遊びが生まれる場所、遊びが許される場所はどこ?

TOKYO PLAY 嶋村仁志 インタビュー

  • FEATURE
  • 2021.7.14 WED

 子どもや親をはじめ、他の子ども、他の親、大人、近隣、法律、マナーなど、子どもが遊ぶ場は多くの関係のなかで成り立っています。私たちが遊ぶとき、何が許され、何が禁じられているのでしょうか。そしてその境界をどうやって見分け、また馴染ませていくのか。子どもの発達に必要な遊びが大切にされる社会を目指し、活動するTOKYO PLAYの代表・嶋村仁志さんに、子どもの遊びと自由や責任、リスク、これからの遊ぶ場所のことなどの話しを聞きにいきました。

守るべきことは守りながらも
もう少し自由にさせてあげたいなと思うこと

遊びたい子どもと遊ばせたい大人

 子どもは誰にも邪魔されず思うがままに遊びたい。大人も子どもには好きなこと、おもしろいと思うことをいくらでもやってみてほしい。そんなふたつのシンプルな願いは、なかなか思うようなかたちでは実現しません。

 子どもが他の子とケンカし始めることもあれば、危ない遊具の使い方をしていることもある。一人で転んで怪我をしたり、よくわからないものを食べていたりもします。大人だって心身ともに疲れていることもあれば、仕事が終わらないまま子どもの遊びに付き合うもソワソワして早く帰りたがることもある。一緒に遊ぼうと言われても急には体が動かなかったり…。

 大人は「(危ないから)やめなさい」や「そっちに入っちゃだめ」「静かに」と子どもの遊びに制限をかけます。多くは子どもを守るためや法律上守るべきこと、迷惑をかけないように注意すべきこと。一方で守るべきことは守りながらももう少し自由にさせてあげたいなと思うこともないでしょうか。

自由は絶対的なようで、人と人の関係の中で伸び縮みするものだと思う

白と黒の間をさぐることの大切さ

 嶋村さんは、イギリスのリーズメトロポリタン大学でプレイワークを学び、帰国後は羽根木公園をはじめとする冒険遊び場のプレーリーダーとして活動してきました。現在はTOKYO PLAYの代表や日本冒険遊び場づくり協会の理事なども務め、国内外に様々な子どもの遊ぶ場をつくっています。

―嶋村さんは子どもの遊ぶ自由といまの環境についてどう思っていますか?

嶋村 自由は絶対的なようで、人と人の関係の中で伸び縮みするものだと思うんです。周りの人とのコミュニケーションが取れていればいるだけ、その場の人の自由は大きくなる。逆に関係がなくなればなくなるほど、遊べる範囲も行動も限られてきます。

―遊べる場所や遊ぶ人、入ってもいい領域、音や声の大きさなどをお互いが理解しあっているかということですよね。

嶋村 そうです。お互いの言いぶんがあるから、関係が断絶されたら全部やめましょうとなってしまう。公園の禁止事項もそうですよね。硬いボールでキャッチボールしていたら、たしかに乳幼児を遊ばせている親は怖い。でも、危なくないように場所を少しずらしてもらうとか、柔らかいボールにできないかとか相談できたら、どちらもそこにいることができる。

―白か黒かではなく、間にある広いグレーゾーンのどこで納得しあえるかを探ることで互いの自由が確保される。

嶋村 非認知能力が大事と言われるようになりましたが、0か1ではないその場での最適解を探すことをせずに、非認知能力が育つだろうかと。違う考え、違う目的を持った人がいる場所で「お互いが最大限にやりたいことを実現できるように、よい関係、よい環境を作れること」こそ、本当の非認知能力だと思うんです。子ども時代に非認知能力を育てる意味が、大人になったときの個人の社会的成功のためになっていて、遊びが単に個別の能力を伸ばすための手段や道具になってしまっていないか心配しています。

世界に順応して、乗り越えていくことを遊びを通じてやっている

不確実性のなかで遊ぶ

―子どもにとって遊びは何かの手段でも目的でもなく、遊びは遊びそれ自体が目的で手段なわけですよね。

嶋村 不確実性が高くてよくわからない状況で遊ぶことは、人間の本能的に備わっているもの。そんな中で自分から試して、成功も失敗もして、試行錯誤を繰り返して、カオスな状況をカオスじゃなくしていく。「世界に順応して、乗り越えていくことを遊びを通じてやっている」わけです。

―答えのわかっているものや与えられた環境や道筋からだけでは、得られないものが遊びにはあると。

先日「子どもの遊ぶ権利のための国際協会(International Play Association・IPA)」のヨーロッパ大会がオンラインでありました。今回のメインテーマが、「不確実性と挑戦のなかで遊ぶ(Playing in Uncertainty and Challenge)」。不確実性を象徴するようなコロナ禍という状況を踏まえたものだったわけですけど、不確実、不安定な状況のなかで子どもたちはコロナごっこをやったりして、遊びに取り込むことで状況をコントロールしようとしています。子どもは無意識でしょうが、そうやって不安な気持ちを乗り越えたりしているんです。

