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アルパインクライマー佐藤裕介
復活を果たしたモチベーションの怪物
アルパインクライマー佐藤裕介は、3年前の南米パタゴニアでの事故を境に、かつてないほどの不調に陥っていた。世界の登山界から注目を集め、国内外の本気クライマーを唸らせ続けた実力者が、完全に自信を失っていたのだ。そのどん底ともいえる日々から彼はどう立ち直り、クライマーとしての自身を見つめ直したのか。これまであまり語られることのなかった事実に触れつつ、その復活の道程に迫る。
モチベーションだけは誰にも負けないと思っていた
「今は生涯で一番かも。完全に絶好調です。もうこんな気持ちに戻ることはないと思っていたんですけどね」
軽トラックに積まれたリフォーム用の建材を降ろしながら、佐藤裕介は話をはじめた。
佐藤はガイドの仕事と並行して、格安で入手した中古物件を自らの手でリフォームしていた。古民家というよりは古びた昭和の住宅。床を剥がし、構造体にも手を加える本格的な工事だった。八ヶ岳を背後に背負い、背筋を伸ばした富士山を真正面に望む高台の立地。山好きにはたまらないだろう。一度はどん底まで落ちたモチベーションを回復させた佐藤は、ここから新たな生活をスタートさせようとしていた。
佐藤はアルパインクライマーとして傑出した存在である。高校山岳部で登山を始め、大学で社会人山岳会に入会してから一気に才能が開花。フリークライミング、ボルダリング、アルパインクライミング、アイスクライミング、沢登りと、クライミングカテゴリーすべてに情熱を注ぎ込み、いずれも高いレベルで実績を積み重ねてきた。
なかでも、20代後半から始まった海外遠征では、同世代の仲間たちとアラスカやヒマラヤの岩壁で次々に成果を挙げ、世界の山岳界からも注目を集める存在になった。アラスカ・デナリの継続登攀では米国「CLIMBING」誌のゴールデン・ピトン・アワードを受賞。インドヒマラヤ・カランカ北壁ダイレクト初登攀では登山界のアカデミー賞といわれるピオレドールに輝いている。
20年以上に渡る佐藤の登山経歴は、本気クライマーたちを唸らせる錚々たる記録のオンパレードだ。それはもう圧倒的といっていい。だが、そこにはエベレスト登頂のようなわかりやすいタイトルは存在しない。なぜなら、佐藤が飽くなき挑戦意欲を燃やしたのは、誰も登ったことのない岩壁や、自分がベストを尽くしても登れるかどうかがわからない困難な登攀だったからだ。それはすなわち、クライミングの本質。佐藤が追い求めてきたのは、まさにその一点だった。
佐藤さんと登山の出会いは高校山岳部からですよね。
そうです。中学まではサッカーをやっていたんだけど、高校では団体競技ではなく、自然のなかで自分のペースでできるものがいいなと。これは山だな、山岳部でしょ、って。山をやろうと思ったその時点で、なぜか僕は、岩や氷の壁をイメージしていたんですよ。いつか自分もああいうクライミングをするんだと決めていた。で、そのためにはフリークライミングができなくちゃいけないと思って、当時韮崎にあった「STEP」というクライミングジムに通いました。そうしてジムで何回か登っていると、やっぱり本物の岩を登ってみたくなる。それで、家から遠くに見えていた石切り場に原付バイクで行って、一人で登ったのが最初のクライミング体験です。落ちたら死ぬと思って、かなり緊張しましたよ。
佐藤さんは現在42歳、あらためて考えてみると、40代に入ってもなお高いモチベーションを持ち続けている。それはすごいことですね。
僕は、モチベーションだけは誰にも負けないと思って突っ走ってきました。まだ幼稚園児だった長女にこんな話をしているんです。「お父さんが一番好きなのは山で、その次がはるかだからね」「うん、わかった」って。ひどい父親ですよね。山がすべての中心で、家族も二の次、もうイケイケでした。
それでも僕のモチベーションには波があって、基本、高いレベルで維持しているようで、浮き沈みはあったんです。それが、あのパタゴニアの事故で、どん底まで落ちてしまったんです。
ほとんど死んだも同然だったパタゴニアの事故
佐藤が南米パタゴニアで事故に遭ったのは2019年2月のこと。フィッツロイ山群の鋭く尖った8つのピークを継続登攀で縦走する「フィッツトラバース」にトライした入山3日目のことだった。
3座目のピークに登頂後、懸垂下降中に50mあまりを墜落。重傷を負った佐藤は、パートナーの「ジャンボ」こと横山勝丘の要請を受けたクライマーやガイドによる、3日間に及ぶ果敢なレスキューによって生還した。
現地の病院に運ばれた後もしばらくは集中治療室から出ることができず、まったく予断を許さない状況だったという。だが奇跡的に重い後遺症が残ることもなく回復し、事故から1カ月の入院と10日の通院を経て、日本に帰国した。
パタゴニアの事故について、これまでご自身ではあまり語っていませんね?
