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世界の岩場を知る平山 ユージが、
埼玉県二子山を再生・開拓する理由
埼玉県と群馬県の県境、秩父の最奥部に聳える石灰岩の双耳峰、二子山。 西岳と東岳、二つの峰が切り立つ山容からそう名付けられ、多くの登山者やクライマーを惹きつける。 80年代後半にアクセスが容易となる林道が見つかったことで、関東のクライマーたちによる開拓が一気に進んだ。 とくに東岳は美しい石灰岩の前傾壁にコルネやポケットが刻まれる日本を代表するクライミングエリアである。 その後、開拓ラッシュは西岳へ向かったが、アプローチが遠く、ルートが短く、分散していたというのもあり、開拓は進まなかった。 その西岳に目をつけた日本を代表するクライマー平山 ユージ。 地元の協力を得ながら、コロナ禍という目に見えない圧力を味方につけて、地元の有志クライマーとともに二子山再生プロジェクトを立ち上げた。 クライマーとしてだけでなく、地域に溶け込む新たな開拓者になった“世界のヒラヤマ”に話を聞いた。
二子山に50回以上通ったという平山 ユージさん。
二子山の西岳墨壁フェイスにて。
ユージさんが、はじめて二子山に登ったのはいつ頃でしょう?
「たしか20歳のとき、89年の4月だったと思います。通っていた都立の高専を1年間休学して、クライミングをするためにフランスへ行っていました。ちょうど帰国していたときで、仲間が二子山を開拓していたので、じゃあ俺もって。ちょうど関東のクライマーたちによる東岳の開拓ラッシュがひと段落ついたころですね。中退してクライミングで食べていくか、高専へ戻って卒業するか、モヤモヤしていた時期だったので人生の岐路にいたという印象しかないですね。1ヶ月くらいで開拓してあるルートは登り尽くしました。一番難しかったのが、いまのグレードでいうと5.13bくらいですね。開拓している人の中に大工英晃さんという方がいて『ユージ、開拓したかったらいいよ、やって』と声をかけてもらって4月から6月の梅雨時期までの間に、6本ルートを作りましたね。その2か月あまりの間に、やっぱり僕自身はいましかできないクライミングを続けようと、まずは2年間プロクライマーとして頑張ろうと決心しました」
それからヨーロッパへ渡り、1998年、2000年と日本人初のワールドカップ総合優勝に輝きます。再び二子山に戻ったのはいつでしょう?
「当時、二子山でやりっぱなしにして、ヨーロッパへ行ってしまったプロジェクトがありました。再び二子山に戻ってきたのは、11年後の2000年だったと思います。たまたまアメリカの女性クライマー、リン・ヒルが来日していて、彼女を二子山へ案内したときに、そのやりっぱなしのプロジェクトを登ってみたんですよね。11年前と自分の技量も変わっていたのでしょうね、立体的に感じるというんですかね。11年間国内外で積み上げてきた時間をそのルートで表現できたと思います」
それが、当時国内最難だったフリールート、フラット マウンテン(5.14d/15a)初登だったのですね。
ユージさんにとって、クライミング人生の転機ともなった二子山ですが、今回どのようなきっかけで再生するに至ったのでしょう?
