子どもが飛び跳ねる柔らかい彫刻

マッカダム堀内紀子とひとつのネット遊具史

  • FEATURE
  • 2021.7.14 WED

1940年、東京生まれ、パートナーの出身地であるカナダを拠点に、80歳を超えるいまもなお現役で世界中にニットの遊具を送り出し続けている

ひとつひとつ手鈎編みで作られた巨大な編物遊具

 箱根彫刻の森美術館に、ナイロンの組紐で編まれた巨大なニットの遊具「ネットの森」がある。手鈎編みでひとつひとつ編まれたカラフルな糸の存在感に、ひと目見た瞬間から引き込まれてしまう。重力と糸のテンションの作用で伸びたり縮んだり、揺れたり戻ったりする糸の膜。子どもたちが飛び跳ね、ぶら下がり、窪みに入って包まれるような感覚を楽しんでいる。揺れる複雑な面と空間を与えられた子どもは、自由に自分の遊び方、くつろぎ方を見つけ遊びはじめていた。

 この印象的な遊具をつくったのは、人口1000人が100年続いているという、カナダのノバスコシア州の村に住むアーティストの堀内紀子さん。1940年、東京生まれ、パートナーの出身地であるカナダを拠点に、80歳を超えるいまもなお現役で世界中にニットの遊具を送り出し続けている。 

 自分のニット遊具は「人間の根源である子宮の中にいるようなもの」だと堀内さんは言う。アート作品としてプレイスカルプチャーと呼ばれることもあるけれど、大事なのは大人がどう定義するかではなく「子どもたちが反応してくれることがうれしい」し、「私と、子どもたち」がいるだけなのだと。

「モンスターだ!と叫びながらみんな散っていきました」

勢いで虫を食べるたくましい子

 堀内さんは代々医者の家系に生まれ、3人の男兄弟はみな医者になっている。弟である聖マリアンナ医科大学名誉教授の堀内勁さんは、日本にカンガルーケアを紹介した人物としても知られている。

 男兄弟に囲まれた子ども時代は、女の子をいじめる男の子たちとケンカするようなたくましい子だったそうだ。そこには「ケンカもあったが、愛情もたくさんあった」。7歳頃、一人の男の子が何かを手に女の子のところに次々走っていく。手の中のものを見た女の子はみんな叫びながら逃げていた。私の前に来た男の子の手を見ると、蛆虫のような蜂の子がいっぱい握られていた。怖いし気持ち悪いとは思ったが、次の瞬間、堀内さんはガバッと蜂の子を手にとって食べたという。「モンスターだ!と叫びながらみんな散っていきました」。理屈じゃなく咄嗟に瞬間で考えて動くという、勇気や反射神経のようなものを遊びの中から学び、「小さい頃、先生から教わる以外のことが、人間の生い立ちにとって大事である」と堀内さんは考えるようになった。

 同級生の80%を男性が占めていた進学校の日比谷高校から多摩美術大学テキスタイル科に進学。染色や織物を学んだ後、海外への留学者がほとんどいなかった時代に、アメリカのミシガンにあるクランブルック・アカデミー・オブ・アートの大学院に入り、テキスタイルについてさらに勉強を続けた。

 卒業後はBoris Kroll Fabricsでテキスタイルデザイナーとして仕事を始めるが、デザイナーとしての自分に疑問を感じ、仕事を辞め一度日本に帰国。ところが、米ジョージア大学から声がかかりテキスタイル科で教鞭をとることになった。生徒をいきなり森へと連れ出し、糸を手に森を走り回りながら木々に糸を張り巡らせてタペストリーを作るという、まるで遊びの延長のようなユニークな授業を行っていたそうだ。

 教えることも好きで給料もよかったが、「この状況は穏当過ぎる。このままでは私はダメになってしまう…」と思った堀内さんは1年で辞め、本格的に日本に戻った。30歳のときだった。

出てきたのは「やめて!」ではなく
「すばらしい! もっと入っていいよ!」という声

突然入ってきた子どもが答えだった

 帰国後、友人でもあった建築家坂倉準三さんの妻、坂倉ユリさんから「文化学院で週に一度、教えてくれないか」という誘いを受ける。坂倉ユリさんは、与謝野晶子、寛らとともに文化学院を創始した西村伊作の次女でもあった。当時、大学のテキスタイル科を出た若者が多く集まっていた文化学院をおもしろい場所だと感じた堀内さんは、週一日の教職に復帰。

 同時にアーティストとしても個展を行い、作品の発表を続けていた。最初に開いた個展は、糸が作り出す彫刻的な形態をテーマとした作品だったが、周囲からの熱い評価とは裏腹にどこか納得がいかず虚しさが残ったという。

