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ただ駆けるだけでなく、ただ登るだけでなく。
トランスジャパンアルプスレース2022 選手選考会
北アルプス、中央アルプス、南アルプスを経て、日本海から太平洋まで約415kmを8日間以内に駆け抜けるトランスジャパンアルプスレース。世界一過酷といわれるこのレースに参戦するためには、厳格な書類審査をパスしたうえで、2日間にわたる選手選考会を勝ち抜く必要がある。2年に一度の本大会に向けた、長く厳しい戦いの現場に密着した。
参加条件はフルマラソン3時間20分以内、100kmマラソンなら10時間30分以内
「スタート4秒前!」のコールで、ようやく選手たちの表情が引き締まった。緊張感を伴って取材エリアに立つ自分とは裏腹に、そこまでの彼らは意外なほどリラックスした雰囲気で、にこやかに談笑していたのだ。気心の知れた仲間同士とまではいえないものの、少なくとも本大会出場を賭けた一戦というムードは希薄に思えた。
6月25日早朝、トランスジャパンアルプスレース2022(TJAR)選手選考会が始まった。夜半に吹き荒れた嵐も過ぎ去り、初夏らしい爽やかな朝の光が差し込んでいる。この日、夜明け前から集結した参加選手は59名。いずれも厳しい書類選考をパスした強者ばかりだ。
ご承知の通り、TJARは、北、中央、南と3つの日本アルプスを繋げながら、日本海から太平洋までの約415kmを8日間以内に駆け抜けるという、ほかに例のない過酷な大会である。この8月に開催される本大会に参戦するためには、まずは厳格な書類審査をパスしたうえでこの選考会に参加し、30名という出場枠に入る必要があった。
「TJAR 2022選考会要項」に記載されている「選考内容」は以下の通りである。a)山岳フィールド(山での走力)+下界(ロードでの走力)、b)ビバーク技術、c)生活技術、d)読図力、e)危険予測・回避力・対応能力、f)その他。この週末の2日間でこの6項目が審査されることになる。
さて、そんな選考会が重視しているのは、過酷で危険なTJARに事故なく参戦できること。そのため、参加者には体力や走力と同等に、厳しい山岳地帯を進むための登山技術や知識、適切な判断と行動力が求められている。
意外に思えるのは、この2日間の順位やタイムは、選考にほとんど反映されない点だ。3つのチェックポイントを制限時間内に通過できれば、トップでゴールしようが、最終ランナーになろうが大きな違いはないという。
だが、その点は書類審査の段階ですでにふるいに掛けられているともいえる。厳密にいえば、走力や山岳経験を問う「参加資格」が別途設けられているのだが、まずは次の2項目をみてほしい。この大会に興味を抱き、出場したいと思った人が突き当たる大きなカベだ。
1)TJAR本大会を想定した長時間(コースタイム20時間以上を2日間連続)行動する中、標高2,000m以上のキャンプ指定地(北海道は標高1,500m以上)において、4泊以上のビバークスタイルでのキャンプ経験があること。
2)フルマラソンを3時間20分以内、あるいは100kmマラソンを10時間30分以内に完走できる記録を有すること。
大会の性格を考えれば、これらは理に適った内容に思える。だが実際のところ、この2つを即座に満たせる人間がどれほどいるだろうか。おそらく、たいていの参加者は、不足部分を補完するための入念な事前準備を強いられるはずだ。
経験豊富な登山者は、計画的なランニングで走力向上を図り、競技会に出場して結果を出す。実力あるトレイルランナーは、ひたすら高山に登って慣れないビバークを繰り返し、登山のスキルと経験を養う。そうやって自分に足りない部分をコツコツと補っている間に、1年や2年はあっという間に過ぎていくのだという。
それを思えば、スタート地点で妙にリラックスしていた参加選手たちの様子もうなずける。彼らにとって、この選考会だけが特別なのではなく、本大会出場を賭けた長く厳しい戦いは、もうとっくの昔に始まっていたのだ。
本当は遺言を書いて参加してもらいたい
今回の選考会コースで事前に発表されていたのは、スタート、キャンプ地、ゴールの3地点のみ。それ以外の詳細は、この日の朝に配られたマップで初めて知ることになる。それは選手も取材班も同じだった。
中央アルプスの麓、駒ヶ根高原を朝5時半にスタートした選手たちは、まずは南アルプスに向けて伊那谷を横断し、そこからいったん道路を離れて里山を越え、市野瀬地区へ下る。ここは本大会でもチェックポイントが置かれる南アルプスの登山口だ。そこから長大な尾根を駆け上がって標高3,033mの仙丈ヶ岳に至り、初日のラストは北沢峠に下る。
山道には「読図区間」が2セクション設けられ、計5カ所に仕掛けられたポストの位置を正確に地形図にプロットするという課題も並行してこなす。当然ながら、GPSや地形図アプリは使用できないルールのため、選手は紙の地図とコンパスでの実践的な読図力をチェックされるのだ。
初日のゴールである北沢峠に先回りした私たち取材班は、選手がゴールするまでの時間を利用して、TJARをオーガナイズするお二人に話を訊くことにした。実行委員会代表の飯島浩さんと、実行委員会副代表の田中正人さんだ。
お二人とも初期からTJARで活躍してきた代表的な選手OBであり、プロのアドベンチャーレーサーとしても知られる田中さんは、第二回大会と第四回大会の総合優勝者でもある。
この選考会の主旨と目的を教えて下さい。
飯島:ご存じの通り、TJARは日本アルプスという過酷な山岳での開催ですが、常に山岳環境で訓練を積んでいる人ばかりではないので、書類選考で厳しい条件を課しても、それだけで「参加してください」とは言えない状況なのです。
ここまで続けられたなかで、参加者の傾向は変わってきましたか?