「二子山のほか秩父や小鹿野町周辺で、あちこちの岩場を訪れて、このあたりの岩場としてのポテンシャルはすごいなと思っていました。群馬側も含めると日本一大クライミングエリアとして認知される可能性を秘めています。クライマーが自由に訪れることができる開かれた岩場にしたいなとずっと思っていて。
2008年だったと思いますが、二子山を抱える小鹿野町にクライミングによる町おこしの企画書を提出しました。しかし、当時はクライミングの認知度も低くて、それが大きく動くということはありませんでした。ところが、それから10年後の2018年、小鹿野町のひとりの議員さんがその企画書を見つけ出してくれて、突然電話をもらいました。おそらくクライミングがオリンピック競技になったこともあったのでしょう。町長さんから直接『小鹿野町観光大使として、クライミングを通しての町おこしを一緒にやっていきませんか?』と声をかけてもらいました。ありのままの自然が観光資源となり、人を呼び、話題を生み、地域が元気になるクライミングが、町おこしに繋げられると気づいてくれたということで、うれしかったですね」
町おこしとしてのクライミングを盛り上げていきたいというユージさんの思いが、10年の歳月を経て、実現していったのですね。
「近くの東京都奥多摩町で、ひとついい事例ができていたのも、よかったですね。2016年から再生をはじめた奥多摩の御前岩です。クライミングが禁止になっていたんですけど、奥多摩クライミングセンター代表のノブさん(徳永信資氏)が、地元の人たちの懐に飛び込んで、地元クライマーだけの集まりで岩場を整備して、2017年12月に開放されました。もちろんオリンピックという後押しもあったでしょう。あと山村地域の少子高齢化も追い風になった気がしますね。岩場を求めて若い人が移り住んでくれてうれしいって声を聞きました。若い人といっても徳永さんは僕のいっこ上ですけどね(笑)」
岩場の再生には、まずは地元の理解が必要だということですね。
「小鹿野町も御前岩のような進め方で、地元の中へ飛び込んでいって、地元の人にクライミングを理解してもらえれば、町内にいっぱい眠っている岩場をひとつひとつ開放できると感じていました。小鹿野町にも岩場を維持し、守り、発展させていくクライマーのコミュニティーが必要だよねって言ったときに、手を上げてくれたのがマサ(橋本正寿氏)でした。彼が中心となって2019年の7月に小鹿野町クライミング委員会が発足しました。(2020年10月に一般社団法人「小鹿野クライミング協会」となる)」
小鹿野町の数ある岩場の中で、なぜ、二子山から再生がはじまったのでしょう?
「二子山の土地所有権は、秩父太平洋セメントという会社にあります。そういう土地利用を含め、小鹿野町や観光協会が僕らの活動をバックアップしていただけることを考え、まずは二子山からはじめようと。それが2020年の西岳再生プロジェクトです。西岳にろうそく岩という岩場があって、そこを中心にやろうと。そして、このコロナっていうのが世界中を席巻していくわけですけど、結果的にそのコロナがかなりの後押しになりましたね。県をまたぐ行動を自粛要請され、自宅がある埼玉県内から出るなとなれば、みんなで二子山へ行くしかない!って流れになりましたね(笑)」
あの蒸し暑い梅雨時期に、開拓していたのですか?!
「梅雨時期は普通なら二子山には行かないですよ。でも行ってみたら、雨とか湿気とか完全に忘れてしまうくらい西岳の岩場としてのポテンシャルがすごくて、テンションが上がりました。西岳は東岳よりもっと古くから人が入っていたようです。当時、二子山の開拓は西岳からはじまって、80年代後半にヨーロッパのスポーツクライミングが入ってきたタイミングで、関東のクライマーたちが88年頃から東岳に通いはじめた。だから、西岳の草がぼうぼう生えていてどうすんのこれっていうような壁でも、よく見るとボルトの跡がある。ろうそく岩なんてひどいもんで、リングボルトが至るところに打たれていて、見るも無残な光景でした。西岳は登れるパートというのはちっちゃな面で、比較的分散して別れているんですよ。だから、短時間でいっぱい登り込むなら東岳、仲間複数人でも移動がスムーズな東岳へって感じで、西岳から足が遠のいていったんじゃないかな。でも、僕らはこのコーナーを曲がったらどんな岩があるのか?と冒険心みたいな、ワクワク感みたいなのがあって、そういう面白さが西岳にはありますよね。天気が悪くても誰かいる(笑)。僕も6月から10月までの5月間で50日くらい二子山へ行っていますね。自宅から車で1時間半弱と、比較的近いというのもあります」
ルート再生への具体的な作業を教えてください。
「真っ白な壁だと思って、まず正面に立って見上げます。一本一本のルートが作品として残るようにコーディネートするような作業ですね。例えば、ルートが壁の途中で終わっていたら、上までつなげた方がいいよねって委員会で話し合って、作業を進める。バリエーションが上の方でちょこっとしかないルートは、ルートコーディネートして、一本一本をより存在感あるものにしていく。とはいえ、当時開拓した人の足跡がたどれるルートは開拓者に相談したりして敬意を払いながら、ルートに沿ってより良いラインを描くことを心がけています」
14年ぶりにユージさんによる二子山フラット マウンテンの国内最難グレード塗り替えた。それにしても豪華な開拓者である。
最終的なコーディネートの舵取りをするのは、協会のなかではユージさんおひとりなのでしょうか?
