ON THE EDGE
自分を成長させるストーリー
志村裕貴 『KAT100』リポート
2023年夏、THE NORTH FACE アスリートの志村裕貴は、オーストリア・チロル州で開催された100マイルのトレイルランニングレース『KAT100 by UTMB』に参戦した。この大会は2023年からUTMBシリーズに加わったことで、ヨーロッパの強豪選手も参加する注目レースとなった。スタート地点であるフィーバーブルンからキッツビュールアルプスを一周するコースの総距離は169km、累積標高は9,820mに及ぶ。「山を一気に駆け上がり、下っていく場面が多く、岩場が続き、険しいコースです。でも、それ以上に牧草地や高台から見える美しい景色に心を奪われます」と志村もその魅力を語る。今回は志村裕貴自身によるレースレポートをお伝えする。
レース後、興奮や体の痛みで、その日は眠れないことが多い。しかし、今回のレースは2日経っても、なかなか眠ることができなかった。レースの興奮というよりは、レースを通しての出会い、一つ一つのかけてもらった言葉が、心の中で光を放ち、ずっと語りかけてくるようだった。それらの言葉がこれからレースを走っていく上での大きなヒントになっていくような気がした。忘れないうちに、レポートとして残しておきたいと思う。
今年もまた、ヨーロッパの舞台に帰ってくることができた。スタートラインに立った時、支えてくれた人達の顔が思い浮かんだ。感謝の気持ち、走れる喜びで心の中が満ちていた。そして、隣には妻がいてくれる。多幸感が自分を包み込んでいくのがわかった。妻に、「行ってくる」と声をかけ、お互いの拳を合わせ、グータッチ。
「パララララララ」と唱えながら、手を開き、指を動かしながら、腕を頭上に上げていく。これは、空港に向かう途中、妻と一緒に見ていたアニメ映画『ベイマックス』のワンシーンにあったもの。
「パララララララ」と意味不明な言葉を唱え、お互い顔を見合わせる。自然と笑みがこぼれた。ふと気持ちが楽になる。
きっと良いレースになる
号砲が鳴り響き、ピンクのカーペットの上を多くのランナーが駆け抜ける。スタート前、ぱらつく雨にレインを着るか迷っていた。結局、これから雨が強くなることを見越し、着ることに決めた。だが、走り出してすぐに小雨に変わり、登りに差し掛かると、体温が一気に上昇するのが分かった。ザックを置いて、レインを脱ごうと考えた。しかし、選手が多く、それはできそうにない。走りながらレインを脱ぐしかなかった。すると、急にザックが軽くなった。後続の選手が、すっとザックの上部を持ち上げてくれたのだ。
「ありがとう。」
その選手は、軽く手を挙げると、颯爽と走り去っていった。脱いだレインをザック後方にしまおうとする。
「どこに、しまえばいいんだ?」
今度は、違う選手が声をかけてくれた。私が指定した場所にレインを押し込んでくれた。
「お互い、良い旅にしよう」
そう言いながら、背中にポンと手をあててくれた。レースがスタートした直後、誰もが良いポジションをとろうとスピードを上げる。しかも、このレースは100マイルとエンデュランス(92キロ)の選手が同時にスタートする。2人はどちらも、エンデュランスに出場する選手だった。彼らは、当たり前のように私を助けてくれた。
「きっと、良いレースになる」単純だが、そんな感情を抱かずにはいられなかった。
スタートから次のエイドがあるヴィルトゼーローダーハウスまでは、林道、樹林帯、岩場とサーフェスを次々に変えながら、標高差1200mを一気に駆け上がる。山頂からは、スタート地点であるフィーバーブルンの町、これから進んでいくであろう山々が見えた。このレースは、山々をラウンドした後、またこの地に戻ってくる。再び、この地点に戻ってきた時に、自分はどんな感情を抱くのだろうか。それが楽しみだった。
Running is freedom
岩場を越えると、牧草地と林道を交えながら、また一気に1200mを駆け下りる。まるでジェットコースターのようなトレイルだった。
下りきった後は、しばらくロードが続く。その時に、声をかけてきたのが大柄な男性だった。
「君は、日本出身?」
「そうだよ」
たった一言交わしただけ。それ以降、全く会話はなかった。とてもそっけない感じがした。だが、ペースが似ていたこともあり、それ以降何度も顔を合わせ、並走することになった。やがて彼はロシア出身でマルコという名前だということがわかった。