飯島:以前は書類選考の段階で落選する人がけっこう多かった印象ですが、最近はそうした初歩的なところで落ちる人は選考会の場でも少なくなりました。全体的にレベルが上がっている気がします。
選び抜かれたトップアスリートの戦いというイメージが強いです。
田中:そうではないですね。定員30人ということで基準が厳しく、間口が狭いようにも思えますが、ある一定の基準をクリアすれば、誰でも出場できるようにしています。
飯島:要するに、選考会で審査したいのは、8日間という期限内に日本海から太平洋まで行けるかどうかという1点のみです。なので、事故やトラブルを起こさず、山で生活できるスキルを身につけて自己完結でチャレンジできること。これが一番大事な選考基準です。
田中:とはいっても、やはり体力は正義なんですよ。体力があるほど、絶対的な安全性は高まります。だったら、なぜ上位30名を選ばないのか、という指摘をよくいただきます。トップアスリートだけなら事故も起きないし、運営としてもずっと楽です。でも、TJARはそこが狙いではない。やはり、より多くの人にチャレンジしてもらいたいと思っていますので。
エイドステーションを設けず、山小屋も利用不可な理由を教えて下さい。
飯島:エイドを置くというのはマラソンやトレイルランニングレース的な考え方であって、走ることに特化したスタイルです。対してTJARは、あくまでも生活まで含んだ登山なんですよ。
泊まることや食べることをすべて背負って行動し、いつ寝るのか、どこで寝るのか、どこで何を食べるのか……、それらのマネジメントも含めて自分たちで完結させたいということです。その方が面白いですよね?
田中:本来は安全管理すらしたくないという考え方です。全部、選手本人に委ねて、本人の判断で行動するのが理想だと思っています。
それはまさに登山の本質ですね。
飯島:そう思います。とはいえ、レースということでギリギリを攻める選手が多く、かなり危険な状態に陥る可能性があるわけです。理念からすれは不本意ですが、あれこれルールが増えてきました。
田中:そのうち死人が出てもおかしくないことをやっていると自覚しています。だから本当は「自己責任で挑戦する」という遺言を書いてもらいたいと思っています。遺族が他者に責任を求めないように、そこまでするのが完全な自己責任だと思うからです。
出場する選手がすべての責任を負って挑戦する点にこだわる理由は?
田中:もともとTJARには主催者がいるわけじゃなくて、個人の挑戦の集合体だったわけです。「みんなで太平洋を目指そうぜ」って。その設立当初のスタイルを守り続けたいということです。選手一人一人が主催者なのだという気持ちで。
飯島:私たちは主催者になりたくて実行委員になったわけではないんです。もともとは山好きで挑戦好きの集まりだったわけで、その主旨を継続させたいと考えているだけです。続けることは想像以上にたいへんですが、やはり、何年もかけてこの大会を目指してくれる選手たちがいるのは嬉しいことですし、そこに対して応えていきたいと思っています。
山の経験と応用力が如実に表れる瞬間だった
14時50分、最初に北沢峠に姿を現したのは、前人未踏の4連覇で知られる望月将悟選手だった。早朝から9時間以上を駆け抜けたにしては、表情はあくまで爽やかで、汗ひとつかいていないように見えた。チェックポイントでの確認を終えた望月選手はキャンプ指定地に移動し、すぐさま設営技術試験が始まった。
TJAR出場選手たちが使用するのは、「ツエルト」や「シェルター」と呼ばれる簡易的な幕営ギアである。山岳テントのように快適なものではなく、広さは一人がかろうじて横になれる程度で、雨が降れば中まで浸水してくるが、そのぶん、軽量性とコンパクト性は圧倒的で、背負って走ってもストレスがない。
試験では決められた時間内に設営できるかどうかタイムが計測され、完成後は3kgの力が前後左右の4方向に加えられる。嵐の稜線で素早く設営し、吹き荒れる強風下でも倒壊することなく、安全に一夜を過ごせるかかどうかという試験だ。
トレッキングポールを使って立ち上げる簡易的な幕体だけに、的確に張るには山岳テントよりも慣れとコツが必要で、山の経験と応用力が如実に表れる瞬間でもある。実際、荷重試験で力なく倒れるシェルターを前に、がっくりうなだれる選手も見受けられた。
そんなテストを苦もなくクリアして初日を終えた望月選手に、選考会1日目の様子を訊いた。
初日のコースはいかがでした?