「協会のみんなと意見を交換しながら、僕と佐千(安間佐千)でコーディネートしていくという流れですね。奥多摩・御前岩はすべて僕がやっていましたが、今回は若い目線で佐千に入ってもらっています。6月から10月まで50本以上ルートを再生、開拓しました。再生したルートと開拓したルート、比率としては半々くらいですね。まだ10本くらい現在進行形で、作業をすすめています(2020年10月30日現在)」
ユージさんと安間佐千さんとでは、岩をみる目線というかコーディネートの仕方って変わるものですか?
「そこまでは変わらないと思いますが、彼は30そこそこで若いから、こういう可能性もあるんじゃないか、こういうルートも面白いんじゃないかって新しいことを提案してくれる。刺激がありますよね。みんなが目指しているのは、一本一本のルートが存在感を増し、そのエリアをひとつの絵として俯瞰したときに、輝いてワクワクするような綺麗な絵になっていること。みんながそのゴールを見ながら、いい方向へ向かっていると思います」
ルート開拓のためボルトを打つにしてもお金がかかります。それらの費用はどこから捻出しているのでしょう?
「いまは協会内で、みんなボランティアでやっています。一本のルートを作るのにだいたい資材だけで1万4、5千円かかります。今年かかった費用が諸々50万円くらい。奥多摩の御前岩が30〜40万円くらいでした。ただこの作業を永続的にやっていくことを考えると、さまざまな人や会社、町のサポートも必要になってきます。2020年10月から委員会が一般社団法人になったので、これからは会員を募って、持続可能な開拓、維持管理ができる体制作りを整えていくことになると思います」
二子山は、全体的に見ると難しいルートばかりなのでしょうか?
「そうですね、これまでは上級者だけが通うグレードの難しいエリアでした。でも今回、開拓の経験がない地元の人にお願いして、優しいルートを何本か作ってもらいました。クライミング人口の裾野を広げるためにもグレードの低い岩場の開拓は、もっとこれからやりたいですね。林道脇から短いアクセスで、初心者エリアとして開拓できそうな岩場はいくつか見て、見当をつけています」
「これが落ちたら危ないし、岩場が美しくない。
まさに庭師の感覚です」
再生、開拓のやりがいはどこにありますか?
