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Trails and Smiles in ASO
森本幸司と阿蘇を行く
レースのあとさき 熊本県阿蘇地域の歴史と文化、ローカルを走ることの意味、そして全長約112kmのレース「阿蘇ボルケーノトレイル」がもたらすものとは一体どんなものだろう。2024年5月、美しいグリーンに染まった草原を走り、活火山・阿蘇五岳の息吹を間近に感じながら、森本幸司に訊いた。
ランナー、森本のいま
2024年4月27日の「KAI 70k」を走る前、森本幸司は穏やかに語った。
「120%の力は出せないけど、大崩れすることもない。70%で確実に走ることができる。それが今の僕のスタイルなんです」
午前0時のレース直前、「少し気持ちを落ち着けようと思って」目を閉じた。淡々と駆ければ辿り着く。ずっとそうやって進んできたし、それを続ければいい。今の自分にはそれが分かっている。
レースが始まり、慌てず焦らず諦めずランナーをパスしていく。二十曲峠(約38.8km地点)に到着する頃、夜が明けた。
富士吉田までのダウンヒルで吐き気がして立ち止まった。イヤなイメージに支配されそうになる。それでも、いけると思った。走り続けて、午前8時過ぎ、総合8位でゴールした。
不安にとらわれるわけではなく、「起こるかもしれない奇跡」を期待するわけでもない。自分の持てるもの、そして走っている自分の「今」に100%集中する。森本のスタイルが存分に発揮されたレースだった。
「納得した状態でスタートラインには立てなかったけれど、納得できるレースでした。持てる力は出せました」
首尾一貫した感覚
アーロン・アントノフスキー(米、医療社会学者、1923-1994)は、人が困難に直面しながらも再び前を向いて生きていくことができるようになる力を「健康生成論」として体系化した。
何かに直面する。その時、それが何なのかを想像することができ、それに対処できると思い、そのことにやりがいを感じる。そんな首尾一貫した感覚(Sense of Coherency)を持つことによって人は前に進むことができるという——日常の困難の中でも、あるいは災害や紛争という脅威にさらされたとしても。
この研究の成果は今、心理学、ケア/医療、スポーツ/アスリートマネジメントなどの幅広い領域で活かされている。
タフなトレイルを走ることや、レースでの心理的な工夫に例えると、それはこういうことなのかもしれない。
見たことのないビッグクライムを前に、行けるだろうかと不安になる。
だが、トレーニングでその半分の標高を登ったことがあれば、それを2回繰り返せばいいのだと想像することができる。少し心が落ち着く。そうすると、不安は「やれる」という前向きな気持ちに変化していく。
自分の経験を森本はこんな風に話す。
「トレーニングのベースが大きく変わることはありません。淡々と積み重ねて、レースが近づくとその特徴に合わせて練習をアレンジしていきます」
「そして、どれくらいのタイムでレースを走れるか想像するんです。たいていその通りになります。自分の感覚から大きく外れることはあまりないんです」
経験が未知を想像する力になり「外れない」。首尾一貫した感覚にアスリートとしての優れたランニング技術がそこに加わる。
森本は、そんな風にして2024年4月の「KAI 70k」だけではなく、沢山のレースで結果を残してきたトップアスリートだ。
2015年のSTYをはじめ数々のレースで優勝を飾り、2019年(IAUトレイル世界選手権)、2023年(World Mountain & Trail Championship)には日本代表としても「世界」を駆け抜けている。
「探求」とは
標高約1500m付近を縦横無尽に吹く風に身体をゆだねると、自然の一部になった感覚になる。阿蘇五岳の一つ、中岳付近のトレイルをそんな気分で進んでいたときだ。森本の声がする。
「仕事を終えると、この辺りのトレイルを走って帰っていたこともあるんですよ」
今も活動する火口付近からは、約27万年から9万年前までの噴火活動でできたカルデラの広がりを見渡すことができる。東西18km、南北25kmmに及ぶ世界でも有数の美しい土地には、約7万人の人々が住んでいる。
