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勇者たちの415km

8月7日、真夜中の午前0時、富山県魚津市で2022トランスジャパンアルプスレース本大会がスタートした。日本海から北アルプス、中央アルプス、南アルプスと繋いで、太平洋まで約415kmを8日間以内に駆け抜けるこのレース。飛び抜けた走行距離や累積標高差はもちろんのこと、注目すべきは自分自身との孤独な戦いを続ける30名の選手だろう。この2年に1度の壮大な戦いをレポートする。

午前0時のカウントダウンで、第11回TJARがスタートした

2022年8月7日、真夜中の富山県魚津市早月川河口。午前0時のカウントダウンで、第11回トランスジャパンアルプスレース(TJAR)がスタートした。富山湾に面した海岸には真夜中にもかかわらず大勢の観客が詰めかけ、手を伸ばせば届くほどの距離から選手に声援を送っている。

それにしても予想以上だったのは、ギャラリーの数だ。海岸に隣接する遊園地の海側3カ所の駐車場はほぼ満車に近い状態で、選手の家族や友人、大会関係者だけではとても埋まらない台数だ。スタートに先立って、前夜21時からはステージのある芝生広場で開会式が行われたのだが、来場した観客の多くが深夜まで残って、この瞬間を待ったのだろう。

漆黒の砂浜に数え切れないヘッドランプの光が交錯するなか、揃いの白いビブにバックパック姿の選手30名は一斉に歩みを始めた。誰もが誇らしげに胸を張り、決意を秘めた表情のなかにも、はにかんだ笑顔をのぞかせていた。

選考会の狭き門を突破した強者たちとはいえ、見ず知らずの観衆からここまでの声援を浴びる機会はそう多くなかったはずだ。そして、こうした応援シーンは選手が自らのレースを終えるまで、この先何度も繰り返されることになる。

群衆から抜け出した選手たちは、砂浜から道路に上がると各々のペースで走り始めた。次々と夜の闇に吸い込まれていく選手たちの後ろ姿を見送りながら、この先1週間にわたって寝食を削り、ボロボロになっても足を止めない彼らのこれからを頭に浮かべた。それはTJARという過酷なレースのリアルを、初めて肌身で感じた瞬間だった。

真夜中に29km走り、休む間もなく北アルプス三大急登を駆け上がる

7日午前2時36分、馬場島。真夜中の剱岳登山口は暗闇と静寂に包まれ、ときおり、早月尾根に取り付く登山者のヘッドランプが通り過ぎていく。そこにトップで現れたのはビブナンバー12番、土井陵選手だった。

台風直撃で2日目に中止になったTJAR前回大会ではハイスピードで後続を圧倒し、この春に開催されたトレイルランニングのビッグレース、UTMFで準優勝を遂げている彼は、TJARの新鋭ながら優勝候補筆頭と目されていた。

TJARが策定している「基本行動予定表」によれば、この最初のロード区間29kmの想定タイムは4時間半。それを土井選手は2時間36分で走り抜けたことになる。

キロ5分40秒。いわゆるランナー憧れの「サブ4」ペースだが、幕営道具や防寒具、レインウエアといった大会規定の必須装備一式と数日分の食料を詰めたバックパックを背負い、海抜0mからの登り基調が延々と続く標高差760mぶんのロードという条件下の話だ。そこから先に剱岳が待ち受ける。

TJARの北アルプスパート、その最初に立ちはだかる剱岳は、岩と雪の殿堂として知られ、どこから登っても険しく難しい山だ。大多数の登山者は立山黒部アルペンルートで標高2,400mの室堂平に降り立ち、そこから剱沢を経由するルートを取る。

それに対して、富山側から標高差2,200m強をダイレクトに登る早月尾根は、コースタイムで9時間超。北アルプス三大急登に数えられる健脚向きの、できれば避けたいハードコアルートだ。

そのうえ、山頂からの下りには「カニのヨコバイ」と呼ばれる切り立った岩場が待ち構えている。長いクサリやハシゴが連続し、落ちた時点で即アウト。ガイド登山なら必ずロープを出すという国内屈指の難所だ。