 ひたすら本を読んで考える半年を過ごした。堀内さんが気づいたのは、「テキスタイルは、人間の皮膚の代わりに作られたのだ。世界中のあらゆる所で人間を保護するためにできるだけ快適なものとして作り上げられた構造体なんだ。繊維は自然であり、科学的なものでもあり、人に一番近く、柔らかい、ストレッチャブルなもの。だからただの彫刻的造形ではいけない。『細胞は繊維で作られたストラクチャー』にとても似ている」ということだった。

 そして71年、友人のアーティストと「細胞」をテーマに展覧会を開いた。そのとき、以後遊具を作り続けることになる大きな出来事があった。白のナイロン糸を用いた部屋いっぱいの四角い鈎編みの作品を作り、真っ暗な会場にブラックライトを灯すことで網目が浮かび上がるという幻想的な作品だったのだが、母親に連れられて入ってきた子どもが「うわー!」という掛け声とともに作品の中に飛び込んでいったのだ。

 本来は当然やってはいけないことだったが、堀内さんから出てきたのは「やめて!」ではなく「すばらしい! もっと入っていいよ!」という声。子どもが入った瞬間、「細胞(=作品)」が生き始め、生き物みたいにうねり、動き出したのだ。「これがわたしが探していたものだ!」と手に力が入った。

「メンテナンスが必要な遊具を入れることで、
遊具の文化は変わります」

メンテナンスをし続ける遊具の意味

 堀内さんは子どもと自分の作品をつなげたいと考えた。アメリカで暮らしていたため、日本の子どもの遊び場がいまどうなっているのかを知らなかった堀内さんは、文化学院の生徒たちと3人で月に1回、3年間都内の公園や遊び場を片っ端から調査し、研究した。なかなか子どもに関わる作品が発表できないままだった70年代の終わり頃、かつてジョージア大学で教えていた生徒で、造園家、ランドスケープアーキテクトになっていた高野文彰さんが、国営沖縄記念公園の海洋博公園プロジェクトに声をかけてくれたのだ。

 そこで、現在使われているネット遊具の原型にあたるものを提案。「集団ハンモック」というアイディアを形にしたものだった。当時の所長はそのアイディアに「ネット遊具はメンテナンスが必要になるから大変だ」と声を上げた。堀内さんは「どうして子どもたちの遊具にメンテナンスを入れることが難しいのでしょうか。遊具は日本の社会の新しい文化です。今までのように一度作ったらお終いという考え方では文化的発展はありません。子どもたちにもメンテナンスは必要なように、遊具にも必要です。メンテナンスが必要な遊具を入れることで、遊具の文化は変わります」と答えた。話し合いの結果、所長は納得し「やろう」と言ってくれたが、役所の半分はそれでも反対したという。結果所長の判断で設置が決まり、メンテナンスをしながら20年以上愛された。現在は堀内さんの作品を元にした新しいネット遊具が使われている。

 沖縄の作品発表後、見た目を真似た遊具が他の企業などから様々に出てきたという。だが、メンテナンスが必要な遊具というアイディアが広まったと堀内さんはポジティブにも捉えた。堀内さんは、糸を染める色の調合から染め、組紐加工の作業まですべて自分たちで行っている。現在では機械編みも使っているが、作品によってはすべて手作業で編みながら形を作っているため、どうしても時間とお金がかかってしまう。それゆえどうしても大きな組織のように安価で早く製作するということが難しい。「自分たちにお金が残っているわけじゃないんですけどね」と笑ってみせる。

中谷芙二子さんを沖縄と同じく設計者であった高野文彰さんに紹介。中谷さんは「霧の森」を、堀内さんは「虹のハンモック」を昭和記念公園の「こどもの森」に作ることになった

昭和記念公園から滝野すずらん丘陵公園、箱根の彫刻の森美術館へ

 アーティストとして現代美術の世界で活動を続けるなか、沖縄のプロジェクトで堀内さんの作品設置に反対した方が立川市にある昭和記念公園の所長になっていた。「あれから子どもが二人生まれて、あの遊具で子どもが遊んでいる姿を見たり、他の公園の所長をやってみて、堀内さんの遊具の素晴らしさに気づいた」と連絡があり、新たなネット遊具の設置を相談してきたのだ。役所側から直接声がかかったことに感動した堀内さんは即座に引き受け、霧のアーティスト中谷芙二子さんを沖縄と同じく設計者であった高野文彰さんに紹介。中谷さんは「霧の森」を、堀内さんは「虹のハンモック」を昭和記念公園の「こどもの森」に作ることになった。その後、昭和記念公園の遊具は素材を沖縄のものより耐久性のあるナイロンとヨットで使われる金具に変更し、いまなお使われ続けている。メンテナンスを続ける遊具という思想はこうして活きている。