中央火口丘の斜面と外輪山には、広大な牧野(読み:ぼくや 意味:草原)がある。「野が広く遠く広がっていた」と『日本書紀』にも記された阿蘇ならではの風景だ。この景色は、さらに遡って1万3千年前、縄文時代からあるという。
阿蘇の牧野では千年に渡って野焼きが行われてきた。
野焼きをすると、焼かれた植物が炭(炭素)になり地中に固まることによってCO2が大気中に排出されにくくなる。原野が森林化しにくくもなり、山火事のリスクも小さくなる。
雨水は野焼きされた地表にダイレクトに吸収されていく。地中深くに涵養(ゆっくりと時間をかけて蓄えられること)した水は湧水になり、米を栽培する時には水田に張りつめる。
その水はまた、九州北・中部の6つの一級河川(筑後川、大野川、白川、緑川、菊池川、五ヶ瀬川)に流れ、豊かな恵みをもたらす。阿蘇が「九州の水がめ」と呼ばれるのはこのためだ。
遠い未知の世界に一歩を踏み出し、「探求」の旅に出るのは気分の良いことだ。新しい土地や人間の可能性を見ることができる。
いっぽうで、ここではないどこか遠くに行かなくても、「今、ここ」を走ることで分かることが沢山ある。風を感じ、野焼きの火を見て、水に癒される。悠久の時間を遡り、土地の歴史を知る。
阿蘇のローカルを走ることは、一貫して続いてきた自然と人の共生の知恵を知り、その土地に出会い直すことなのだ。淡々と繰り返す練習のように見える帰宅ランもまた、だからまたひとつの「探求」なのだ。
トレイルランナー達の実験
美しい草原は、過去約100年で約半分が、直近の30年だけでも1/4近く(約7,500ha)が無くなっている。
2015年に約8万人だった阿蘇地域関係8市町村の人口は、2045年には5万人を切るとされている。自然と人の共生の知恵が、若い世代に受け継がれにくくなってきている。
そんな状況の中、2024年5月、森本は九州で数少ない100km超のトレイルレース「阿蘇ボルケーノトレイル」の会場にいた。
大会運営チームの一員としてこんな思いを語る。
「阿蘇の草原を皆さんに走っていただきたいです。そして草原がどうやってできているのかとか、何でこんなに景色がいいのかとか、(このレースを走ることが)そういうことを少しでも知ってもらう入り口になればと思っています」
レースがあることによって、ランナーたちは美しいトレイルを存分に楽しむことができる。それが「ハレの日」になり、忘れられない思い出になる。
それに加えて、今レースを開催することにはとても大きな意味がある。トレイルランニングを通して地域に前向きな変化を起こすことができるのだ。
森本を含むチームは、どうすれば地元に貢献することができるのか、たくさんの実験や工夫をしている。
例えば、エントリーについてだ。全長約112km、累積標高約5240mのレースには国内外のランナー約500名が参加する。
ランナーは、「一般エントリー」に加えて「先行エントリー」をすることができる。「先行」では、「草原寄付」や「トレイルワーク」、「野焼きボランティア」のいずれのメニューを選ぶことができる。阿蘇に来てトレイルを走ることが、草原や野焼きという活動の維持、環境整備に直結する仕組みになっているのだ。
レースという華のある1日があることによって、人が集まる。それによって、地域の自然環境の状況が広く発信されていく。同時に、参加者やボランティアがレースを通して自然と人の共生の知恵を少しでも受け継いでいく仕掛けを作る。普及と実践を同時に行うことができるのだ。
自然と人が関係してきた土地にトレイルランニングレースとそれに関連した新しい工夫が加わる。それによって、地域や社会の課題を解決することができる。今ローカルを走ること、レースを開催することは、だからスポーツを通した社会実験なのだ。
続けること
レースがあった次の週末、森本は子供達と阿蘇の山々をハイクした。川面が煌めき、新緑のトレイルに、木漏れ日が輝く。みんなの笑う声が幾度も重なる。
週が明けて、仕事に戻った森本と電話で話をした。
「久々に少しゆっくりできました。今週もまだまだ残務ありますが、大丈夫です——また来年も来てください!」
来年の大会にも、九州の、日本の、世界のランナーが阿蘇に戻ってくる。それによって、自然と人の共生が維持される新しい試みがさらに進み、次世代を含めた新しいコミュニティができあがっていく。
慌てず焦らず諦めず、森本は阿蘇を進む。人口減少や自然環境の変化、自然災害に見舞われても、「ずっとそうやって進んできたし、それを続ければいい」
そう信じている。