望月:途中地図読みもあり、気を遣わなければいけない厳しさがありました。あとは荷物の重さです。この場に朝まで居る必要があるので、多めに防寒具を持ってきたんですよ。本大会ではこれほど長く仮眠することはありませんからね。
TJARでは他の追随を許さない実績を誇る望月選手が、選考会から出場すること違和感はありませんか。
望月:いやいや、それはありませんよ。この選考会は予選ではなく、本大会で危なげなく完走するための体力や技術を確認することが目的だと思うんです。自分もどこかに驕りがあるかもしれませんし、そういった部分でしっかり審査してもらえるのはありがたいことです。それでもやっぱり、緊張はしますよね。
今朝のスタート前は、皆さんリラックスしているように見えました。
望月:それはおそらく、緊張すら通り越していたからじゃないでしょうか。この日を目指してみんなシリアスな2年間を過ごしてきたはずですし、4年、あるいは6年かかった人もいるでしょう。応援の人やメディアの人たちがあれほど集まったのも今までになかったことですし、だから余計に緊張しつつも、笑顔でいたのだと思いますよ。
望月さんにとって、6度目となる今回のTJARはどんな挑戦になるのですか?
望月:40歳を超えると、何かに挑戦することがだんだん億劫になってくるし、失敗したら恥ずかしいと思う気持ちもあります。ですが、そこは自分もイチからチャレンジすることで、これからTJARを目指す人たちに何かを伝えられたらと思います。山から学ぶべきものはいっぱいあると思うので、そこを目指していけたらいいですよね。それがTJAR本来の趣旨に近づくことだし、山に登る意味かもしれませんしね。
繰り返すが、この日の順位やタイムはほとんど成績に反映されない
2日目のスタートは、夜中の2時30分だった。ヘッドランプを頼りに仙丈ヶ岳まで標高差1,053mを登り詰め、山頂からは一気に1582mを下って戸台川。そこから再び449mを登り返して大平山荘。あとは南アルプス林道をひたすら下って、ゴールの仙流荘を目指す。私たち取材班はゴールで待ち受ける作戦だ。
朝8時。真っ先にゴールに駆け込んできたのは、本大会の優勝候補と目される土井陵(たかし)選手だった。昨年のTJAR 2020(コロナのため一年延期となり2021年に開催。荒天のため2日目に中止)では、初出場ながらハイスピードで独走して後続を圧倒。この春には、約170kmの距離を駆け抜ける国内屈指のトレイルランニングレース「ULTRA-TRAIL Mt. FUJI(UTMF)」で準優勝を遂げている。
繰り返すが、この日の順位やタイムはほとんど成績に反映されない。それでも自身のペースを大きく変えなかった土井選手。トップアスリートとはそういうものだ。
チェックポイントでの確認を終えた土井選手は、選考会の最終課題である筆記試験に移った。内容はリスクマネージメントの意識や、非常時の判断や行動などを問うもので、実際の本大会でも起き得る非常にリアルな設問が並んでいた。
筆記試験用紙を提出して選考会を終えた土井選手に話を訊いた。
ゴール後の率直な感想をお聞かせ下さい。
土井:結果はどうあれ、終わってホッとしています。昨日は地図読み区間があったので、自分としてはゆっくり進んだつもりです。天気も良くて、特に仙丈ヶ岳では素晴らしい景色を目にすることができて、選考会らしからぬ雰囲気でした。
この2日間を通して、ご自身にとっての核心部はどこですか?
土井:地図読みで多少迷ったんですが、結果的には間違えなかったから良しとして、一番難しかったのはゴール後の筆記試験です。今までにない専門的な問いだったので、どこまで正解できたかどうか……。でも、体力的には大丈夫でした。
前回大会でトップを独走した土井さんにとって、選考会に出る意味をどう捉えていますか?