ウェブの対談企画で少し触れていますが、そのことについて雑誌に寄稿したことも、インタビューで答えたこともないです。
僕が話さなかったのは、ふたつ理由があります。あれはパーティ全体の判断ミスだったんですが、パートナーも関わっていることだから、あまり僕からは口にしたくなかった。それがひとつ。
もうひとつは、事故ったときの記憶がないんですよ。その日のテントサイトを出た記憶はある。風がひどくて途中で風待ちしていたことも覚えている。でも、そこから先の記憶がない。だから事故の話はすべて人から聞いたことなんです。
事故の件は当時クライマーの誰かから聞いたと記憶していますが、表沙汰にしたくないというニュアンスがありました。
それは、まだ僕がICUに入っていて、死ぬ可能性もあったからだと思います。死んでいたとしてもおかしくなかった。いや、ほとんど死んでいたも同然だったようです。
なにせ、懸垂下降中のミスなので完全に致命的です。50m墜落した僕は、たまたま外傾したテラスに落ちて一命を取り留めた。でも、下にはまだ標高差で数百mある岩壁が続いていたので、そこから飛び出していたら確実に死んでいた。
稜線付近からの救出劇は、パタゴニアのレスキュー史でも最大級のものだったそうですね。
たまたま周辺にいたクライマーが有能だったことと、レスキューの技術もある方が多くいらした。それでなんとか助かったという状況だったようです。あれは運だと思います。幸運と、多くの方々の尽力で、僕は生かされたんです。
集中治療室にはどれくらい入っていたんですか。
自分では覚えていないけど、一週間以上いたんじゃないですか。鎮痛剤を打っていたから、さらに記憶があいまいです。それでもICUを出た後の病室で、ジャンボ(横山)が事故のことを全部話してくれたことだけは鮮明に覚えています。
体にはどんなにはダメージが?
一番は脳挫傷による脳圧の上昇。それで生きるか死ぬかをさまよったようです。頭骸骨に2個所穴を開けて、炎症によって多くなりすぎた組織液をドレーンで出しました。退院後も、脳圧が上がったままでは気圧が変化する飛行機には乗れないので、検査でOKが出るまでは帰国できませんでした。
あとは全身打撲と肋骨の骨折、帰国してからわかったんですが、腰椎も骨折していました。頭部は眼底骨折。その影響で右目が少しつぶれています。最初は斜視がひどくて、モノが二重に見えたりしていました。今も視野の端のほうは少しブレて見えます。あとは左右方向の速い動きに対応できない。だから、運転も慎重にしています。
それでも、帰国した翌日からクライミングジムに通ったと聞いています。
もう、その頃はやる気満々で、来年、体が治ったらまたヒマラヤに遠征しようぜ、ってジャンボに言っていました。「いやいや、さすがにまだ無理だろ」って呆れられましたが。
やる気満々でしたね。とりあえず死ななかったし、なんとか歩いているし、今の俺のケガなんて屁みたいなもんだから、って。なにせ、事故の直接の記憶がないから、怖さゼロ。いいか悪いかは別として、トラウマがまったくなかったんです。
体は完全ではなかったんですが、ジムの初心者課題くらいは登れました。落ちない範囲でクライムダウンして、ちょっと怖いと思うことはやらない。おぉ、今の危なかったなぁ、とか言いながら登っていました。
で、日本の病院でも精密検査を受けたほうがいいってことになり、その2日後くらいに病院に行ったら背骨も折れていることが判明。それがわかってからは、より慎重になりました。絶対に落ちないように登ろう、ってね。
背骨が折れているとわかったら、まずは治るまで待つという選択じゃないでしょうか。
だって、落ちなきゃいいだけの話です。落ちなければ絶対に大丈夫なので、そりゃ、登りますね。
ガイド業はどうやって再開したのですか。
帰国後、常連さんたちから、「お体、大丈夫ですか。治ったら、またお願いします」ってたくさんの連絡をいただいていていたんです。ありがたかったですね。それで6月頃だったかな、試しに岩場に登りに行ってみたんです。嫁さんにビレイしてもらって、いつも自分がやっているエリアでリードできるかどうか。けっこう緊張しましたね。でも、ああ大丈夫だなと。ちょっと怖いけど、できるなって。
募集開始はもう少し後で、少しずつ再開したのは夏からです。「こんな状況ですが、昇仙峡ではできますので、いかがでしょう?」と。その頃にはジムの3級課題を登れるようになっていました。ま、そのくらい復活していればどこでもガイドできるなと。で、その秋には、もう瑞牆山でガイドしているんですね。早すぎですね、バカですね。
あ、俺、終わったかも。完全に終わったな。
こうして佐藤は、パタゴニアの事故から半年後には、クライミングガイドを再開していた。まだ体は完全とはほど遠い状態だったが、平日はリハビリや整体に通って体の回復を図りながら、クライミングジムでのトレーニングを繰り返した。そうした日々を通じて、自分自身のクライミング復帰を見据えていた。
だが、誤算だったのは、それなりの時間が経過しても、思うようには体が回復しなかったことだった。日常生活やガイディングには支障ないレベルにはあったが、全体的に右半身が重く、右肩の可動域も以前のようにはいかなかった。
