「子どもは宇宙人と一緒に遊べますか?」
宇宙人類学者 木村大治さんに聞いたファースト・コンタクトと遊び
- FEATURE
- 2022.2.2 WED
「コミュニケーションとは相互の行為に規則性を作り上げていく」もの
死なずにコミュニケーションができることを願って
みなさんが、宇宙人とはじめてコミュニケーションを取ることになったら(なってしまったとしたら)、どうすればよいのでしょうか? ティム・バートン監督の映画『マーズ・アタック!』に出てくる巨大な脳を露出させた火星人は、友好的なコミュニケーションを取ろうとする地球人をあざ笑いながら、レーザー銃で人間を(鳩や犬も)白骨化させていきました。彼らとコミュニケーションをとるために、ジェスチャーや謎の翻訳機、動物など、様々な可能性が試されています。映画内では結局どれも失敗してしまいますが。アメリカ軍の指揮官が火星人と初対面した時、握手しようとして意図が伝わらないとわかると、人差し指を立てながら円を描くように「右回り」に腕を回しました。火星人もそれを見て同じ動きをしたことで、コミュニケーションができたと喜びます。しかしその後、火星人はホワイトハウスに攻撃をしかけ、大統領を殺して死体に旗を掲げると、その前で今度は「左回り」に円を描く動きをします。右回りで挨拶だと思ったものは、左回りでは宣戦布告や支配の印になるのか、それとも敬意なのか、嘲りなのか、皮肉なのか、はっきりとはわからないままです。
京都大学名誉教授の木村大治さんはコミュニケーションを専門とする人類学の研究者。そんな木村さんは宇宙を対象とした、宇宙人類学という分野の研究でも知られており、『見知らぬものと出会う――ファースト・コンタクトの相互行為論』(東京大学出版会、2018年)という本を出しています。さまざまな民族のフィールドワーク(現地調査)を通して、それぞれの文化や社会を知り、人間を研究する文化人類学。木村さんが調査してきた“他者”の延長線上には、圧倒的な他者としての宇宙人がいました。言葉によって多少の意味を伝えることさえきっと難しいであろう宇宙人とのファースト・コンタクト。木村さんは、SF作家山田正紀の「(SFは)想像できないことを想像する」ものだという言葉を引きながら、SF小説を通じてファースト・コンタクトを考察し、宇宙人とのコミュニケーションは、何らかの形で可能だろうと推測します。 「コミュニケーションとは相互の行為に規則性を作り上げていく」もので、相互行為は「あるルールの上に立ち上がるゲーム」だと、本の中で木村さんは言います。それはまるで子どもの遊びを説明する時のようじゃないかと思った私は、木村さんに「子どもは宇宙人と一緒に遊ぶことはできますか?」と聞いてみたくなったのです。
地球上はもうわからないところがなくなっちゃいましたから。あとは宇宙しかない
他者の延長線上にいる宇宙人
―― 子どもにとって遊びは、その世界との関わり方の入り口であったり、ルールや仕組み、人間関係を学ぶなどの役割があると思うんです。宇宙人について考えた時、言葉でのコミュニケーションはおそらくできないだろうとして、じゃあ何なんだったら可能なんだろうと。人間の子どもが世界を知る手段が遊びだとしたら、宇宙人の子どもにとっての遊びもそのようなものであるかもしれない。では、お互いが世界のルールを探っている遊びという方法を通せば、何らか規則性みたいなものが生まれて、コミュニケーションを取り始められるのではないかと考えていました。
―― そもそも木村さんは、なぜ宇宙人とのファーストコンタクトについての考え始めたのですか?
それはやっぱり異文化とか他者とか、そうしたテーマを一番極端にしていったらどうなるかということですよね。思考実験として。
―― 宇宙人はいると考えていますか?
宇宙人がいることはいると思いますけど、太陽系の近くにいてすぐコンタクトできるかどうかというと、どうかなという感じですね。
―― 本の中では、SF小説から宇宙人とのファースト・コンタクトを考えていました。
宇宙はフィールドワークはまだできないから、手がかりは人間の想像力しかないわけです。人間の想像力で宇宙人となると当然SFになるわけですよね。
―― 文化人類学の研究手法として、フィクションを対象とするのはあるものなのですか?
