風景描写を練習する – 乗代雄介インタビュー

小説家乗代雄介はなぜ淡々と風景を書く“練習”を続けるのか

  • FEATURE
  • 2021.7.28 WED

 三島由紀夫賞を受賞した『旅する練習』は、コロナ禍の一斉休校で暇をもてあました中学入学直前のサッカー少女・亜美と、その叔父で語り手である小説家が、家のある千葉県我孫子市から茨城県鹿嶋市の鹿島スタジアムまで、徒歩で旅をする様子を描いています。亜美はリフティングの、叔父は風景描写の練習をしながらの旅。

 そこで挿入された風景描写は『旅する練習』執筆以前、乗代さんが自分の風景描写の練習として書いていたものでした。乗代さんは何年も前から公園の風景描写の練習を長く、延々と続けてきたそうです。作家が続ける目の前にある風景を描写する“練習”とは、一体何をどうすることなのでしょうか。

このインタビューで取り上げている「風景描写の練習 実作編」は下のリンクからお読みいただけます。
ぜひ先にご一読ください。

乗代雄介「風景描写の練習 – 舎人公園」ことばのランドスケープ

この眼の前の風景を見て「いいな」と思う自分は絶対にいて、揺るぎない

すでにある言葉とイメージだけで“いい感じ”の風景を書いていただけだった

—— 風景描写の練習はいつからやっているのですか?

乗代 2017年頃だと思います。

—— 今年で4年目くらい。

乗代 そうですね。一冊目はお恥ずかしい感じです。動植物について「わからない」とまで書いていました。

― きっかけは何だったんですか?

デビュー前から長く書くことはやってきて、デビューした2015年頃、風景描写が作中にあってもどこかルーティンになっていました。別のことを書いていても、この前書いたいい感じと、今日書いたいい感じがすごく似てきたんです。これは「風景そのものじゃなく、自分の言葉上のいい感じを書いているだけだ」と気づきました。

—— 外側にある風景や現実ではなく、自分の中の気持ちの良い風景をなぞっている感じだったんですね。

乗代 その時は何かわかっていなかったんですけど、自分が書いていたものには「具体的な現実ではないんだな」ということにだんだん気づいてきて。書き始めるときは、まず何かいいなと思う瞬間やきっかけがあります。次にその近くに座り、陽の光や生き物や葉が揺れる音など、いいなと感じたのは何だったのかと考えながらペンを取る。そして、気になったその1点からはじめて、段々視点がズレていくという書き方です。だから一羽の鳥の名前やひとつの植物の名前がわかるだけで、視線も情報も変わるので、文章に影響があります。

—— 視点が動いていくままに筆も走らせるんですね。

乗代 この眼の前の風景を見て「いいな」と思う自分は絶対にいて、揺るぎない。それをきっかけに具体的な風景を書き始めるようになったら、言葉で作りあげた描写よりも、「見ている風景の方が素晴らしい」ことがだんだん明らかになってきて、それまで小説に書いていた描写が、自分の中でどんどん色褪せていきました。とはいえ「目の前の風景の素晴らしさをすべて書きこもう」となると、小説としては無理があります。やってもいいんでしょうけど、冗長すぎて編集者には嫌われます(笑)。

—— 読みにくいと言われるでしょうね。

乗代 一章なり一段落のまとまりとして、言葉や小説に対する自分の美的な感覚も保ったまま、「できるだけ見ているもの、知ったものを入れていくにはどうしたらいいか?」と考えたとき、「やっぱり練習するしかないなぁ」と。

まるで「自然の方が人間の営みを自然の一部と捉えて今そうなっている」ようなところにロマンを感じます

人の手が入った自然に感じる愛着

—— 練習をしていくなかで、どんな変化がありましたか。

乗代 「名前はわかっているから細かいことは書かなくていいや」ということがでてきたりしています。それもあって字数がちょっと減ってきたりもしています。

—— 名前と特徴を知っているがゆえに名前を記号的に使ったりしてしまっている。

乗代 練習をした結果、記号的になり逆に書く練習からは遠ざかるという部分も。

—— より様式的になってきたと。

乗代 そうなんですよ、逆に。いいバランスの中庸を通り越して、このまま行けば厳密さが求められる学問の世界や自然科学の領域へ寄っていくんでしょうけど……

—— でも、それでは文学としては殺風景になりうる。

乗代 そうです。その名前や特徴を知らない人には伝わらないですし、描写の深さとしては、書き始めた頃の、名前や特徴がわからないから目に入らなかった頃と同じなんじゃないかという気がして。「真ん中を保たなければいけない」とは思っています。作家としてはそこを選んで書けるようになるのが理想なのかもしれません。

