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日本最強クライマーはさらなる高みを目指す
昨夏は4年に1度という大舞台に挑み、4位入賞を果たしたスポーツクライミング界のエース、楢﨑智亜。 今シーズンは念願の「ボルダリングジャパンカップ」初優勝を飾り、「IFSCクライミングワールドカップ」でも好成績を連発するなど、さらに進化したクライミングを見せている。 年間チャンピオンを見据えたトレーニングのこと、オフシーズンに熱中している外岩のこと、動画を通じて行う次世代への発信など、最強を目指すクライマーの現在の境地とこれからのチャレンジを紹介する。
2月には見事、「ボルダリングジャパンカップ」を初制覇し、幸先のいいスタートを切れた2022年。ワールドカップも始まっていますが、今シーズンはこれまでにどんな手応えを感じていますか?
まずは「ボルダリングジャパンカップ」を制覇できてホッとしました。これまで取れなかったタイトルを取れたことは純粋に自信につながりますから。シーズン初戦ということもあり、「ボルダリングジャパンカップ」は僕にとって自分のトレーニングの内容が間違っていなかったのか、という答え合わせの場でもあります。そこで優勝したことでいい流れを作れたと思っています。
ボルダリングはどう登るのかに対する正解を見つけ、それを自分のものにして完登する競技です。しかし、自分の得手不得手や制限時間という制約のなかで、あえて正解を選ばずに自分の得意な方法で切り返すという戦略もあります。予選、準決勝と勝ち進む中で正解と自分の得意なムーブに持っていく方法の切り替えの調整がだんだんスムーズになっていき、特に決勝戦では勝負の場でのひらめきや勝負を仕掛けるタイミングがずばりとはまった。自分のもっているものを発揮できたと感じています。
今シーズンに向け、昨シーズンを終えてからどんなトレーニングを積んできたのでしょう?自分自身の課題を教えてください。
いろいろやりましたが、10月くらいから取り組みはじめたことの1つに有効なトライ数を増やすための体力作りがあります。決勝の制限時間である4分以内に勝負を仕掛けられるのは、2本のトライがせいぜい。後半はバテてしまって勝負に出られなくなります。そこで、最後まで粘って完投できる体力づくりのために、普段の練習では8分を制限時間としてそれを繰り返す練習を続けてきました。この粘り強さがあれば、たとえ本番で正解に気づくのが遅れたとしても、後半でも有効なトライを行えるようになります。すると、残り時間が減っていく中での焦りも生まれづらくなりました。
もう一つの課題はコントロールです。自分のベストパフォーマンスは2019年で、ワールドカップでもたしか2位以下は1度もとっていないはず。その2019年と比べてもいまのほうが明らかに強いのですが、じゃあ登り切れているのかというと自分のなかでは疑問があります。大会の課題は傾斜がゆるいものと強いものに分けられますが、傾斜の強い課題では特に上半身のパワーやコントロール力を問われます。自分の結果を振り返ると傾斜の強い課題での勝負は満足のいく成績を残せることが多かったようですが、上半身のコントロールについてはさらに伸び代があると思っていたのでそこを重点的にトレーニングしています。チューブを引いたり懸垂をしたり、低負荷のトレーニングを回数多く行うことで身体に繊細な動きを覚えさせました。そうしたトレーニングが上半身の安定性につながっていると思っています。
4月に開幕した「IFSCクライミングワールドカップ」は初戦を優勝、2戦目を準優勝と素晴らしい流れになっています。実際にどんな手応えを感じていますか?その先にどんな目標を抱いていますか?
「ボルダリングジャパンカップ」優勝からさらにトレーニングを積み、「ワールドカップ」が始まっていい流れができていましたが、新型コロナ感染症に感染してしまい4戦目を欠場しました。いまはアメリカで療養中です。今年はボルダリングの年間チャンピオンを目指しており、ここから年間チャンピオンを狙うとなると「ワールドカップ」の残り2戦は優勝が絶対条件です。ものすごく厳しい局面ですが、逆にそこにスリルというか高揚感を感じています。イタリアで行われる次戦に向けてそろそろアメリカを出国しなくてはいけないというタイミングですが、まずは陰性にならないと出国できません。まずは早く陰性になって残り2戦を優勝するための調整をしていきたいですね(第5戦を3位、最終戦を7位で終え、年間ランキング総合2位で今シーズンを終えた)。残り2戦でさきほどお話ししたコントロールという課題の答えを見つけることが、次のパリにつながると思っています。
2年後のパリを見据えて。
パリというと、その前に昨年の東京のことからお聞きしたいです。優勝候補に挙げられていた楢﨑さんにとって東京での戦いはどのようなものでしたか?