TJAR創始者の岩瀬幹生さん(現TJAR顧問)によると、当初、北アルプスへのエントリーは何本かの候補があり、何年もかけて試走したという。そのなかで、剱岳を経由する現在のコース以外は、きわどい岩稜帯が連続する後立山連峰にルートを取るため、夜中に通過するのは危険すぎると判断。槍ヶ岳から穂高連峰へルートを延ばさなかったのも同じ理由だ。

危険度からいえば剱岳も大差ないように思えるが、ポイントとなるのは通過時間だった。多くの選手はリスキーな剱岳を朝のうちにクリアし、その先の立山を下れば、あとは五色ヶ原から薬師岳、黒部五郎岳、三俣蓮華岳、双六岳と、たおやかな稜線のアップダウンを進んで槍ヶ岳を目指すことになる。

このルートなら、選手は夜中からの長時間行動による疲労と、激しい眠気を抱えたままの状態で、テクニカルな岩稜帯を通過するリスクを回避できるのだ。

実際、トップの土井選手が剱岳を越えたのは7日の朝5時40分で、後続する選手の多くも朝方には通過している。

剱岳通過が遅くなれば、登ってくる登山者と岩場途中での困難なすれ違いが発生し、難所の順番待ち渋滞に巻き込まれる恐れもある。そうしたタイムロスを防ぐ意味でも、早い時間帯に剱岳を通過するのはマストなのだ。

真夜中から29kmもの長距離を走りきり、休む間もなく北アルプス三大急登を駆け上がり、険しい剱岳の岩場を「朝飯前」に越えていく選手たち。これぞまさにTJAR戦士というべき圧倒的なフィジカルの発露なのだが、驚くべきことに、レースはまだ始まったばかりである。

コースタイムの半分以下で駆け抜けたことになる

2日目に入った8日午後13時23分、応援団が待ち受ける上高地チェックポイント(CP)に、北アルプスを駆け抜けた望月将悟選手が到着した。TJARの顔とも言うべきレジェンドの登場に、偶然居合わせた登山者も含めて周囲はにわかに沸き立ち、カメラとスマホの砲列がCPを取り囲んだ。

2016年には大会史上初の5日間を切る新記録で4連覇を達成した望月選手は、次の2018年大会ではすべての装備と食料を背負って進むという大会ルールにない課題を自らに課し、見事「無補給」で完走した。ルール上許されていた山小屋での食事も、商店での買いだしも、決められたチェックポイントに補給物資を用意することも、あえて自ら断ったのだ。

今回4年ぶりの復帰となったレジェンドへの人気と注目度は依然として高く、多くのファンは新鋭土井選手との優勝争いに期待した。だが、5番手で上高地入りした望月選手のタイムは、夜中の3時37分に着いた土井選手からは大きく離され、さらに、4人の選手が望月選手より前の午前10時から12時台に通過していた。

とはいえ、まだ北アルプスを終えた時点で順位争いを語るのはあまりに時期尚早だ。また、TJARはワンデイレースではないだけに、途中の睡眠時間が順位の変動に作用することも頭に入れておく必要がある。

速い選手も睡眠を取ればそのぶん一時的に順位は下がる。だが、睡眠を取らずに走り続ければ、必ずどこかで破綻する。睡眠をどこでどう取るかというマネジメントは非常に重要で、勝敗を決する大事な要素でもあるのだ。

北アルプスでは多くの選手が薬師岳の前か後で仮眠を取っているが、この日、トップの土井選手と2番手につけた木村直正選手は、ほとんど寝ずに歩き続けて槍ヶ岳を越えていた。馬場島から槍ヶ岳までコースタイムの合計は52時間強だが、その区間を半分以下の時間で駆け抜けたことになる。

二人とも槍ヶ岳を越えて中腹のキャンプ指定地で仮眠するつもりでいたが、夜中のテントサイトは満員に近い状態だったために土井選手はそこをスルーして上高地まで走り、早朝に到着した木村選手はまだ寝ている人たちに気を配りながら空いたスペースにそっとシェルターを設営し、そこで1時間半ほど仮眠を取ったという。