—— 描写するとき、どういう風景に惹かれますか。

乗代 「人の手が入っていてほしい」というか。求めているのは、誰もいない「自然の山奥や荒野の美しさ」みたいなものではない気がします。人の手が入っていながらも、人の作為からすり抜けて生きる植物に惹かれます。空き地や高速道路の脇とか、誰も入れないようなところで勝手に生えているものを見るのも好きです。

—— いわゆる「手つかずの自然」に入って書くとしたら、それは公園で書いている練習と何が違うものになり得るのでしょうか。

乗代 風景描写の練習をそのまま入れた『旅する練習』もそういう人為と自然風景がテーマだったと思います。例えば、川の水の動きは自然なものですが、その流路は人間が時代時代に手を入れて、いいことも悪いこともありつつ、現在の流れにおさまっています。そうした、まるで「自然の方が人間の営みを自然の一部と捉えて今そうなっている」ようなところにロマンを感じます。だから、人間中心なのかもしれません。

—— そういう意味でも手つかずの大自然ではないんですね。

乗代 都市では植生にも人の手が入ってデザインされているので、イレギュラーなことは、逆に都市の中のほうが起こりうる。同じ公園に繰り返し行くんですが、一番着目しているのは変化です。「あったものがなくなる」とか。人の手が入っていないところで、そういう劇的な変化は起こらない。手つかずの自然にイレギュラーということはあり得ないとも言えます。

書いたことだけが「その風景を見た感動を、一人で書き取った人間がいた」という証明になる

100年後に伝わるように

—— 「見る感動があって。それを書くと絶対にそこに齟齬がある」と他のインタビューでおっしゃっていました。「見る感動」とはどういうものなんでしょう?

乗代 例えば公園に行った時、何気ない風景を見て「この公園のここに長々と座りこんで、『あぁ、いいな』と感じている人はあまりいないだろうな」「じゃあ、なぜ自分はそこを『いいな』と感動しているんだろうか?」と思います。

—— 感動として感じたことが何であるのかをわかるための描写でもあるわけですね。

乗代 そうですね。そこには自意識や使命感もあって。「これを書き留めて、『ああ、いいな』って思った人間がいたぞ」ということが、大袈裟に言ったら、「50年、100年経ったときに何かになるんじゃないか」と思っているところはあります。そもそも自分が50年前、100年前の人の文章を読んだときに、そういうところに一番感動してしまうので。

—— 記録され得ないようなものが記録されたことに対して、同じような思いが湧き出てくると。

乗代 たいてい、そういう人って一人でやっているんですよね。誰かといたら風景を描写する時間は取れないから。だから、書いたことだけが「その風景を見た感動を、一人で書き取った人間がいた」という証明になる。「この風景の良さは俺だけが知っている」みたいな優越感のようで微妙なところなんですけど(笑)。結局、孤独になりたがっているのかもしれません。でも、その孤独を保ったまま仲間意識を持てるのが死んじゃった人なんですよね。

—— 死んでしまった作家たちの言葉に、同じ記録する人間としてのシンパシーを感じるわけですね。そもそも書いたものを誰かに読んでもらうことを前提にはしていないんですよね?

乗代 そうですね。昔からまったくそれはないです。

自分の感動を保てる時間が、その1つのことを書いている時間になる

感動が続く時間の分だけ書くことができる

—— 風景は書こうと思えばどこまでも詳しく書き続けられるわけですが、ただいつも「だいたい同じ字数くらいに収まってしまう」と伺って、それは書く・書かないの選択の根拠をどこに置いているんだろうと。

乗代 先程も話したように、まず最初に何かきっかけがあって、そこに腰を下ろすんですね。「自分がいいなと琴線に触れたものは何だろう」と考えつつペンを取る。鳥の鳴き声だったり、水面の光の煌めきだったり。全体というより何か一点、「自分が捉えたものをまずしっかり書いていこう」という起点があり、そこから視点がズレていくように書いていきます。それがある程度の字数に収まるのは…やっぱり書く時のタイムラグのせいかもしれません。「いいな」と思ったその一瞬について書いていると、10文字書けばすでに何十秒か経っています。そうなると、さっきの感動はだんだん薄れていく。最初はだいたい状況の説明から入るのでわりとスーッと書くんですね。そこから「自分はどこを美しく思ったか?」を詳しく書いていこうとしたとき、「いいな」と思った感動がまだ残っている場合はいいですけど……

—— いつも感覚が残っているわけではない。

乗代 実際は書いている段階でもうないということのほうが多い。しかも、それに適した言葉を探すうちに、出てきた言葉に惑わされる。そのうちに、最初話したような頭の中の言葉になってしまっていることに気がつくんですね。慣れ親しんだいい感じを書くことで、薄れてきた記憶を埋めようとしている自覚がでてきて…「あぁ、酷いな」と(笑)。だから、なるべくいいと思った感覚が去らないうちに離脱するから、分量が決まってくるんだと思います。