現地のいろんな神話や想像力というのはものすごくたくさん研究されています。人間の宇宙人感というのも、その一端です。つまり自分たちの世界があって、その外に何か違うやつら、我々じゃない何者かの世界があって、そいつらなんか変な奴だなみたいな考えは大抵のところにあります。そういうイメージが宇宙に拡張していった先に宇宙人がいたというのは考えられますよね。
―― わからないものを「異界の住人」という言い方をしていたものから、本当の外側の宇宙に設定し直している。
地球上はもうわからないところがなくなっちゃいましたから。あとは宇宙しかないと。
むしろ子どもに宇宙人の相手をさせた方が、大人がやるより簡単に仲良くなれるんじゃないか
同じ言葉を喋っていてもダメなこともある
―― コミュニケーションの成立は、どういう風に捉えられますか?
知的とは何かという問題は置いておくとして、知的だったら多分コミュニケーションは成立するんじゃないのというのが一般的な見方ではありますけれども、知的であってもコミュニケーションが成立しない場合もあります。同じ言葉を喋ったとしても、意味は通じず、なぜそういう行動をするのか互いに理解できないこともあるかもしれませんから。
―― まったく環境が違う宇宙人でもある程度は成立する可能性はありそうですか?
彼らが1個体だけじゃなくて、同じような個体の生物がたくさんいる社会の中で生きているのであれば、他者というものをある程度ポジティブに捉えていると思うんです。スタニスワフ・レムの『ソラリス』(のちにタルコフスキーが映画化)みたいに、一つの巨大な海が意識を持つというようなものだと、他者がいませんからどうなるかわかりませんけど。
―― 一匹しかいないという状況はイメージが難しいですね。
他者のいない生物を考えるのはちょっと難しいですよね。自己を複製して増えていけるということが、生物の定義の一つだと思いますから、否応なしに生物は同じような他者の中で生きていて、さらに別種の他者も存在する中で生きていることになるわけです。
子どもの方が宇宙人と仲良くなれそう
―― 宇宙人と人間の子どもが共通の遊ぶという概念を持ってるかわかりませんが、いわゆる遊んでいると思えるようなことは可能だと思いますか?
僕のイメージから言うとそれは可能だろうなとは思います。宇宙人との最初のコミュニケーションはどうするんですかとよく聞かれるんですが、その時、答えているのは、相手の真似をするとか、相手のやったことに対応した何かをするみたいなことから始まるんだろうなと。だからむしろ子どもに宇宙人の相手をさせた方が、大人がやるより簡単に仲良くなれるんじゃないかなという気はすごくしますよね。子どもはあんまり言葉や記号にこだわらず、何かとんでもない遊びとかをすぐ思いつきますからね。
―― 文化人類学にとって、遊びはテーマとしてあると思うのですが、遊びとはどんなことをいうのでしょう。
こっちのやってることと向こうのやってることが、ある種の規則性を持って何らかが絡まっている状態。これは遊びだけじゃなくて、コミュニケーション全体にも言えることですが。そこにある種の不真面目さというのか、実用性のなさが入ると遊びになるのかなと思います。
―― コミュニケーションが成立するというのは、内容を理解できるということですか?