これほど注目を集めるビッグイベントに成長したとはいえ、選手も大会関係者もあくまで一人の登山者としてのルールとモラルに従って行動している。それがTJARとしての大原則だ。

当然、大会コースを示すロープやバナーといった設置物は山中にも公道にも一切なく、チェックポイントの設営も驚くほど控えめ。一般登山者とは安全を優先したうえで道を譲り合い、ツエルトやシェルターを張って寝るのは、よほどの緊急時以外はキャンプ指定地に限る。その際、テントサイト料も選手個々がその都度支払っていることも付け加えておきたい。

さて、各チェックポイントでは選手による到着の申告と、GPSのバッテリー交換、スタッフから健康状態のチェックが行われる。「調子はどうですか?」という上高地CPスタッフの問いかけに、「キツイです」と意外な弱音を吐く望月選手。「ようやく思い出してきましたよ、このつらさを」と苦笑いだ。

するとその場にいた実行委員会代表の飯島浩さんはこう言った。

「みんなそうなんだよ。楽しいことだけ覚えているんだけど、いざ走り始めたら、あ、こんなにつらかったんだって思い出すんだよ」

「そうですね。忘れていましたね。でも、それこそがこの大会。苦しさを楽しみながら進んでいきますよ」と、自分に言い聞かせるように立ち上がる望月選手。「限界のその先にある未来へ」と書かれた彼のヘルメットには、今回「I’m back」という新たな文字が書き加えられていた。

最大の難関は連続して現れる大小15のトンネルだ

「選手をスタートさせてしまえば、あとはもう、ただ見守るだけです」とスタート前に話してくれた実行委員会代表の飯島さんだが、こうして各地のチェックポイントに顔を出しては、積極的に選手に声を掛けていた。

TJARのリーダーのひとりで、4度の完走実績を誇る大先輩からの言葉は、選手にとって地獄に仏にも思えたはずだ。以下は4番手で上高地CP入りした石尾和貴選手と飯島代表の会話である。

飯島:調子はどうですか?
石尾:プランからは遅れていますが、夜遅くなってもいいので、今日中に中央アルプス登山口まで行きたいと思います。
飯島:なるほどなるほど。
石尾:土井さんは夜中の3時半に通過しているのですか! 別格ですね。どこまで行くって言っていました?
飯島:今日中に中央アルプスを抜けるらしいよ。
石尾:まあそうでしょうね。レベルが違います。荷物を軽量化しているのはわかっているのですが、それだけではない。
飯島:そうだね、空身でも追いつけないかな(笑)。さて、このあとの舗装路、ホントに危ないから気をつけて。
石尾:66kmでしたっけ?
飯島:まあそんなもん、70km弱。脚にダメージを与えないようにやさしく走らないと、後半もたなくなるからね。
石尾:わかりました。ありがとうございます。いやぁ、やばいレースに出てしまったなぁ(笑)。

観光客で賑わう上高地を通り抜けた選手は、公道を68.6km走って、中央アルプス木曽福島側登山口を目指す。そして北アルプスと中央アルプスを結ぶこの区間こそ、多くの選手たちの心を折る過酷なロードとして恐れられていた。

最大の難関は連続して現れる大小15のトンネルだ。なかでも奈川渡ダムまでの7kmは大半がトンネル区間で、1960年代のダム建設時に掘られた狭くて暗いトンネルを、大型トラックや観光バスがひっきりなしに行き来している。

そのうえトンネル内には歩道がなく、大型車両が迫ってきたら壁に張り付くように避けるしかない。TJARのコースでもっとも危険なのは、険しい山道ではなく主要国道だというのも皮肉な話だ。

奈川渡ダムを渡って松本への国道を左に分けると、山沿いの地方道を約30km走って国道19号線に合流する。途中、標高1,486mの境峠を越えるが、これがなかなかやっかいで、終わりの見えない登り基調のワインディングロードが選手の忍耐力を徐々に削っていく。あの望月選手が何度も心を折られた個所だと言う理由も、実際に通ってみれば納得である。