—— 新鮮な感動が生きたまま書ける分量や時間がだいたい決まっていると。その断片を積み重ねていった結果、全体量が決まる。

乗代 だから1つ1つをそんなに長くは書けません。自分の感動を保てる時間が、その1つのことを書いている時間になる。それが2つ3つ続くと、集中も落ちてきて、もう新たな感動を見つけられなくなってくるのかも知れません。

写真には「時間」が伴いづらい。描写は、時間の経過が書けると同時に、その文字を読み書きする時間も刻めます

風景を描写することは時間そのものでもある

—— 見た順に書くというのは、目の動きがそのまま反映されているということですよね。

乗代 基本はそうだと思います。見るときの取捨選択は、起こったひとつの出来事に関連する動きや状況を探しています。

—— 恣意的ではなくて、自然の中にある状況がその風景描写を生みだしている。

乗代 そうですね。水面に水鳥がいると、水面が動いて光の反射が変わります。そうすると光源の太陽がある上に視線が動いていく。そしてまた、その光が作る別の影に目が落ちていく、という感じです。そういう繋がりは意識しています。

—— こう聞くと、作家じゃなくても「自分でもできるかな」と思えてしまいますが、どうなのでしょう。 

乗代 何かひとつ見るだけでも、次に繋がるものは必ずあります。ちゃんと止まって見ていれば、どんな人でも気づくとは思いますし、できるはずです。でも、人ってなかなか動きも視線も止まらないんですよ。みんな何か他に目的があって来ていますから。

—— 時々絵を描いている人はいますが、同じところに20分、30分いて、目の前の風景を見続け、かつ言葉でアウトプットするというのは、なかなかの大変なことではありますね。

乗代 そうですね。ただのんびりするのとも違いますし、知識がないと意外に取っかかりがなくて戸惑うかも知れません。

—— 他の人が実践するとして、「出来事が起こった関係順に書いていく」っていうのがひとつポイントかなと思うんですけれども。書き慣れた乗代さんですらスピードが追いつかないとなると、意外と実践は難しいのかも。それこそみんなも練習をしようということですね。

乗代 きちんと対象物を見ようという点では、もう少しポピュラーな写真を撮るというやり方と変わらないと思うんです。ただ、僕はそこに時間の経過を重く見てしまう。写真で「この植物がありました」と見つけるのは、ある一点の一瞬の事実を残しているわけですけど、実際に「公園で過ごす時間」はそういうものではない。おそらく写真は、僕が過ごした描写の時間をすごく鮮明に簡略化したものなんですよね。その鮮明度は絶対に敵わない。でも、一年後に振り返ったとき、あるいは他人がそれを見る時、写真には「時間」が伴いづらい。描写は、時間の経過が書けると同時に、その文字を読み書きする時間も刻めます。

—— 「目の前の20分や30分という時間が確実にここにあるんだ」ということを理解して留まりながら書くかどうか。

乗代 それは「他のものを捨てた」という意識にも繋がると思うんです。たとえば、家に帰ってからさっき見た風景を書くと、自分の頭に残っているものだけを書いてしまう。「他にたくさんのものがあった」という意識はない。だから、たぶんその経験が一番大きなことかな。

—— リアルタイムであり即興であることの意味はそこにある。

乗代 「自分が見ることができた50この中から1つしか選んで書けなかった」という。

—— その場から離れて記憶を頼りに書くのは、都合よく残してしまったことでしかないわけですね。

乗代 植物や鳥の種類や名前を覚えたいのも、見た時の「これだけの選択肢の中から、これを選んだんだ」という分母を大きくしていきたい意識があるからです。でも、自分が分母を500持ったところで、見た風景の中には、ほぼ無限ともいえる要素があるわけです。なんなら、知れば知るほど、捨てているという意識がすごく高まってきています。

—— 書く量が同じであれば、分母が大きくなればなるほど、ものすごく厳選した情報になるということですね。

乗代 もし他の人がやるなら、その感覚を一番味わってほしいです。

見ている世界の中に、「見えていないけれど、息づいている動きや命の可能性がある」

見えている自然の裏側にある豊かさ

—— 風景描写に対するある種の理想やすごいと思う人はいますか。

乗代 柄谷行人が『日本近代文学の起源』で風景描写について取り上げている柳田國男はやっぱり「すごいな」という感覚はあります。あとは昆虫学者や植物学者。『動いている庭』(みすず書房)の著者である庭師のジル・クレマンが、2015年に行った来日講演の記録が『庭師と旅人 「動いている庭」から「第三風景」へ』という本になっています。その中にある言葉がとても印象に残っています。

