より道したい – 通学路という道と時間
これは遊びではない – 遊びと表現についての本 vol.2
- これは遊びではない-遊びと表現についての本
- 2021.10.6 WED
自分が小学校時代に通っていた「通学路」を覚えていますか? 学校から家までの帰り道、先生も親もいない、どこにも属さない宙ぶらりんな時間だった気がします。より道せず、早く、無事に家に帰ってほしい親や先生。時にひとりで、時に友だちと帰りながら、何か気になるものを見つければ拾い、障害物を乗り越え、秘密の脇道を通り抜ける子ども。遊びですらなかったかもしれない帰り道=通学路という場と時間。
道は何でもないただの地面ですが、何でもないがゆえに使う人によって様々に変身します。
通学路は長かったのか、短かったのか。
道のことを考えています。
歩道、車道、散歩道、ランニングコース、通学路。そんなどこにでもあり、使わない人は誰一人いないあの道です。道で競争が始まれば、そこは競技場になり、落書きをすれば、キャンパスになる。段差があれば登り、つまずき、ジャンプする。道は何でもないただの地面ですが、何でもないがゆえに使う人によって様々に変身します。しかもずっと道としての顔を残したまま。
つまり道はずっとそこにありますが、発見するものでもあるということです。子どもは、そんな道を楽しみ、可能性を見出すことにかけて直感的で、天才的です。昨年7月こんなツイートがきっかけで2006年に出てから長らく絶版だった本が復刊しました。
現在立命館大学の客員教授である水月昭道さんによる『子どもの道くさ』は、その名の通り小学生の子どもたちが、学校の帰り道で日々行っていた道くさの実態を調査、執筆した本です。子どもをめぐる事故や事件がたびたび起こり、安全、安心が求められる時代にあって、子どもの寄り道は親や地域の目から外れてしまう不安や危険から、徐々に失われている傾向にあると言います。子どもの減少による小学校の統廃合で通学範囲は広くなり、スクールバスがその距離をカバーすることで、道は運ばれていくレールと捉えられることもあるかもしれません。放課後の塾や習い事があれば、寄り道をしている時間がない、ということもあるようです。
「まちを形作る住居やお店や空地や道路の間を行き来するなかで展開されていた子どもたちの道くさは、その過程でものを見つめ、考え、想像力を鍛え、人と触れあい、社会の道理に触れることなどを通すことで、子どもの健全な発達と社会化を支える効用を持っていたはずである」
『子どもの道くさ』
今でもやってしまうような道くさのあれこれ
失われてしまうかもしれない「道くさ」を、子どもにとって意味あることと、水月さんは2,000年前後から調査、収集し始めます。全校生徒120名の小学校を対象に数ヶ月に渡る調査で、計60パターンの下校ルートで行われた道くさ257例を9つに分類。
足元の草花や石をなどを見つけた時の遊びを「反応型」、ビルの表口と裏口が繋がっていることに気づき抜け道、近道として使うような遊びを「発見型」、展示ブロックや色のブロックなど、その上から外れないように規則的に歩いたりする遊びを「規則型」など、心当たりがものすごくある分類がなされています。
みなさんも、間違いなくどれかの道くさを経験しているはずです。暇つぶしに押しボタンを押すことこそ携帯電話を見るに変わったけれど、恥ずかしながら今でもほとんどやってしまっている気がします。移動中の「決まった色のブロックの上から落ちたら地獄行き」は毎日のように今でもやっているんじゃなかろうか…
子どもたちは本来想定されているその場の使われ方、あり方ではなく、環境を発見し、遊び、自分と新しい関係を作っていきます。
子どもたちは日常生活を送るなかで、意識的にせよ無意識的にせよ、彼らの周囲に存在する環境との切り結びを行っている。その切り結びに、単なる偶然ではなく必然性が見え隠れしているのであれば、子どもの道くさという言葉に隠された、一見すると、ただ子どもがぶらついてるだけに見える情景は一変する。