峠を下り切ると木祖村の薮原地区。ここにはTJAR選手のオアシスと呼ばれる「スーパーマーケットまると」がある。山小屋での食事がNGとなった現在のレースでは、いったん魚津をスタートしたら、最初の補給ポイントは上高地。その先は自販機すら乏しく、約50km進んだ先の山村地帯にぽつりとこのスーパーが現れる。

選手が背負っている食料の多くは、迅速な栄養摂取を優先したエナジーバーやジェルなどの補給食か、炭水化物系スナック類、良くてもせいぜい湯を注ぐだけで食べられるドライフーズだ。そのためレースが進むにしたがって、選手たちは温かでリアルな食事をひたすら渇望するようになるし、最初から途中補給を前提に食料計画を組む選手も少なくない。

したがって、スーパーまるとに着くと待ってましたとばかりに弁当や食料を買い込み、場合によっては前後して到着した選手と表のピクニックテーブルを囲み、ひとときの「まるとタイム」を楽しむ。ここを素通りできる選手はいないのだ。

ちなみに、通過が閉店時間帯だった場合は、その先、国道19号線沿いにある24時間営業のコンビニエンスストア2軒が頼みの綱。中央アルプスに入ってしまえば、あとは駒ヶ根に下山するまで補給ポイントはない。

国道19号線に出たら名古屋方面に進んで、木曽駒高原方面に左折。別荘地の長い坂道を登り詰めると旧新和木曽駒スキー場跡地に至り、そこからしばらく進んだ山中に中央アルプス登山口がある。

たっぷり1時間も寝たならもう大丈夫だろう

中央アルプスは北や南にスケールでは劣るものの、森林限界を超えた秀峰が並ぶアルパインエリアである。人気はロープウェイで標高2,630mの千畳敷まで一気に上がって、宝剣岳や駒ヶ岳を巡るルート。それに比べて、TJARが選んだ木曽駒高原から標高差1,700mを登る福島Bコースは、どちらかといえばマイナーな登山道である。

「それでも週末には何組かの登山者が登って行きますよ」と教えてくれたのは、麓で「木曽駒冷水」と銘打つ無料の湧き水を管理している方だ。「今どきロープウェイを使わないで下から登ろうっていうんだから、みなさん顔つきが違いますね。さっきも一人、選手らしい人が水を汲んでおいしそうに飲んでいきましたよ。ところで、大会でもあるんですか?」

稀少な土井選手目撃情報だった。私たち取材班が登山口を確認したのは8日の夕方で、その時点で中央アルプスに入っていたのは14時半にここを通過した土井選手ひとり。その頃、2番手を走る木村選手はまだ奈川渡ダムを渡ってしばらく進んだあたりで、この登山口到着は22時過ぎと、その差は7時間半。上高地CPでの差はわずかに広がっていた。

福島Bコースで駒ヶ岳に至り、宝剣岳、空木岳と中央アルプスの主稜線を縦走して駒ヶ根高原に下るルートの総コースタイムは21時間45分。途中、剱岳に匹敵する切り立った岩稜の宝剣岳通過には細心の注意が必要だが、多くのTJAR選手はここを10時間前後で駆け抜ける。まるで日帰り登山のような行動時間だ。

この頃、関係者が気にしていたのは、土井選手はいつ寝るのかという点だった。一睡もせずに北アルプスを駆け抜けた土井選手。上高地CPでは「あまりよくない状況です」と、寝てないことをしきりに気にしていた。その後「ダム手前のトンネル付近で仮眠したみたいです」とカメラマンからの情報が入ったが、それもわずか20分程度だったらしい。

この取材ではTJAR公式サイトにあるGPSトラッキングで選手の現在位置を確認しつつ、山中各所を移動しながら待ち構える5人のフォトグラファーとLINEグループを組んで情報を共有していた。また、各地に点在する複数のTJARスタッフがアップするインスタグラムの投稿にも大いに助けられていた。