めちゃくちゃ緊張しました(笑)。4年に1度の舞台ですから他の大会と違うものにしたいと思っていたし、東京という特別な場所で勝ちたいという思いが強かった。2019年の選考では世界選手権で優勝した実績があって選ばれましたし、優勝候補とされたことでより強度の高いトレーニングを積んでいったので人一倍の自信がありました。あるがゆえに、本番が近づくにつれ「勝てなかったらどうしよう」という強いプレッシャーを感じるようになりました。
だからこそ、次のパリでは絶対に勝ちたい。パリはボルダリングとリードの2種目となり、1つの種目における比重があがったのでトレーニングしやすい印象を持っています。東京はボルダリング、リード、スピードの3種目でしたが、僕はスピードとリードの両立が難しかったですね。瞬発的なトレーニングと筋持久力を養うという、相反するトレーニングの両立が苦手で。2種目になって落ち着いて向き合えるようになった印象です。
僕自身の課題はやはりリードです。リードでは「ワールドカップ」の優勝経験もないし、去年の世界選手権も4位止まり。世界のトップレベルに達していないのでそこの爆発的な底上げが必要だと思っています。
去年と今年の違いでいうと、昨年暮れにトップクライマーの野口啓代さんとご結婚されたことでパートナーの力も大きいのではないかと思います。競技では野口さんのアドバイスもあるのでしょうか?
僕たちは根本的な性格が全く違うんです。僕は調子に乗るタイプ。トレーニングをめちゃくちゃ追い込むことが好きなのですが、その効果を感じるとふとした瞬間につい手を抜いてしまうタイミングがあるんです。対して彼女はとにかくストイックで自分に厳しい。僕が手を抜きたくなる絶妙なタイミングで啓代からびしっと鋭い指摘が飛んでくるので、あ、自分、甘いなっていつも実感しています(笑)
啓代が引退したことで競技については僕のことをメインに考えてくれ、そこはとても助かっていますね。競技人生は向こうのほうがはるかに長くて経験値も高く、失敗に陥るパターンもいやというほど知っている。だから僕が失敗しそうなときに的確なアドバイスをくれるんです。僕は技術面を突き詰めることは好きなのですがメンタル面を考えることが苦手で、彼女はその逆で見えないものにきちんと向き合ってきている。いいバランスだと思います。啓代がテレビや雑誌の仕事が入っていないタイミングで一緒に登ることもありますよ。お互いに課題を作りあって登ったり、オフシーズンには岩場に行って映像を撮ったり。
コンペティターが外岩で感じること。
楢﨑さんが外岩と聞いて初めは意外に感じましたが、動画も投稿されていますよね。コンペを主戦場とするクライマーとして外岩で感じる魅力はなんでしょう?外岩とコンペでのクライミングにどんな違いがありますか?
外岩の面白さは純粋に強いだけでは登れないところ。湿度、天気、岩の下地といった、自分以外のシチュエーションを意識しながら登るのでボルダリングとはまた違う刺激を受けています。インドア以上に怪我と隣り合わせということも、スリルを感じます。あとは人と比べなくていいところでしょうか。みんなで登りあうことが純粋に楽しいんです。コンペは課題と自分の勝負といいつつも、相手と自分の順位があって結果が出てくるものなので、岩に魅力を感じて大会に出ることをやめてしまうクライマーがいることも理解できます。
自分の主戦場はあくまでもコンペですが、SNSでかっこいい岩や登りたくなるような岩を見つけるたび、オフシーズンに登りに行こうと思ってチェックしています。僕の好みは、やることが明確で複雑すぎない課題。いま狙っているのは瑞牆の、国内最難といわれるV16。村井(隆一)くんが昨年末に登ったFloatinやUnitedという課題です。海外ではビショップのLucid Dreaming。自分がやりたいと思う課題は自分の限界に挑むような難しいものになります。自分をコントロールしきらないと登れないし、それに挑戦して達成できたとなると純粋に自信につながります。だから外岩のクライミングはリフレッシュだけでなく成長に繋がるものだと思っています。
外岩もコンペも、自分のなかでは違いはありません。他のクライマーと少し違うのは、外岩でもトライ数を意識していることでしょうか。岩にそれを求めるのはナンセンスという人もいますが、自分の主戦場がコンペということもあって、初めてみる岩でもあってもより少ないトライ数で登りたい。だから外岩でもそこを意識して登っています。
日本のクライミング界にいま、必要なのは?
昨夏の東京があってクライミングという競技の認知度もアップし、クライマーを目指す子どもたちも一気に増えたと聞いています。日本のクライミング界は今後どう発展していくと思いますか?さらに盛り上げていくために必要なことはなんでしょう?