 さらに縁は縁を呼ぶ。昭和記念公園で若い課長だった方が、北海道の滝野すずらん丘陵公園の所長に就任。沖縄、昭和記念公園と一緒だった高野文彰さんがネイチャープレイグラウンドというコンセプトで公園全体をプランニング。堀内さんにも声がかかった。空間半分が地下に埋まった高さ20メートルの不思議な「虹の巣ドーム」の中に、大きな蜘蛛の巣のような、蜂の巣のようなネット遊具「虹の巣ネット」を作った。大小のネット遊具二点と床には巨大ないも虫が丸くなったり、動いているようなクッションが置かれている。

 「虹の巣ネット」は年齢や運動能力に応じた遊び方を選ぶことができる。ネットの揺れやうねりによって、紐を通じて離れて遊ぶ子どもたち同士が影響を与え合い、全体と部分が関係し合いながら大きな共鳴を生み出していく。知らない子ども同士が空間を共有し、いつの間にか一緒に遊びはじめている。飛び跳ねるだけでなく、寝ているだけでも揺れは伝わってくる。自分で楽しみ方を変えられることで、障害を持った子と健康な子が一緒に遊ぶ場にもなっているという。

 沖縄のプロジェクトの後、81年に箱根彫刻の森美術館の姉妹館である美ヶ原高原美術館に「おくりもの:未知のポケット」を設置。その後、86年に箱根に移設され「ネットのお城」として20年以上親しまれたが、消耗も激しく、2009年リニューアルが決まる。建築家・手塚貴晴+手塚由比さんによるコラボレーションにより金物を使わずに木材を重ねた構造とネット遊具による「ネットの森」としてリニューアル。その後、2017年にさらなる改良が加えられ、現在の姿となってたくさんの子どもたちを迎え続けている。

エンジニアリングやサイエンスとアートのエッジを歩きたかった

テキスタイルとエンジニアリングやサイエンスは近い

 箱根はもちろん、堀内さんのこうした仕事は、81年の仕事以降ずっと構造設計家の今川憲英さんが構造設計を担当してきた。そして自身アーティストである夫のチャールズ・マッカダムを始め、関わる様々な人の協力と協働があってこそできてきた仕事だと、堀内さんは強調する。

 昭和記念公園で声をかけた1933年生まれの中谷芙二子さんをはじめ、堀内さんは同時代の女性のアーティストや建築家とも仕事をしてきた。71年に女性建築家の草分け的存在のひとりである山田初江さん(1930〜)に声をかけてもらい、山田さんが林雅子さん、中原暢子さんと女性3人で設立した「林・山田・中原設計同人」設計の幼稚園「五月保育園」のために制作したのが、堀内さんの最初の子どもための作品だった。園長の思いに共感した堀内さんは、その時制作したネット遊具を園に寄贈したそうだ。

 編み物や織物を用いた表現は、女性が担う表現の先にあるものと語られることも多い。堀内さん自身、編み物を始めたのは母親の真似からではあったが、彼女が考えているのは男女や生活という切り口ではなく、構造体とテンションからなる形態とストラクチャーであり、「テキスタイルとエンジニアリングやサイエンスは近い」という思いだった。

 「織物は女性のやる仕事という印象があるかもしれませんが、そういうこと以前にストラクチャーなわけです。経糸と緯糸で作る織物は四角の並びだけれども、鉤編みは六角形の構造体です。六角形の構造体というのはつなげていくと伸縮しながら有機的に広がることができる。そういう構造を駆使して、エンジニアリングやサイエンスとアートのエッジを歩きたかったんです。自分の名前が糸偏に己で紀子と書くのに“のりこ”ではなく“としこ” と読ませるという、ちょっと捻くれた名前だったこともあって、“糸”と“己”の道を歩んできました。恐ろしく自我が強くて、糸にこだわったっている人生(笑)。好きだと思うこと、おもしろいと思うことをずーっとやり続けてきた。心に触れるものを作ってきたと思います」

私たちが作り出すものは人間にとって根源的なもの

これから何十年も先へ

 初めて子ども向けのネット作品を作ってから、50年が経った。堀内さんの作品で遊ぶ子どもたちに変化はあったのだろうか。「子どもは変わりません。それは私たちが作り出すものは人間にとって根源的なもので、子宮の中にいるような感覚があるものだから。」

 現在、インドとイラクで作品制作が動いているという。イラクは建築家からの依頼で、イラク戦争で親の亡くした子どもたちのための図書館に設置される作品。日本でも、箱根彫刻の森美術館で協働した手塚貴晴+手塚由比さんと幼稚園のプロジェクトが進行中とのこと。安全や耐久性のこともあり、堀内さんの作品で遊べるのは基本子どもだけだ。大人だって遊べたら絶対に楽しいのが目に見えているだけに、大人であることが悔しい。これからもメンテナンスされながら、たくさんの未来の子どもたちを楽しませてくれるはずだ。