「土井さん、駒ヶ根に降りてきたところで1時間睡眠を取って、いま動き出しました」というLINEが入ったのは、9日の朝5時57分だった。まずはこれでひと安心。たっぷり1時間も寝たならもう大丈夫だろうと思ったとたん、「たっぷり1時間?」と我に返る。レース開始から3日目の朝、時間と距離の尺度がTJARワールドに染まりつつあるのを自覚した。

その5分後のことだった。今度は竹内雅昭選手リタイアの一報がLINEから流れてきた。出場選手や大会関係者の誰からも慕われ、「泣いても笑ってもこれで最後」と2度目の完走を目指していた最年長の62歳である。

9日の朝5時過ぎに北アルプス双六小屋CPに着いた竹内選手は、同日朝8時がリミットという上高地CPの関門に間に合わないのは明白で、その時点で自らリタイアを申し出た。片や早くも中央アルプスを抜け出した選手がいて、片や北アルプスを踏破することも敵わず、無念の下山を決めた選手もいる。レースは中盤を迎えていた。

流れるような一連の動きには、無駄が一切見当たらない

中央アルプスの稜線に上がると、眼下に広がる雄大な伊那谷の景色に目を見張らされる。グランドキャニオンより広くて深い谷といわれるジオグラフィカルの奇跡。夜間なら光の粒を散りばめた駒ヶ根市街の夜景が瞬いていたはずだ。

真夜中の日本海から走り出して以来、昼も夜もなく山間部を駆け抜けてきた選手が目にするのは広がり感あるパノラマと、その後方に横たわる南アルプスの山並み。そのとき、彼らはなにを思うのだろうか。

実際のところ、この期間の中央アルプスは上部がガスで覆われることが多く、土井選手を始め多くの選手たちは霧や雨、強風にたたられてそれどころではなかったようだ。

駒ヶ根高原に下山すると、そこからのロードは下り基調で駒ヶ根市街を通過し、再び山間部に入って長い峠道を越えた先が南アルプスの入口、市野瀬チェックポイントである。駒ヶ根高原からは29km、想定タイムは5時間だ。

市野瀬CPはコース中で唯一、事前に送ったデポの荷物を受け取れるポイントでもある。段ボール箱に詰めた替えのシューズや靴下、ウエアなどを受け取って装備を組み替え、不要な装備や食料を自宅に送り返すことができる。

また、このCPは大会スタッフかメディア、選手の家族や友人、応援に駆けつけたTJARのOB以外は、ほとんど人が通らない場所にある空間だから、選手も気兼ねなく着替えができるし、スタッフが用意したポリタンクの水を頭からかぶってリフレッシュしたり、横になってゆっくり仮眠を取ることもできる。

こうして私たちは到着する選手たちを待ち受けたわけだが、際立って印象的だったのは、やはり土井選手だった。

彼は段ボール箱を開封すると、真っ先にジェットボイルを取りだし、水を注いで点火。次いでリストウォッチとヘッドランプ用バッテリー、スマートフォンをCPデスクに用意された充電器に繋ぎ、いったんシートに戻って腰を下ろしてからシューズとソックスを脱いで足裏の乾燥を促し、同時に「カレーメシ」と「カップヌードル」のパッケージを開けて湯を注ぐ支度を整えた。その流れるような一連の動きには、無駄が一切見当たらなかった。

行動中はシェルターを張らずに仮眠し、食事も補給食で通す作戦と語る土井選手。規定装備のガスバーナーは最小限のものを背負っていたものの、山の中で取り出すことはなかった。その代わりに、少し重いが短時間で水を沸騰させるジェットボイルと、湯を注ぐだけの食料をデポの荷物に詰め、行程中ここだけと決めた市野瀬CPで箱から取り出し、温かな食事にありついたというわけだ。

よく見れば、段ボールのフタには1から5までの作業項目がマジックインキで書き出されてあり、種類ごとに振り分けたフリーザーパックも機能的にパッキングされている。おそらく、CP到着後の作業手順は事前に考え抜かれており、場合によってはリハーサルしていた可能性すらある。周到なレース準備はデポの荷物交換にまで及んでいたのだ。