ロードを抜け、牧草地の上りへと入る。ここで、私達の関係を一気に変える出来事が起こった。マーキングが見づらく、少し道を外してしまったのだ。コースに復帰しようとした時に張られていた鉄線を跨ごうとして触れてしまった私に電撃が走った。大きな声が出た。マルコは、「大丈夫?」と聞きながらも笑いを抑えきれないという感じだった。そんな彼の顔を見て、私も大笑い。一気に心の距離が近づいた気がした。
日本のアニメが大好きで、ドラゴンボールとブリーチが特に好きということも教えてくれた。きっと、日本人の私に話すタイミングをずっとはかっていたのだと思う。
「ヒロキはノースフェイスのアスリートなのかい?」私の背中の文字を指差し「『NEVER STOP EXPLORING』、良い言葉だよね。僕も大好きな言葉だ。こういうレースの体験もそうだけど、人生も長い冒険。歳を重ねて、冒険ができなくなったとしても、ドラゴンボールやブリーチを読むことで、彼らの冒険に夢を馳せることだってできる」
「ヒロキは走ることが好きかい?」とストレートな質問をぶつけてきた。とてもストレートな質問に、答えることに少し恥ずかしさを感じた。彼の子どものように純粋な眼差しに、私自身も感化されていた。
「もちろん、好きだよ」と応える。
当たり前にあった気持ち。でも、その気持ちは、当たり前すぎて心の引き出しの奥にしまっていたのかもしれない。掃除中、久しぶりに見つけた本やアルバムを見返してしまうような、そんな気持ちだった。
「俺は、走ることが好きだ。体ひとつあれば、どこにだって連れていってくれる。少しの勇気があればね。そして、走ることは自由だ。Running is freedom」
まっすぐな言葉に、自分の山を走り始めた頃の気持ちにもう一度気付かされた。純粋に山を走ることが楽しくて、大好きになった。どこかで結果を求めるあまり、そのことを忘れてしまっていたような気がする。内へ内へと自分を研いで鋭くしていく過程ばかりに目をやっていた。しかし、マルコと話すうちに、外に向かって自分が広がっていくのを感じた。自分の大好きなことを大好きな人と大好きな場所でできる。こんなに幸せなことはないのではないか。そう感じさせてくれたのは、間違いなくマルコのおかげだった。少年のように純粋で、人生という冒険を真剣に、心から楽しんでいる彼の姿が眩しく映った。
急激な体温低下と再びのロスト
妻が待つ、最初のエイド。ヴァイトリングに到着した。エイドの奥で手を振る妻の姿に元気をもらった。
「UTMFの時と全然違うね。良い顔しているよ」
妻にはすぐに見抜かれてしまった。マルコとの会話は分からないにしても、何かが自分を変えたことに気がついたのだろう。そこまでは、気温が低かったこともあり、温かいおかゆが体の隅々まで染み渡っていくようだった。足にクリームを塗りこんでもらい、シューズとソックスを履き替える。足は泥にまみれ、きっと臭いはず。それを嫌な顔一つせずやってくれる。妻も一緒に戦ってくれている。前へと進む勇気をもらった。
「じゃあ、行くわ。」
「いってらっしゃい。次のキッツビュールで待っているよ。」
グータッチからの「パララララララ」このルーティンもだんだんと様になっていった。次への一歩を笑顔で踏み出すことができた。
エイドを出ると、すぐに雨脚が強くなってきた。雨粒が大きくなり、レインを弾く音も大きくなっていった。根が浮き出たようなトレイルに足をとられないように慎重に進んでいく。樹林帯を越えるとしばらく林道が続いた。なるべく走り続ける。走ることで体温をなるべく落とさないように気をつけた。しかし、否応なしに雨脚はさらに強まっていった。体調の異変を感じるまでに、時間はかからなかった。いきなり、胃のあたりが気持ち悪くなり、先ほど食べたものや飲んだものは全て戻してしまった。
「このまま、気持ち悪さが続いてしまうのだろうか」
いつもなら不安に駆られてしまう場面なのかもしれない。だが、今回は一切の不安を感じなかった。むしろ、全部吐き出したら、何かがリセットされる。大丈夫。頭は冷静だった。今までと変わったことは何なのか冷静に考えた。先ほどまでは林道を、体温低下を防ぐためになるべく走っていた。この間に、思った以上に汗をかいた。急登へと変わり、ほとんどが歩きに変わった。雨に打たれ続けたことでの急激な体温低下が起こっていた。すぐにレインパンツを着用した。
そういったことに気をとられていたのか。今度は、道を大きくロストしてしまった。雨で視界が悪くなったため、マーキングを逃していたようだ。GPSに目をやると、かなり本ルートから外れてしまっていた。ルートを外れ、30分以上は進んでしまっていた。