 あと一つ、もっと後になって動いている庭に起こったことを紹介しましょう。木が一本根こそぎ倒れたのです。1999年冬の大嵐のときでした。家のそばに生えていたコナラが倒れて、根のまわりの土がそっくり持ち上げられてしまいました。私はしばらくはただ驚くばかりでしたが、春になるとその土の斜面にたくさんの植物が芽を出しました。ヒナゲシ(Papaver rhoeas)、フランスギ(Leucanthemum vulgare)など、どれも興味深いものばかりでした。

 急にあらわれたこれらの植物の種はどこからやって来たのでしょうか? おそらくは、もとからここにあったけれど地中で眠っていたものでしょう。そうして環境が適した状態になるのを待っていたのです。木が倒れたことでその眠りから覚め、突如としてじゅうぶんな量の光と水を得て、芽を出したのでした。このことから言えるのは、あらゆる土地は潜在的な庭である、ということです。

 この土が盛り上がった場所は範囲としては狭いながら、ダイナミックに変化していました。私は興味をひかれた植物だけ残してほかは取り除き、何もあらたには加えないことにしました。そしてこれを「引き算の手入れ」と名付けました。ただの除草とはちがいます。最初の数年は目まぐるしいほどの変化がありました。とくに春は庭師がよく目を配り何度も手を入れる必要があります。
『庭師と旅人 「動いている庭」から「第三風景」へ』ジル・クレマン(あいり出版)

乗代 これを読んで、お話した「分母を増やす」ということの意味が自分自身で腑に落ちたんです。

—— なるほど。

乗代 見ている世界の中に、「見えていないけれど、息づいている動きや命の可能性がある」。そこまで認識する準備をしないと、こういう人たちのように自然を見ることはできない。そうすると、やっぱり知識は絶対に必要になってきます。

—— 前提化している景色の裏で動いている仕組み、みたいなものも含んでいるということ。

乗代 そうなんです。以前訪れた里山のちょっと奥、あまり人の手が入っていないところに、木が6本ほど、ほぼ一直線に生えているのに出くわしました。自然の中ではその直線が明らかに歪(いびつ)で、気になって描写しました。その後、栃木県立博物館で、郷土の自然についての展示の中に、僕が見た一直線に生える木と同じ状況を捉えた写真がありました。説明によると、それは倒れた針葉樹の上に木が生えたものだということでした。腐りかけた倒木は、周りの土に比べて水もちが良く発芽に適しているので、木の幹の直線上に新たな木が育つ。つまり、「垂直の直線が水平の直線として現れたもの」だというわけで、そんなことがあるのかと衝撃を受けました。

—— 縦に伸びていた命が横倒しになることで、全く違う命の苗床として機能し始め、そこに生えた植物がまた上に伸びていくという連続性。その一回の転倒で未来が見えたわけですね。

乗代 はい。上へと伸びるイメージが樹木への観念としてありましたが、そんな転倒が自然の営みの中で、物理的に起こる。「目の前の自然の背景にあることも見逃したくない」という意識になったのは、その経験もすごく大きかったですね。

—— 自然に対する見方に大きな変化があったんですね。

乗代 しかも、その一直線に並ぶ木を自分は馬鹿にしていたところがあったんです。つまり、直線状に並ぶというのは効率化を優先する都市空間にしかないものだと簡単に認識していたわけです。「自然の中ではそんなわけにはいかないよ」と見くびっていた。でも、自然界には直線に並ぶ状況なんか当たり前に含まれていて、何か、尊敬の念に近いものを抱きました。

—— そうした秩序も、そもそも植物に備わっていたと。

乗代 はい。人間が構造的に考えて、幾何学的にやったことじゃなくても、自然の中にもあり得るのだというのが実感できたのは大きかったです。当たり前なんですけどね。

「詩や短歌や俳句のようなものの魅力に抗ってどれだけ続けられるのか?」

世界を記述できるのは散文だ

—— 風景の描写をひたすら続けた先、描写することの行き着く地平はどこなんでしょう。もっとポエティックなものなのか、自然科学系のノンフィクションになるのか。

乗代 自分の中で「世界を記述することができるのはどうしても散文なんじゃないか」という、何の根拠もない、けど確信みたいなものがあって。

—— 詩や俳句ではなく。

乗代 「詩や短歌や俳句のようなものの魅力に抗ってどれだけ続けられるのか?」みたいなことはよく考えます。散文は、言葉足らずで言い訳がましいものですが、それも含めて記述することだと思っているので。

—— 汲めども尽きせぬ豊かさの中で、「何を切り、何を選ぶのか?」「分母を増やしたい」というのもまさにそこなんでしょうね。

乗代 分子が同じだとしても、分母が違えば書き手の心情は変わります。人間の認識はいつも足りないという自覚。伝わるか、伝わらないかは置いておいて、それを忘れたくない、もっと思い知りたいというのが一番強いですね。