食事を終えた土井選手は、マメや水腫れを防ぐ保護クリームを丹念に塗って足裏と指先をケアし、濡れたソックスとシューズを乾いたものに替え、中央アルプスで折ってしまったトレッキングポールを交換。そうして残りを段ボール箱に詰め、封をして送付伝票を貼る。それから、ヨシッとばかりに立ち上がった瞬間、サンダルを箱に入れ忘れていることに気がついた。

「もう〜、言ってくださいよ〜」とひと言。張りつめていたメディアやCPスタッフも一転大爆笑だ。こういうときの関西人の機転とイントネーションは心底ずるいと思う。結局、土井選手はその後も入れ忘れを重ねて3回もガムテープを貼り直して笑いを取り、市野瀬CPを出発していった。滞在時間は45分である。

求めたのは人との競争ではなく、自分の限界への挑戦

夜中の日本海をスタートして以来、すでに237kmを走破し、残るは178kmだが、最後に立ちはだかるのが長大な南アルプスである。市野瀬CPから畑薙ダムまでの距離は約85km、コースタイムのトータルは58時間と55分だ。

コースタイム的には北アルプスより3時間ほど長いだけだが、特徴的なのは一つひとつの山塊が大きいこと。TJARの北アルプスパートで標高3,000mを越えるのは、実は立山と槍ヶ岳の肩の小屋付近だけだが、南アルプスには仙丈ヶ岳、塩見岳、赤石岳、荒川岳、聖岳と5つの3,000m峰があり、それらが長い主稜線のなかでそれなりに距離を置いて鎮座している。

それゆえ、見通しのいい山頂から遠く離れた次のピークを見つけたときの脱力感といったらない。稜線をどこまでも下ったはるか先に、唖然とするような長い登りが控えているのが見てとれるのだ。そんなスケールの大きなアップダウンこそ、南アルプス縦走の特徴であり醍醐味なのである。

南アルプスの前半と後半を分ける三伏峠チェックポイントに選手が到着し始めたのは、スタートから3日目の8月10日からだった。市野瀬CPからはほぼ1日といったところ。一般的なテント泊縦走なら3泊4日の行程だ。

そこから先、赤石岳、聖岳と経て畑薙第一ダムまでの南アルプス南部は、テント泊なら3泊か4泊は必要なルート。だがTJAR選手は1日足らずで駆け抜けていくことになる。

トップの土井選手の三伏峠CP着は10日の朝9時30分。その後は時間を置いて石尾選手、木村選手、馬場誠選手と続き、望月選手と貝瀬淳選手が着いたのは翌朝3時59分だった。

すでにトップと2番手との差は10時間30分と大きく開いている現在、この先の土井選手に突発的なアクシデントでもない限り、優勝は間違いないだろう。それと同時に望月選手の持つ大会記録の更新も現実味を帯びてきた。

「このかつてないレース展開と、土井選手の速さをどう思われますか?」という質問が選手に投げかけられたのは、昨夜の市野瀬CPでのことだった。瞬間、色を失ったその選手の気持ちはよくわかる。だが彼はすぐに気を取り直し、「自分のベストを尽くすだけです。僕の相手は自分自身で、土井選手と戦っているわけではありませんので」と胸を張った。

「ベストを尽くせば……」とはトップアスリートの常套句だが、それは選手へのリスペクトを欠いた記者を煙に巻くための台詞ではなく、自己との戦いに徹底集中するトップ選手の、紛れもない本心であることが多い。今も走り続けているTJAR選手たちはみなそうだろう。求めたのは人との競争ではなく、自分の限界への挑戦なのだから。

「勝負は南アルプスから」と選手たちが口を揃えるのも、なにも選手同士のせめぎ合いとは限らない。数日間の連続行動からくる蓄積疲労や脚のダメージ、慢性的な睡眠不足が限界近くを迎え、幻覚や幻聴が日常になってくるレース終盤だからこそ、自分との戦いがヤマ場を迎えるのだ。「限界のその先にある未来へ」とヘルメットに書いた望月選手の言葉が、リアルに効いてくる頃合いだ。