「ヒロキ!」
声が聞こえた。まさかと思って振り返った。その声の主はマルコだった。
「気が合うね。」
2人してのロストだった。他に誰もついてきていない。またしても大笑い。一人ならさすがに焦ってしまっただろう。でも、彼となら、きっと大丈夫。2人で本ルートに戻れるよう声を掛け合いながら進む。本ルートをGPSが指し示すと、2人でハイタッチを交わした。多くの時間を要してしまった。でも、2人で声を掛け合い、過ごした時間は、子どもの時に時間を忘れて夢中になって遊んでいた感覚と似ていた。
光さす一瞬
次のエイドの聖ヨハン・イン・チロルに到着。昼間はたくさんの人で賑わっているのだろう。食料品店、洋服店、様々なお店が軒を連ねていた。だが、今は、街自体が静まりかえっていた。
「マルコ、俺は先に出るよ」
上りが異様なほどに速いマルコならすぐに追いついてくるだろうと思った。街を数分歩けば、道路が一気に急な勾配へと変化する。すぐに登山口へと入っていく。ここもまた1000m以上を一気に駆け上がっていく。人々が暮らす街と山がシームレスにつながっているのだ。フィーバーブルンの街の建物には、ほとんどの家庭で赤やピンク、黄色など鮮やかな花が飾られている。山ですれ違う時は、必ず気持ちのよいあいさつをする。車でも必ずすれ違う時は、道を譲ったお互いで手をあげて感謝を伝える。小さい子もこんな高い山をと思うところでたくさん見かける。おじいちゃん、おばあちゃんもマウンテンバイクを乗りこなし、颯爽と山を駆け巡っている。山が当たり前のように生活に根ざしているのだ。最初、ザックを持ち上げてくれたランナーも、レインをザックへと入れてくれたランナーも、お世話になった宿泊先のお母さんも皆優しい笑顔で当たり前のように誰かを助けてくれる。支えてくれる。街で見かける花々のように、心に彩りがある人ばかりだ。
後ろからエンデュランスのランナー2人が声をかけてきた。
「分岐、そっちじゃないよ。」
地図に目をやったが、どうやら私は間違っていないようだった。
3人で地図を確認していると、後ろからグイグイ登ってくるランナーの姿が。マルコだった。そこからは、4人で進んでいく。ストックをつきながら、前のランナーとリズムを合わせ登っていった。足取りと呼吸音が重なっていく。先頭を歩くランナーが後方を指差し、大きな声をあげた。
「後ろ、見てみろよ。」
辺りに雲海がこれでもかというくらい広がり、このレースでこの一瞬だけ、光が雲海に射し込んだ。息をのむとはこういうことだった。何か空から降りてくるのではないかと思うほど神々しく、人間には創り出すことのできない自然にしか創り出すことのできない絶景が広がっていた。
この光景は、一瞬で目の前から消えてしまった。でも、私達の心には、しっかりと焼きついた。
周りに広がっていくストーリー
山頂に着くとここから、また街へと一気に下っていく。エンデュランスのランナー2人にとっては、これがゴールへと続くラストの下りになる。
「ヒロキ、君の下りはめちゃくちゃ強いね。」
「マルコも上りはすごく強いよね。下りが速いのは、足が短いからだよ。」
この会話を聞き、一緒に走っていた4人も大爆笑だった。「俺たちは、90キロでレースを終える。でも、2人は、ここから70キロ走る。とても尊敬しているよ。残りのレース楽しんで」
4人で握手を交わし、私はそこから一足早く下っていった。妻が待つ2つ目のエイドであるキッツビュールへと到着。大きく手を振る妻がエイドへと案内してくれた。
「よく、ここまで来たね。」
とても安心したように優しい表情を浮かべていた。ここでも準備を整えながらも、ザックの中身を入れ替える。先程のエイドでびしょ濡れだったはずのものが、全て洗濯され乾かされていた。そのウェアが何よりも背中を押してくれた。次のエイドに至るまでが、最も長い山岳区間になる。妻が作ってくれたおかゆを頬張りながらパワーを充電していった。準備を終えたころ、マルコがエイドに入ってきた。
「よし、行くわ。」
「待ってるよ。」
拳を重ね、いつもの合言葉。
「パララララララ」
その声に反応したマルコだった。だが、先ほどまでとは、明らかに雰囲気が違った。きっと、彼と会うのはこれが最後になる。そんな感じがした。目を合わせると、マルコは何も言わず親指を立てた。
「ここからは、ヒロキのストーリーを描くんだ。」