土井:前回は途中で中止になって結果は残っていないので、それはそれで仕方ないものと納得しています。条件的には全員が同じなので、僕だけ特別扱いされるのも違うと思いますし……。まあ、出ないで済むなら助かりますけどね(笑)。
トレイルランナーとしてトップクラスの土井さんが、この大会に意欲的な理由は?
土井:自分はもともと登山から入り、トレイルランニングを始めてすぐにこの大会を知ったので、以前から大きな憧れがありました。前回、それを叶えられると思ったら途中で終わってしまったので、その積み残しを拾いにいきます。このTJARは、春のUTMFや海外のレースと同じく、自分にとっての新しいチャレンジという意味が大きいです。もっと多く、新しい世界を見てみたい。その好奇心がすべての原動力なのかもしれません。
合格者が30人を超えた場合は抽選が行われることになっていた
「竹内さんが帰ってきたぞ」という誰かの声で、選手やスタッフたちが続々とゴールエリアに集まってきた。そうしてあたたかな拍手と笑顔に見守られてゴールしたのは最後の選手、竹内雅昭さんだった。
「いやあ、厳しかったねぇ」と紅潮した表情をみせる竹内さんは、選考会参加者中、最年長の62歳である。TJARへの挑戦は2012年からで、今年はちょうど10年目。それだけに選手たちの間では、敬意を持って愛されている存在だ。
富山県在住の竹内さんは若い頃からの登山好きで、NHKで放映されたTJARの番組を観た瞬間に「これだ!」と思ったという。そこから1年がかりで「参加条件」を満たして挑戦して以来、今回で4度目の参戦になる。
「参加条件を満たすこと自体がたいへんなんですよ。仕事も家庭もあるなかで、四六時中TJARと向き合う思いの強さが求められます。だからハッキリ言って、今回ここに集まってきたみんなは、誰もがツワモノだと思いますよ。私も夢を追い続けたいという一心でやってきたんですが、体力的なこともありまして、泣いても笑ってもこれで節目にするつもり。本大会には進めるかどうかはわかりませんが、この先はなにか身の丈にあった別の挑戦をしようかなと思っています」
こうしてTJAR 2022選考会は幕を閉じた。合格者が発表されたのは、それから5日後の7月1日だった。TJARの公式サイトには30名のリストとともに、「今回は合格者が30名となったため、抽選会は行いません」という一文が添えられていた。
実は、この選考会は一定の基準を満たした選手はすべて合格という規定のため、合格者が30人を超えた場合は、抽選が行われることになっていたのだ。
例年の規定では、前回大会優勝者には本大会出場権があり、前回大会の完走者はスタッフとして選考会に参加することで審査が免除された。だが、前回大会がスタート後に中止になったことで、今回はそれらの措置適用はない。
つまり、前人未踏の4連覇という望月選手も、前回トップをひた走った土井選手も等しく選考会に参加し、なおかつ、どちらも抽選で落ちる可能性があったのだ。
なんともやるせない規定だが、それを含んで選考会だと、ほとんどの選手が納得したうえで参加している。いずれにしても、この結果を受けて多くの選手や関係者が、いろいろな意味で安堵したはずだ。
TJAR2022本大会は8月7日午前0時に富山県魚津海岸でスタートを迎える。出場30選手のうち初出場は16名。経験者14名のなかには、望月、土井の両選手と並んで、本大会2ヶ月後に63歳を迎える竹内雅昭さんの名前もあった。
TEXT:CHIKARA TERAKURA
PHOTO:SHIMPEI KOSEKI、DORYU TAKEBE、HAO MODA
トランスジャパンアルプスレース(TJAR)とは
日本海から太平洋まで、3つの日本アルプスを繋ぎながら約415kmを、自らの脚を頼りに走破する縦断レース。第一回大会は創始者、岩瀬幹生の主旨に賛同した4名により2002年8月に開催。以後、2年に1回のペースで開催されている。これだけの距離と標高差を駆け抜ける大会は世界でも例がない。考え方のベースはトレイルランニングではなく、登山そのもの。エイドやサポートを受けることなく、衣食住をすべて背負い、高いレベルでの判断力と経験が求められるチャレンジである。2022年の本大会は、8月7日(日)午前0時に、富山県魚津市の海岸をスタートし、ゴールの制限時間は14日(日)24時まで。詳しくはTJARの公式サイト(www.tjar.jp)をご参照ください。トランスジャパンアルプスレース(TJAR)