―コントロールできない状態を遊びとしてコントロールできるものに変えた。

嶋村 IPAの大会では、「アウト・オブ・コントロールをコントロールする」ことが大事だよねという話が出ていました。僕が専門でやっているプレイワークの分野でも、「秩序とカオス」という両端の幅の中でどう行き来するかという考え方があって、子どもが遊ぶなかでそのまま行ったら死んでしまうような領域をカオスと呼んでいます。秩序とカオスの境目にある「カオスの端っこ(edge of chaos)」を体験して、それ以上は命に関わる危険があると学んでいくわけです。

「リスク・ベネフィット・アセスメント(リスクと利益の事前評価)」という考え方の大切さ

挑戦を残しながらいかに危険を減らすか -リスクとベネフィット

―自由とリスクのバランスを知るわけですね。危険には、リスクとハザードの二つがあるとのことなのですが。

嶋村 リスクは危険の可能性そのもので、ハザードは物理的な危険で身体的なダメージの可能性があるものです。リスクは、挑戦するとか冒すとか言いますよね。

―たしかにハザードにはその言い回しはないですね。

嶋村 「リスクを冒す」というのは人間にとってとても必要なことです。

―なぜですか?

嶋村 「リスクを冒す」とき、極端な言い方をすれば生死に触れるわけで、コントロールできないカオスを自分のなかでコントロールすることになる。高いところに登ろうとするし、飛び降りようとする。それは子どもの発達要求でもあるわけです。

―なるほど。では大人はそのときどう対応すればよいのでしょう。

嶋村 周りの大人はその挑戦が子どものダメージにならないように受け止めてほしい。最近「リスク・ベネフィット・アセスメント(リスクと利益の事前評価)」という考え方の大切さについてよく話をしています。子どもが何かやりたいことがあったとき、その危険の可能性を測り、それによって子どもが得られるベネフィットと比べ、ベネフィットが上回っていれば、それはその子にとって価値があるよねと。その上で、リスクを少なくしていくためにどうしたらいいかという考え方のことです。冒険遊び場やプレーパークも、大切にしているのはそこなんです。

―リスクを減らしていくことと安全にしていくことの線引はどこに?

嶋村 リスクを減らすことは、挑戦を減らすことではないんです。例えば小さな子は頭が重いから、窪みを作って焚き火をするとそこに落ちてしまうとか、気づかないような危険はないほうがいいですよね。

―挑戦をいかに残しながら、危険を減らす。

嶋村 プレーパークでは何人も滑れるような幅の広い手作りのすべり台があるんですが、階段ではなく傾斜を登ろうとしている子が危ないからやめようと伝えたかったとしても、ただやめさせるのではなく、自分がやろうとしていることがどういう危険であるかを分かるようにしないとダメだと思うんです。止められて傾斜を登ることがダメということだけを覚えて、傾斜を登っている子に「あ~、いけないんだ~」と言う子どもばかりが増えてしまったら、それで遊び方も子ども同士の関係も終わってしまう。その上、本当は何が危ないからダメなのかも分からないまま。その先が本当はあるはずなんです。そんな風に言っている子も本当は「僕も登りたい」と思っているわけですから。そうすると、「僕も登りたい」ということを言えない子に育てることも可能なわけですよ。いま多くがそうなってしまっているんじゃないかという危惧があります。

すべての子どもが遊べるということが文化になってほしい

遊ぶことが贅沢品であってはいけない

―プレーパークは「自分たちの責任で遊ぶ場所です」という看板も出ています。責任の所在を行政に帰さないことで自由を確保しているということなのでしょうか?

嶋村 責任逃れをしたいというよりも、何十年も前から大人の世界では、誰かに何かをさせたくないために「責任取れるの?」という言葉を使ってきました。それを言われたら、言われたほうはやめるしかないですよね。だから、看板の意味は「責任を子どもたちに返してあげよう」という意味なんです。いまは「自己責任」が他人を責めるためや責任逃れのために使われてしまうきらいがあるけど、本当の趣旨は違う。子どもたちは自分でやらかしちゃったことには「責任を取る」んじゃなくて「責任を感じる」んです。それが大事なこと。

―なるほど、誰かを責めたり、責任を逃れるための言葉ではなく、子ども自身の遊び方と関わる意味があったわけですね。

嶋村 様々なことの根には関係の貧困があると思っています。大人同士の関係が貧困なばかりに、子どもが本当はやれたらいいこと、やってもいいことが空気の読み合いで「やめなさい」となってしまう。それでうまくいくこともありますけど、そこを解きほぐす仕組みがいまの社会には必要。そのひとつがプレーパークかもしれないし、道遊びイベントのような取り組みでご近所同士の顔が見える環境をつくることかもしれません。

