルタもそうかな?
水野 ああ、そうだね。確かにカルタはそういうところがありますね。
菅 そうですね。読む前にばちんって手を出す人がいますよね(笑)。
これから正念場の「ルール?展」
ここから11月末の終わりに向けて皆が楽しめるような希望を見せられるか、バズったまま本当に崩壊していくか…(笑)
—— 「ルール?展」は11月28日まで続きますが、ここからまだ様々にルールが変わっていきそうですね。
為末 “ルール”と“自由”は対立概念として捉えられがちですけど、自分で自分を内側の規範で縛ってしまうようなところもある気もしたんですが、“余白”が問題なんですかね。
菅 まさにその“余白のあり方”、余白をどのくらいにするかが侵食されている現状もあって。
水野 ここから僕らが来場者と一緒にトライしたいのは、少しでも余白が残る方向でのルール作りで、「これをやっちゃダメ」じゃなくて、「〇〇できる」や「ルールを減らす」みたいな方向でルール作りができたらいいなとは思っています。
菅 でも、言葉だけでは人は動かないという。
水野 張り紙はあっても、多くの人に読まれていないですからね。
為末 本当に「ルール?展」の意図通りになっているという感じですね(笑)。
水野 ここから11月末の終わりに向けて皆が楽しめるような希望を見せられるか、バズったまま本当に崩壊していくか…(笑)。
菅 本当に正念場ですね。
為末 11月末にどのような形になっているか(笑)。
—— 正念場、楽しみにしています。
水野 はい、がんばります。