佐藤はこれまで自らのフィジカルを限界近くまで高めることで、数々の登攀実績を挙げてきた。普段から節制した食生活で体重をコントロールし、継続したトレーニングで登攀能力向上を追い求める。それは本気のクライマーなら誰でも通る道なのだが、常に限界ギリギリを攻める佐藤はより極端だった。そのストイックまでの暮らしぶりはトップアスリートそのもの。それだけに、体の不具合は彼のクライマーとしての今後に大きな不安を抱かせるものだった。
体のケアは続けていたんですか
もちろん、鬼のようにリハビリに励んでいましたよ。リハビリの専門病院に通ってストレッチメニューを週に2回。それと並行して、家の近くにある超気合いが入った接骨院で、血も涙もない施術に悲鳴を上げていました。そのおかげで、麻痺していた右腕も動くようになり、肩の可動域がかなりよくなりました。
かなり戻ったんですが、クライミングしていても右半身が明らかに重たいし、ランジでホールドを取りに行っても右手がトロい。動きの左右差はリハビリの病院のテストでも明らかでした。病院に行ってもはっきりとしたことはわからず、神経系の不具合かもしれないし、右腕と右脚がずっと緊張したままという理由もあるようです。力を完全に抜くということができない。だから、動きは悪いし、すぐにパンプしちゃう。その説明は腑に落ちましたね。
クライマーとしては厳しい状況ですね。
クライミングを再開してから一気に伸びて、夏までに3級課題まで登れるようになった。僕が通っているジムの3級ってけっこう難しいんですよ。でも、そこからずっと横ばいです。クライミングってそういうものじゃないですか。少しずつ登れるようになるんだけど、ほとんど止まっているとしか思えない進展の仕方。でも、本人としては焦るわけですよ。
そうして、クライミングを再開して1年が過ぎる頃には、あ、これ治らないかな。この先も改善することは期待できないかなと思いこんでしまったんです。
あ、俺、終わったかも。完全に終わったな。不具合の残るこの体では、もう本気のクライミングはできないと思いました。10年以上続けてきた黒部横断や、課題を残してきたヒマラヤへの思いも頭をよぎりました。こんな体になってしまった以上、自分の能力ギリギリのところで命がけのクライミングを追求するのは、やっぱりもう無理なんだなと。
アルパインクライマー佐藤裕介の人生は終わったと。
そう。それと同時に、あぁこれで俺は生き残ったな、という安堵感がありました。アルパインクライミングを続けていれば、いつか自分が死ぬことだってある。毎年のように仲間が山で死んでいったし、そういうリスクは排除できないと。
でも生き残れたのだから、これからは違う楽しみ方を見つけようと思いました。ガイドとして山は続けるけど、それ以外は家族と幸せな時間を過ごしたり、海やキャンプに行ったり、たまにレジャーでクライミングしてみたりして、この先、いろいろできるじゃんって。そうやって自分を納得させるように仕向けたし、嫁さんにもそういう話をしました。
でも、いざやってみたら、残念ながら、そこからなんのモチベーションも生まれなかった。そう思ったら、なにもかもが面倒になって、そこからすっかり気力を失い、家に引きこもってテレビで流行のアニメを観続ける日々です。
そのときは本気で生き方を転換しようと思ったわけですよね。
そうです、もう完全にそう思ったし、気持ちを切り替えたつもりだったけど、どうも合わなかったみたいです。嫁さんから「不健康だからクライミングでもしてきたら」って言われました。でも、クライミングはそんなマイナス思考で登れるようなものではない。そんなタイミングでやってきたのがコロナ禍です。ああ、これはもうやってられねぇって。
クライマーとして終わっただけじゃなく、あの頃は人間としても終わっていました。俺、うつ病なんて一生関係ないと思っていたけど、なっていたのかもしれませんね。でも、あまりに引きこもって落ち込みすぎた結果、開き直りました。無理しても仕方ない、ダメならダメで、ボーッとテレビでも観ながらまったりやるしかないよな、って。今思えば、それが良かったのかもしれませんね。
TEXT : CHIKARA TERAKURA
<後編に続く>
佐藤 裕介
Yusuke Sato
1979年12月生まれ。21歳で冬の北アルプス黒部単独横断を成し遂げ、新世代アルパインクライミングのホープとしてその名が知られ始めた。海外の髙峰にも足を延ばすようになり、2008年にインドヒマラヤ・カランカ北壁初登攀でピオレドールを受賞、世界的にその名を知られるクライマーとなった。ライフワークとなっている冬の黒部では、2016年に32日間をかけて「黒部ゴールデンピラー」を初登攀。北アルプス称名滝や台湾やハワイの沢など、沢登りにも情熱的に取り組んでいる。2014年に専業の山岳ガイドに転身。現在は、年間200日近く山に入る日々を送っている。TNF ATHLETE PAGE
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