「僕にとって遊びは人生を手作りするための練習だった」


―関係の貧困もそうですし、経済の貧困問題もあります。都市ではどこで遊ぶにもお金が発生しがちです。あらゆる子どもが、経済的な状況や家庭の状況とは無関係に、生活圏の中で無料で自由に遊べる公園や冒険遊び場に繋がれるといいですよね。

嶋村 GOLDWINさんも儲からなくなってしまいそうですけど(笑)。「遊ぶことが贅沢品であってはいけなく」て、すべての子どもたちに許された本能であり、基本的人権であると考えたとき、街として公園や遊び場をどう確保するかを考えなくてはいけないし、「すべての子どもが遊べるということが文化になってほしい」。ヨーロッパの道遊びはすべての子どものためにという意味で、貧困対策としても機能しています。

―子どもが遊ぶとき、遊び方のルールと人間関係のルールがあると思うんですが、プレイワークでは人間関係に介入はするのでしょうか?

嶋村 重大な危険がない限り、基本的にはほぼしません。適切な介入の仕方を選べることが大事。入らないで済むときは入らない。大人がやってしまいがちなのは、そこに無理に学びを持ち込んだり、子ども時代の遊びきれてなさを解消しようと子どもの遊びを乗っ取ってしまうこと。大人が勝ち負けにこだわっちゃうようなね(笑)。できる限り子どもに任せることが大事です。

―「子どもとは本気で向き合うこと」という思いから自分の遊びになってしまう大人もいますよね。

嶋村 教育学者の汐見稔幸さんが言った「僕にとって遊びは人生を手作りするための練習だった」という大好きな言葉があります。子どもが自分の人生を自分なりに手作りしていくとき、大人はその手伝いをどうできるんでしょうかね。

ほんとにちょっとの工夫で周囲の人を受け入れ合う意識を持つこと

「PLAY SPACE」と「PLAYABLE SPACE」

―現状子どもの遊び場はよい方向に向かっていますか? また遊び場は増えているのでしょうか?

嶋村 イギリスの街づくりで使われる考え方で「PLAY SPACE」と「PLAYABLE SPACE」というのがあります。プレイスペースは公園のような作られた場所、プレイアブルスペースは遊び場ではないけれど、ちょっとした段差のある場所のような遊び心がくすぐられるような空間。プレイアブルスペースは物理的環境を指すときもあれば、子どもが遊んでも大丈夫そうな場所と周囲が認めてくれるような心理的環境を指すときもあります。もちろん、今の街はプレイスペースは増えてなくはないけれど、全体としてプレイアブルかどうかというと疑問はかなり残りますね。

―どちらが増えていってほしいですか?

嶋村 プレイスペースは土地の問題でもあって、増やすのにはそもそも限界があるんですよね。だからプレイアブルな場所を増やさなければとは思っています。プレイスペースだって、プレイアブルかどうかを改めて見てみる必要がある。最近、ある公園でTOKYO PLAYがインクルーシブ・プレイグラウンド整備の取り組みをお手伝いしているんですが、インクルーシブはユニバーサルデザインの遊具があればいいということではないんですよね。

―そうなんですね。施策としては遊具設置がまず目的ですよね。

嶋村 遊具を置くことはひとつです。同時に障がいのある子をはじめ、様々な背景の子が来ても、お互いの関係性のなかでうまく付き合い、収まるようにできる場所にならなくちゃいけない。

―先程出た心理的にプレイアブルかどうかということ。

嶋村 障がいのある子の親が苦労していることのひとつは、他の子どもに迷惑をかけてしまう可能性があるから、そもそも公園に行くこと自体を選べないということでした。ある自閉症の子を持つお母さんの話では、子どもを公園に連れて行ったとき、別の子に近づいただけで、その子の親から「あっちに行け」と言われたことがあったらしいんです。

―たとえ一度でも、そう言われた経験のダメージは大きかったでしょうね。

嶋村 今回の取り組みの中で、障がいのある人と日常的に関わる機会についてアンケートを取ったところ、我が子に障がいのない人の6割以上が「ない」と答えました。そういう状況の中でどうやって真の意味でのインクルーシブを実現するか、これからですね。

―物理的な意味でのプレイアブルよりも、人間同士の関係としてプレイアブルであることが必要なわけですね。

スタートは、ほんとにちょっとの工夫で周囲の人を受け入れ合う意識を持つことだと思います。そうすることで少しずつでもプレイアブルなスペースが広がっていってほしいですね。