この強烈で爽快で幸福なひとときは一生忘れないだろう

茶臼岳付近から稜線を外れ、畑薙大吊り橋まで下れば、もうこの先に登山道区間はない。あとは太平洋に面した大浜海岸までの89.7km、TJAR最長ロード区間をひたすら駆けるのみだ。

途中、畑薙第一ダムを渡って最終チェックポイントのある井川オートキャンプ場まではおよそ20km。しばらく進んだ井川ダムからは大井川を離れ、標高1184mの富士見峠を越えて静岡市方面へ。峠からは無数の細かいカーブが続く峠道をひたすら下り、安部川を渡れば、あとは大浜海岸まで比較的フラットな下り基調が続く。

安部川を渡る玉機橋に土井選手が姿を見せたのは、8月11日午後14時半だった。そこから静岡市内までの道路には点々とギャラリーが陣取り、今か今かと選手たちを待ち受けている。県警のパトロールカーが赤色灯を回して巡回しているのは、なにも人出が見込まれる山の日の祝日というだけでもあるまい。

遠くから土井選手が現れ、彼の動きに沿って拍手と声援がウェーブのように迫ってくる。「最後はトボトボと歩くのがやっとでした」と多くの選手が口にする地獄のロード区間を、きっちり走って通り過ぎると、「あの走りはキロ5分ペースだね」と誰かがつぶやいた。

土井選手のゴール時刻を17時前後と見積もった私たちは、16時前に大浜海岸のゴール地点に足を運んだ。空は晴れたり曇ったり。遠くの海上は黒い雨雲に覆われていた。台風が発生し、明日以降にこの静岡市を直撃する可能性が高くなっている。そうなると、いまだ多くの選手が駆けている南アルプスの稜線がとても心配だ。

しばらくすると砂浜に太陽が差し込み、東の青空に二重の虹が架かった。周囲の人たちは誰もがゴールバナーを入れ込んだ虹の写真を撮ろうとやっきになっている。このまま虹のゴールを土井選手が通り抜ければ、さぞかしすごい写真になるに違いないと思ったが、それはさすがに望みすぎというものだろう。

ふと気がつくと、砂浜に降りるコンクリートの階段から波打ち際に近いゴールポストまで、大勢の観客による花道ができあがり、それが刻一刻と人数を増していた。ついに雨が落ちてきたのはそんな頃だった。

そしてその瞬間がやってきた。砂浜に降りる階段に土井選手が姿を現すと、大勢の観客から拍手と歓声が沸き起こった。花道を進むごとにかけられる「おめでとう!」の声援のなか、中学1年生の次男と並んでゴールした土井選手は、両手を上げて、天を仰いだ。

誰もがぐっと来る瞬間だが、あいにくと土砂降りの雨も最高潮だ。なにもこんなタイミングで……と無情な空を呪ったが、むしろそのぶん、この強烈で爽快で幸福なひとときは一生忘れないだろう。

ゴール後に、「今の気持ちは?」と訊かれた土井選手は、やりきった感あふれる笑みをうかべながら、しっかりした口調でこう語った。

「10年前にこの大会を知って、10年後に完走できて……。優勝というのはおまけみたいなものですけど、ここに立てて満足しています。みんなが出たいと思っているTJARですから、そこには絶対に何かがある。だから自分もそれを見たいという気持ちがありました。自分ひとりはちっぽけな人間ですから、応援や支えがなければ出場すらできなかったと思います。そして、ボランティアでこの大会を作り上げてくれた実行委員会とスタッフの方たちには感謝しかありません。今はそんな気持ちでいっぱいです。ありがとうございました」

真夜中の日本海をスタートしてから、4日と17時間33分で太平洋まで駆け抜けた土井選手。望月選手の持つ2016年の大会記録を6時間19分上回る圧巻のゴールであった。