「理解とは何か」という問題がそもそもそこにはあるんですが。相手の心の中にある概念があって、それが何らかの手段でこちらに伝わって、その伝わったのがこっちの心の中でまた再構成されるというものを、「コードモデル」と言います。コードモデル的なイメージが理解という言葉にはあると思うんですが、そういうのはやめてもいいんじゃないかというのが私の立場です。
こっちがやっていることが向こうの何かに影響を与え、向こうがやってることもこっちに影響を与え、それが複雑に絡まり合った状態ができさえすれば、もうそれでコミュニケーションといってもいいんじゃないかと考えています。理解というのは、そういう状態のごく一部のことを言ってるだけなんじゃないのという気がしてるんですね。
―― 関係しあって、影響しあうということですね。そうするとやはり遊びの概念と近い気がします。
遊びで何が伝わるのかというと、「私はあなたと遊んでるんだよ」ということ。それは同語反復なわけですが、遊びの方がそういう理解とかの概念のコミュニケーションよりずいぶん広い概念なんじゃないかと思います。子どもも一種の異文化というか他者だという言い方もあります。だから子どもとの付き合い方もコードモデルを越える一つのモデルというか、対象になると思います。
ルールの中で一番簡単なのは、相手の真似をするということ
変わっていくルールの中で
―― 宇宙人とのコミュニケーションは、例えば人間同士でまったく言語の違うコミュニケーションをはじめようとすることからも何か学べるものですか?
アフリカに行ってそういう体験はしましたけども、でもやっぱり相手が人間だと“ものすごくわかっちゃう”んですよね。同じ身体機能を持った人間ですから、かなりの部分は通じちゃう。だから対人間だと宇宙人との疑似体験にはなりません。人間よりも他の種とのやりとりの中で、どういうことが起こるのかを見ていくほうが宇宙人とのコミュニケーションのヒントになるかもしれないなと思います。
―― 他の種というと、他の動物などですか?
キンシャサの近くにボノボが50頭くらい保護されているサンクチュアリがあるんですが、ボノボの子どもを親と離して、人間の飼育員たちが飼育しているんですね。そこでボノボの子どもが突然私に対して背中に飛び乗って遊んできたんです。こんなことするのかとちょっとびっくりしましたが、そのボノボの子どもたちにとっては他の種の人間と遊ぶのは、ごく普通のことのようでしたね。
―― 『見知らぬものと出会う』の中で、絵本『こぎつねコンとこだぬきポン』を、真似をし合う動物の子どもが出てくる絵本として紹介されていました。
タヌキとキツネの子どもが、相手がやっと見えるぐらいの谷を隔てたところで、相手の動きを真似して遊び出したという話だから、まさにファーストコンタクトですよね。
―― 真似をすることで、こういうルールのもとでこういう遊びをしている、ということが遊びそのものを通して伝わる。
そのルールは固定したものじゃなくて、次々と変わりうるんです。変わらないとおもしろくない。そうしたルールの中で一番簡単なのは、例に出したような相手の真似をするということだと僕はずっと言っています。相手がどういうつもりでやっているのか知らないけども、とにかく自分がやったことを真似してるということはわかって、何かが伝わってるというか、何か一緒にやってるんだということは、少なくともわかるだろうと。そこから始まって、もうちょっと複雑なことがいろいろ起きてくるんじゃないかなという気がしています。
そもそも「やり取りする気がある」かどうか
宇宙人と一緒に『マーズ・アタック』を観よう
木村さんは本の中で、SF作家野尻抱介の『太陽の簒奪者』という作品に触れています。太陽系に侵入してきた異星船に乗り込んだ主人公たちは、異星人に会うのだが、異星人たちは呼びかけに応じず無視されてしまいます。高度な集合知であるその異星人は自分の思考に集中するあまり、人間を意識するに至らなかったというのです。「そんなことある?」と思うような展開ですが、宇宙人とコンタクトを取るということは、こうした可能性もあり得るとしておかないといけないといけないだろうと木村さんは言います。
「宇宙人とのコミュニケーションにおいて問題になるだろうことは、通常考えられているような「共通コードの不在」ではなく、コミュニケーションへの志向性(平たくいうと「やる気」)があるかないか」(『見知らぬものと出会う』P246)
つまり、ファースト・コンタクトにおいて問題は、どんなことを言うかやどんなやり取りが生まれるかの難しさよりも前に、そもそも「やり取りする気がある」かどうかということ。子どもがファースト・コンタクトに向いていたとして、どの子に遊び相手として参加してもらうかとか、安全や倫理的な問題で実現するのは難しそうですが、やる気のある宇宙人が来たら、一緒に『マーズ・アタック』を観て、こうならないようにしようねとまずは安全を確保したいですね。