Contents Vol.4
GLINTを着用し、自身6回目のパラ出場へ。
鈴木孝幸はいま何を思うのか。
今回のゲストは、パラアスリートの鈴木孝幸選手。2004年のアテネパラリンピック以降、5大会連続でパラ出場、さらに現役最後の大会と噂されていた2021年の東京パラリンピックでは全出場種目でメダルを獲得するなど、年齢を重ねてもなお勢いが衰えるどころか自己ベストを更新し続ける。障がい者と健常者の共生についても積極的に発信しており、名実ともにパラスポーツを背負う存在である。
そんな鈴木選手は昨年末の選考会でGLINTをはじめて着用。これまで国際モデルのValorを着用してきたが、その着用感に「Valorと比べても遜色ない」と太鼓判を押す。
「比較的スピードを出して泳ぐ練習をしていたんですが、下半身がしっかり浮く感覚がありました。タイムも練習の中では速いほうだったし、何本かやる中でそのタイムをキープできた。また、それまでValorを着用した状態で足の動かし具合なども体に馴染んでいたんですが、GLINTに替えても違和感がなかった。また、僕にとっては股関節周りの動きが重要なのですが、その着圧具合もちょうどよく、水もちゃんと弾いてくれます」
水着選びにおいて重要なことは、何より良いタイムが出ること。そして、それを着ることで自信をもってスタート台に立てるかどうか。練習を積み重ね、スキルを突き詰めていく。その最後の1ピースとして水着の後押しがあると、鈴木選手は話す。
鈴木選手は今年1月に37歳を迎えた。水泳選手としてはベテランの域に入る。年齢を重ねたからこそ進化するポイントはあるのだろうか。
「パラ水泳、さらに重度の障がいとなると、推進力よりも抵抗を減らすことが重要。その部分は水中での経験値が大きく関わってくるので、ベテランが若い人に対抗できる強みになります。もちろん体力的な部分では負けるかもしれませんが、技術力でスピードを落とさない泳ぎが実現できるんです」
現在は6度目のパラ出場にむけて練習に励んでいるが、東京でパラが開催された2021年の時点では、先のことを想像していなかったようだ。
「東京パラが終わった後は、とりあえず一年一年やっていこうと考えていました。とはいえ、引退を意識していたわけでもなかった。大会のタイミングでそれを発表する選手って、なぜか本番で遅くなっちゃうので(笑)。東京パラ前に故障した肩の痛みが、トレーニングを休んだらバランスを崩してさらに強くなってしまった。それを拭えぬまま泳ぐことになるなら、もう引退しようと。でも、そのあとトレーナーからアドバイスをもらいながら練習を重ねていくうちに痛みが消えていき、泳ぎに対して前向きになれた。そこでもう一度、パラに出る気力も取り戻すことができたんです」
もうひとつ、鈴木選手にとって大きなモチベーションとなった出来事があった。
「東京パラでは本当に多くの方が応援してくださって、自分の泳ぎを通してパラというもの、障がい者のことを知ってくださった人たちが多かった。だけど、そこで自分がすぐ引退しちゃうと、その人たちも一緒に離れちゃうような気がして。せめて次の世代にそのバトンを渡せるまで、もうすこし自分も泳ぎを続けた方が良いのかなと思い直しました」
では、自身が初めてパラリンピックに出場した2004年から今までの間に、障がいに対する世間の理解度はどの程度向上したといえるのだろうか。
「まだ発展途上ではありますが、理解は進んでいると思います。例を挙げるなら、アテネ(2004年)の時に、パラリンピックは厚労省の管轄だったので、その扱いは福祉であってスポーツではなかった。新聞に載る際も、スポーツ面ではなく社会面。それが今は、パラリンピックはオリンピックと同じくスポーツ庁の管轄となり、新聞でもちゃんとスポーツ面で取り扱われるようになった。大会を追うごとにメディアで取り上げられる機会も増えました。ただ、個人的な実感として、合理的配慮(障がい者が社会生活に問題なく参加できるよう、障がい特性に応じて行われる配慮のこと)のことをまだ理解しきれていない人、『それしか選択肢のない人に配慮する』という考えに至っていない人はまだまだ多い。たとえば……多目的トイレで長電話している人とか(笑)。もしかすると用を足したついでなのかもしれないんですが、そこしか使えない人のことを考えてほしいなと思います」
鈴木選手は最後に、健常者と障がい者の共生する社会を実現させるには、「日常の中で、健常者が障がい者に触れる機会を増やすことが大事」だと話してくれた。さらに今後の目標として、障がいの有無に関わらず一緒に参加できる大会をつくることを掲げているという。GLINTを着用して挑むパリでも、その勇姿は障がいについて多くのことを教えてくれるに違いない。
鈴木孝幸(すずき・たかゆき)
1987年、静岡県生まれ。6歳から水泳を習い始め、16歳から本格的に障がい者の水泳大会に出場するようになる。2004年、高校3年生の時に日本代表としてアテネパラリンピックに出場。2008年の北京パラリンピックでは、競泳チームの主将を務め、50m平泳ぎで金メダル、150m個人メドレーで銅メダルに輝く。その後は5大会連続でパラリンピック出場。2021年、紫綬褒章受賞。