選手の数だけストーリーが生まれ、夢は未来へ受け継がれていく

翌8月11日は台風接近による風雨のなか、415kmを駆け抜けた選手たちが一人、また一人とゴールしていた。それなりに時間差があるのだが、その都度、ゴールには家族や友人たち以外の観客が必ずいて、選手に祝福の拍手と声援を送っている。あの深夜のスタート以来、各所で見続けてきた美しい光景だ。

さらに驚かされるのは、できる限り完走者全員のゴール後インタビューを実現させようというTJAR実行委員会の姿勢だ。

「タイムを気にせず、自分のできることを全部やって、限界まで挑戦しようとスタートを切りました」という2位の木村直正選手は、5日と14時間7分という堂々の記録だ。

次いで3位に入った今大会最年少の石尾和貴選手も、5日と17時間51分の好タイム。彼はひとしきりインタビューを終えた後に、「昨日から疲労が激しすぎて若干記憶が欠落しているので、今話したことは全部偽物の自分だと思ってください」と口にして会場を沸かせた。

4位の望月将悟選手は、地元のレジェンドらしく大勢の応援団に囲まれ、なかなか感動的なものだった。そして、ゴールをくぐった直後に、大勢の観客の真ん中でこんな謝辞を伝えている。

「今までは優勝や新記録といった目標があったのですが、今回はそれがなく、3回くらい途中でやめようかと思ったほど厳しかったです。歳を取ったとか体力がなくなったとか、自分に言い訳をしてきたのですが、でも、そうではない。トランスジャパンは己への挑戦なのだということを思い出し、こうして最後まで頑張りました。いろんな応援をいただいたことで、つらさと眠気をこらえながら6回目のゴールを迎えることができました。どうもありがとうございました」

奥様と長男長女の家族4人で手を繋いでゴールをくぐった5位の馬場誠選手は、「家族の支えがあってようやくスタート台に立てましたし、レース中も家族のことを考えながら、つらいときを乗り越えてきました。支えてくれた家族に感謝しています。これからはその恩返しに頑張らなくては、と思います」

亡くなった恩人のバックパックと共に完走を果たした6位の貝瀬淳選手に、応援の偉大さを訴えた7位の野寄真史選手。さらに、出場した選手の誰もが口にするのは、家族や友人、運営スタッフ、そして名前も知らない大勢の観客への感謝だ。「皆さんの応援に力をもらいました。苦しいときに一歩を踏み出せたのは、たくさんの声援があったからです」と。

出場した選手は誰もが自分への挑戦という目標を掲げてこの415kmに挑んだ。そうして選手の数だけ濃密なストーリーが刻まれ、そこで生まれた新たな夢は、きっと未来へと受け継がれていくはずだ。

「今回ここに集まってきたみんなは、誰もがツワモノだと思います」と選考会で語ってくれた竹内選手の言葉が思い出される。その意味では、太平洋までの415kmを目指した30人は、誰もがみな勇者と呼ぶにふさわしい選手たちだった。

※感動のゴールシーンは、TJARスタッフによるインスタグラムアカウント「@tjar_staff」でぜひご覧ください。

TEXT:CHIKARA TERAKURA
PHOTO:SHO FUJIMAKI、SHIMPEI KOSEKI、DORYU TAKEBE、HAO MODA、TAKEHISA GOTO

トランスジャパンアルプスレース(TJAR)とは

日本海から太平洋まで、3つの日本アルプスを繋ぎながら約415kmを、自らの脚を頼りに走破する縦断レース。第一回大会は創始者、岩瀬幹生の主旨に賛同した4名により2002年8月に開催。以後、2年に1回のペースで開催されている。これだけの距離と標高差を駆け抜ける大会は世界でも例がない。考え方のベースはトレイルランニングではなく、登山そのもの。エイドやサポートを受けることなく、衣食住をすべて背負い、高いレベルでの判断力と経験が求められるチャレンジである。2022年の本大会は、8月7日(日)午前0時に、富山県魚津市の海岸をスタートし、ゴールの制限時間は14日(日)24時まで。詳しくはTJARの公式サイト(www.tjar.jp)をご参照ください。トランスジャパンアルプスレース(TJAR)

トランスジャパンアルプスレース(TJAR)とは
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