クライミングという競技を日本でさらに盛り上げるためには、まずパリで誰かが金メダルを取らないといけないですよね。昨年の東京は滅多にないチャンスでしたが、僕はそれを達成できなかった。けれどコンペティターができる最大の貢献は、大きな舞台での金メダルだと思っています。
日本の事情をお話しすると、クライミング強豪国ではあるのですがコーチ不足という問題を抱えています。いまのトップ選手たちが個人的に強いというだけで、指導者は圧倒的に足りない。なので、いまのトップが引退してコーチやクライミングに関わる仕事に就いたとき、大きな変化があると思っています。世界の第一線で戦っていた選手ならではの時間の使い方やムーブの組み立て方をダイレクトに伝えられる指導者が出てくることは大きなインパクトになるはずですから。
クライミング界全体の発展でいうと、クライミングは自然に左右されるアウトドアアクティビティとしての魅力も備えています。岩場のトップクライマーがクライミングだけで生きていけるような構造ができればいいと思っています。たとえば、いまのトップ選手が引退した際に岩場のクライマーになって、企業からのサポートを受けたままアウトドアクライミングを続けてアピールする、とか。クライミングがオリンピック競技に採用されたことで競技志向が強くなりました。僕や啓代、そのほかいまトップで活躍している選手たちが競技として成立させたいという思いを抱いてやってきたことが実を結びつつあります。この方向はこれでいいとして、強さを追い求めることだけがクライミングでないことも知ってほしい。そうやって少しずつクライミングの多彩な魅力が伝わっていけばと思います。
楢﨑さんは動画の投稿も熱心ですが、そうした発信にもクライミングを盛り上げたいという意図があるのでしょうか?
メディアに出る映像って競技に特化されているので、一般の人にとってはかなりハードルが高いですよね。それを見ても「よし、クライミングをやってみよう!」という気にはなりづらい。それよりむしろ、SNSに流れてくる何気ないボルダリングや外岩の動画のほうが共感を得やすいと思うんです。僕としてはクライミングがより身近なスポーツになってほしいので、その視点でのクライミング動画や写真を投稿しています。
その一つがHOW TO動画。実は、編集がめちゃくちゃ難しい。普通に見せても「身体がどう動いているのかわからない」と言われたので、腰の位置、胸の位置、壁からどのくらい離れているかなど、トップクライマーが日頃意識していることをわかりやすく伝えようと思って編集しています。いちばん嬉しいのは、フォロワーから「HOW TO動画を見て参考にしたら、できなかった課題ができるようになった」といわれること。それから「クライミング経験はないけれど、見ているだけでワクワクする」というコメントも嬉しかったですね。海外の大会では、観客から「いつも動画見ているよ」なんて声をかけてもらうこともあります。コロナ禍で子どもたちにダイレクトに教える機会もなくなってしまったので、そこを意識してHOT TO動画を撮っています。こういう動画を通じてトップクライマーやそのクライミングを身近に感じてもらい、興味をもってもらえたら。
将来が楽しみな若手も出てきていますが、楢﨑さんが注目する選手、戦いたい選手は誰でしょう?
運動神経が良くてひらめきも際立っている、フランスのMejdi Schalck。あとはアメリカのコリン・ダフィー。ボルダリングは参加する選手全員で課題を下見して、どう登るのかをみんなで相談するんです。年齢も国籍も関係なくみんなで一緒に取り組む、そういう関係性が育まれる競技で、そこが魅力だと思っています。パリではおそらく彼らが台頭してきているはずなので、彼らと一緒に登り合えることをいまから楽しみにしています。
ライバルというか、戦いたいのはアダム・オンドラ。現在、世界でいちばん強いクライマーだと思っているので、実際にコンペで戦えるとワクワクします。尊敬するのは、レジェンドのキリアン・フィッシュフーバー。ワールドカップで20個の金メダルを持っていて、年間チャンピオンも5回。……純粋にすごい記録ですよね、圧倒されます。
ところで、記録でいうと啓代もすごい。彼女は現役時代を通じてワールドカップで70数個のメダルをとっているんですね。僕のメダル数は23、4個。そう考えると、やっぱり啓代はバケモノだと思います(笑)。
楢﨑智亜
Tomoa Narasaki
1996年生まれ、栃木県出身。10歳でスポーツクライミングを始める。器械体操で培ったバランス感覚や跳躍力を武器に、中学3年時に国内ユース公式戦で初の表彰台へ。高校卒業と同時にプロに転向するとそのわずか2年後、2016年に日本人選手初の世界選手権優勝。2017年のワールドカップでは、リード、ボルダリング、スピードの3種目で争われる複合部門で初の総合優勝を達成した。2019年8月、最初の東京五輪選考大会となった世界選手権コンバインド(3種目複合)決勝では圧倒的な成績で優勝を果たし、五輪代表に内定。東京五輪で採用されたスピード競技でも日本記録を更新するなど世界トップクラスの実力を見せつけたが、現在はボルダリングとリードの2種目に専念し、2024年パリ大会を見据えた挑戦を続けている。「トモアスタイル」と称される、高い運動能力を活かした独創的なムーブで国内外のクライマーたちをインスパイアし続けている。TNF ATHLETE PAGE
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