つまり、道くさとは、必然的に展開される選択行動が連続的に集まった一つの現象であると捉えることができるのではないだろうか。子どもたちは本質的な必要性を感じるからこそ道くさを展開するのであり、また、そのことにより心理的な満足をも同時に得ているのではなかろうか。(『子どもの道くさ』)
大人が無駄や余白と考えるようなことを、子どもは大事にします。自分で決めたルールに従って縁石の上を平均台のように歩き、高い塀に登り、金網をつたい、落ちている石を家まで蹴り続け、家と家の隙間を通り抜け、いつも親と買い物しているお店の人に挨拶したりします。自分たちだけの道や遊びやルールは、“必然的に展開される選択行動が連続的に集まった”ものなのです。
ひとつとして馴染み深い風景はないのだけれど、どれもなぜか知っているような気にもなる
誰かの通学路は、私たちにとっての何か
通学路の帰り道の風景は、誰にでもあったという意味でとてもノスタルジックです。だからこそ誰かの思い出を聞いたり、見たりした時、自分の思い出と風景がふと頭に浮かんできます。デザイン事務所SOUP DESIGN(現在はBootleg)が自身の出版レーベルPLANCTONから発行していた「通学路」(2010)という写真集シリーズがありました。47都道府県ごとひとりの写真家が当時通っていた小学校の通学路を撮り下ろすというものです。
第一弾として、浅田政志(三重県)、熊谷隆志(岩手県)、佐々木知子(愛媛県)、笹口悦民(北海道)、鈴木理策(和歌山県)、田尾沙織(東京都)、竹内裕二(広島県)、中川正子(千葉県)、中野敬久(埼玉県)、松尾修(長野県)、松岡一哲(岐阜県)、横浪修(京都府)、渡辺慎一(栃木県)の13冊が出ました。その後、47冊すべて出る前に東日本大震災が起こったことで中断。現在にまで至っています。
縦310×横284 mm、16P、写真は10枚というフォーマットで撮られた風景は、写真家たちが子どもの頃に何年も通った歩き慣れた道。家から学校まで1分だったという東京の田尾沙織さんは人やお店に寄り、千葉の中川正子さんはクモやセミ、葉や花を見ています。山の中を通っていた京都の横浪修さんは、小さな歩幅で長く歩いたのであろう、続いていく山道が撮られています。
もちろん見ている私にとって、どれひとつとして馴染み深い風景はないのだけれど、どれもなぜか知っているような気にもなるから不思議です。誰かの風景が自分の風景になるような感覚がなぜ訪れるのか。自分の通学路と同じような風景かと言われれば、そんなこともありません。一本裏の道にはあったかもしれない風景と感じているのか。違う方向へと帰る同級生たちが見ていた風景を想像しているのか。
虫を見るだけかもしれないし、落ちている枝を拾って歩くだけかもしれませんが、当時の彼ら、彼女らは大なり小なり道くさや遊びをしながら帰ったはずです。もしかしたらいい思い出だけではないかもしれません。怒られたり、けんかしたり、いじめられたりなど嫌なことや、心配、不安もあったかもしれません。家に帰りたくなかったかもしれません。でも、帰り道は親も先生もいない、自分だけの自由な時間だった気もします。目的地に着くまでの「途中」は宙ぶらりんな時間で、余白で、ある種の無駄で贅沢な時間でした。
お金のかからない贅沢としての帰り道。
遊びにとって何が贅沢か
どうすれば安全と安心を確保した状態で、子どもが自由で贅沢な時間を享受できるのか。広々とした歩道、車の通れない中途半端な道、私道や地域で共有する道。TOKYO PLAYの嶋村さんがこのサイトのインタビューでおっしゃっていた「PLAYABLE SPACE=遊ぶ場所として用意されたわけではないけれど、遊ぶことが可能な場所や空間、環境」のあり方を、ゆるやかな約束として守ることで、道くさも道遊びも無駄で贅沢なままでいられるのかもしれません。お金をかけた遊びが贅沢なのではなく、主体的な興味と発見と喜びのままに時間を過ごせることの贅沢さを、道くさと通学路は思い出せてくれます。
「寄り道しないで帰りなさい」と日々声を上げていた先生と早く家に帰ってくることを願っていた親の期待をよそに、名付けようもない何かをしながら歩いていたあの時間と道を、私たちは「通学路」と呼んでいます。