「再生でいうと、当時、先人が苦労して引いたルートを蘇らせる、もう一度岩に血を通わせるという感覚にやりがいを感じますね。再生・開拓プロジェクトって庭仕事の感覚です。草がぼうぼう生えているところを、刈り整えて、誰が見ても美しい見栄えにしていくっていうのかな。うまく言えないけど、日本庭園をいじっている感じ。どんどんきれいになって、整理されていく。すると気持ちも落ち着いていく。そして、岩も体も自然の一部として存在し続けるという感じがなんともいいですね」
今年引いたルートのなかで、もっとも印象深い1本を教えてください。
「Apollo11(アポロ・イレブン)ですね。突然、僕のお父さんの話になりますけど・・・。父親は僕がクライミングをすることに大反対でした。僕がクライミングはじめた頃って、ヒマラヤや国内の山でたくさんの人が亡くなっているんですよ。いろいろ説明するんだけど、なかなか理解してもらえなくて、岩登りを隠れてやっている状況でした。親との会話もだんだんなくなっていって。でも、僕はクライミングが好きだったから毎日トレーニングして、お父さんはその姿を見ていたんでしょう。アメリカへ行くときに、お父さんが少し心を開いてくれたのか、餞別をくれました。その後ほどなくして、ヨーロッパからスポーツクライミングの波が押し寄せ、日本でもヨーロッパのクライミングレベルへ追いつこうとボルトを打つスポートのスタイルが広まってきて、僕らもスポートのスタイルに傾向していきました。ただ、そのハンガーボルトの値段は、ワンセット700〜800円。さすがに高校生には高くて買えない。父親は平山プレスという金属加工場を営んでいました。高校で教えてもらった図面引きで図面を書き、お父さんに見せたら『おお、じゃあ作ってみようか』って言ってくれて。当時500円したステンレス製のハンガーを300円くらいで、ショップやクライマーに直接販売して、日本全国のクライマーがルート開拓を安価にできるようになったんです。いま奥多摩と二子山でリボルトをしていますが、8割くらいお父さんが作った平山ハンガーです。おそらく何万個と製作したでしょうね。これまで父の功績にはまったく気づかなくて、奥多摩のリボルトをはじめたときに、はじめてあーすごいなと思いました。僕の知らないところで日本のクライミング界を支えて、後押ししてくれていたんだなーと。反対しながらも、僕の意思を見てくれていたのでしょう」
太陽のような明るい人柄に人は魅了され、集まってくる。
二子山再生は、お父さんの手仕事に支えられていると?
「そんな父親も4年前に工場をたたみ、平山ハンガーは僕の手元にあるだけになりました。お父さんが作った最後の平山ハンガーを西岳、墨壁フェイスのApollo11(5.13d/8b)で全部使い切りました。そして、ちょうどこのApollo11を打ち終わった日の翌日に、お父さんが亡くなったんですね。なんとなく父の功績が残るような名前にしたいなあと思って。俺が生まれた年のことを話してよって聞いたら『アポロ11号が月面着陸した年だよ』って言ってくれるような気がしたんです。それでApollo11という名前をつけました」
Apollo11という名前には、お父さんへの感謝が込められている。
2020年に再生・開拓したルートは、どこかで発表したのですか?
「12月7日発売の山と溪谷社『ROCK & SNOW 090』で発表して、約50本を紹介しました。全体の概要とルート一本一本のコメントを執筆し、トポも掲載しました。この公表によって、クライマーたちを呼び込み、新しい流れができると期待しています」
アスリートとしてのこれからのビジョンを教えてください。
「しばらくは開拓を通して、人間的にも技術的にも磨かれていくことになると思います。さまざまな問題で、クライミング自体が社会に受け入れられなかった時代が長く続きました。しかし、いま社会がクライミングを大きく受け入れてくれる時代になりつつあります。チャンスを見逃さずに、扉をしっかり開きたいですね。一方、二子山は、アスリートとしての限界を押し上げるフィールドでもあります。今年開拓したなかでいちばん難しいルート5.14c/8c+を安間くんが作ってくれたんですけど、この冬チャレンジしたいと思っています」
平山 ユージ
YUJI HIRAYAMA
1969年東京都生まれ。15歳でクライミングをはじめすぐに頭角を現し、10代で国内屈指のクライマーに。1998年のワールドカップで日本人初の総合優勝を達成。2度目のワールドカップ総合優勝を飾った2000年は、年間ランキング1位に輝く。世界一美しいと評されるクライミングスタイルは「世界のヒラヤマ」と称される。2010年には長年の夢でもあったクライミングジム「Climb Park Base Camp」を設立。近年はワールドカップなどでテレビ解説を務め、公益社団法人日本山岳・スポーツクライミング協会副会長として普及活動を積極的に行っている。トップクライマーになるまでの生い立ちは『ユージ☆ザ・クライマー』(羽根田治 著/山と溪谷社)に詳しい。TNF ATHLETE PAGE
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2020.10.30
WRITER : SHINYA MORIYAMA
PHOTOGRAPHER : MAKOTO KURODA