そう言われている気がした。エイドを出た瞬間、ゴールへと向かうランナーが戻ってきた。先ほど4人で走ってきた一人のランナーだった。彼は、自分のゴール目前だというのに、私に対して拳を突き出した。私も拳を突き出す。拳を重ねた瞬間、言葉は必要なかった。彼のすべての思いを感じとった。私は、前だけを見て走り出した。全てが背中を押してくれていた。ここから、一人。でも、一人じゃない。
樹林帯を抜け、牧草地を抜けると、どこまでも稜線が続いていた。自分はつくづくトレイルランナーだなと感じる。サーフェスがどんなに悪くても、泥に足をとられようが、空の中を歩いている時間が何よりも心地いい。この時間がいつまでも続いてくれたらいいのに。長い山岳区間のはずなのに、今までのどの区間よりも短く感じた。一歩一歩進むたびに喜びを噛みしめた。一人になって、このレースでもらった言葉、今までの自分を自然と省みることができた。UTMFが終わって以来、夢にも出てくるくらい、悔しさが自分の中にあった。レースで感じた悔しさは、レースでしか返すことができない。そんな思いを抱え、このKAT100に向けて準備を重ねてきた。強く鋭いベクトルはこのレースに向かう自分にとって必要なものだった。
そのベクトルが、このレースの中で和らいでいくようだった。当たり前のように誰かを助けることができる心。自分のこと以上に、周りをリスペクトできる心。そして、純粋に走ることが好きだという心。それは、子どものようであり、強いランナーの心持ちといえた。苦しいことを知っているからこそ、その苦しさを乗り越えてきたランナーだからこそ、周りに気を配ることができる。それらは、全て自分の中で完結していない。周りへと気持ちが向いている。強く鋭く一方向へ向かうベクトルでなく、多方向へ広がっていくように向かうベクトル。自分の世界の中だけで紡ぎ出すストーリーよりも周りに広がっていくストーリーの方が間違いなく面白い。そんな自分を成長させるストーリーをこれからも描いていきたい。未来のことではなく、今この瞬間に真剣に楽しく向き合っていきたい。感情が溢れ出してくるようだった。
最後の10キロは翼が生えたように身体が軽かった。下りだけでなく、もちろん上りもあった。歩くのではなく、全て走り通したかった。それは、意地だった。気持ちよくゴールを迎えるための準備だった。山での下りを終え、街へと入っていく。スタートとは異なり、街の中を抜けてゴールへと向かう。沿道には、多くの人が並んで待っていてくれていた。
「ゼッケンナンバー70、Hiroki Shimura」
MCのコールと同時に、沿道から「Hiroki.Hiroki.」と大きな声が聞こえる。沿道の人達とハイタッチ。もはや、国籍も性別も何も関係ない。そこにあるのは、ゴールに向かう一人のランナーへのリスペクトのみだった。妻の顔が見えた。
「一緒に行くよ」
ゆっくりとゴールへと向かい、2人で鐘を鳴らした。なんて幸せなゴールなのだろう。多くの方に祝福されながら、妻と一緒にゴールゲートをくぐる。渡されたメダルを妻へとかけた。間違いなく、彼女がもらうべきメダルだと思った。
「いつもありがとう」
妻のうれしそうな表情に、共にここまで歩んでこられたことに、胸がいっぱいになった。共に走りきったからこそ見える景色がそこにはあった。さらに、会場から大きな拍手と共に歓声があがった。
また、新たなストーリー描くことができた。そして、また新たなストーリーが始まった気がした。
しむら・ひろき
志村裕貴
1986年山梨県生まれ。山に囲まれた環境で育ち、20年以上続けてきたサッカーの補助トレーニングとして少年時代から山を走り始める。きっかけは、2014年に開催された「UTMF」に出場する弟を迎えにゴール会場へ出向いたことにあった。走り終えた選手たちのゴールシーンに鮮烈な印象を受け、いつか自分もその場に立ちたい、家族や友人に囲まれてゴールがしたいと、すぐにトレイルランニングシューズを購入し練習に励む日々が始まったのだった。小学校教諭という本業の傍ら、トレイルランナーとして競技に取り組んでいる。
2018年ハワイで開催された「HURT100」で総合7位、2019年「OURAY100」で4位入賞、さらに2022年「SwissAlps100」では7位入賞を果たす。結果を求めることに妥協せず、冷静に問題点と課題を分析し、確かな練習を重ねてレースに挑む姿勢が、志村の人一倍闘争心が強い性分を表している。現在はアスリートとしての挑戦だけでなく、トレイルランニングを通じて地元山梨の山、そして日本の山の魅力を発信し続けている。TNF ATHLETE PAGE