Climbing
My Way
自分の山をしなやかに登る人。
INTERVIEW
03
渡邊直子
登山家
NAOKO WATANABE
Mountaineer
コツコツ登り続ける8,000m峰。
世界に14座ある8,000m峰。渡邊直子さんは2022年3月現在、そのうち8座に登頂し、日本人女性として最も多くの8,000m峰を登った記録を持つ。31歳でエベレストに登頂。37歳でのアンナプルナⅠ峰、カンチェンジュンガのふたつの登頂に関しては日本人女性初の快挙である。そして40歳の今、日本にとどまらず、アジア人女性として初となる8,000m峰14座完全登頂を目指して活動している。
「気づけば“女性初”というタイトルが付くようになっていましたが、最初はそんなこと意識していなくて。ただ登りたかったから、それだけ。8座を登頂した後に、周囲から『このまま14座登頂すればアジア人女性初だ』と言われるようになって、だったら挑戦してみようかなと思ったくらいで」
「少し前まで、高所登山はあくまでも趣味だった」という渡邊さん。組織力や莫大な費用の捻出が必要となる高所登山では、山岳会に所属したり、スポンサーの協力を得たりするのが一般的だが、渡邊さんはひとり貯金をしながらヒマラヤに向かってきた。日本にいる間はフリーランスの看護師として、いわく「寝る間も惜しんで」働いている。
それでも、「人生を山に捧げる」というのとは少し違う。いい意味で気負いや焦りがなく、自然体。それは、「登頂できるに越したことはないですが、途中で具合の悪い人を見つけたら救助して下山するくらいの気持ちでいます、常に」という言葉によく表れている。かつて初登頂を競って命懸けで頂を目指したヒマラヤ登山。渡邊さんが自らの活動を通して表現したいのは、それとは全く違うものだ。
人生を決定づけた“遊び塾”。
渡邊さんは福岡県出身。幼い頃から山が好きだった母と地元でハイキングや登山に親しんだ。人見知りで、引っ込み思案だった少女に大きな変化をもたらしたのが、母が新聞広告で見つけたNPO法人。子どもたちだけで登山やキャンプを行う“遊び塾”を開催する団体だった。
「私はひとりっ子だったので、母は常々、将来、頼れる大人や、きょうだいのような存在ができたらと思っていたそうです。たしか3歳くらいからサバイバル的なキャンプなどに参加して、モンゴルの大草原を旅したり、雪山の登山をしたりするうちに人見知りもほとんどしなくなりました。過酷な環境ですから、仲間同士力を合わせないとどうにもならないし、何より楽しかったので」
引率の大人がいるとはいえ、基本的には子どもたちだけの野外活動。ケガのリスクがあったり、仲間同士の小さな諍いがあったりも当然するが、だからこそよかった。
「中国の無人島でサバイバルキャンプをしたとき、ナイフで派手に指を切ってしまったんです。でも母は遊び塾を辞めなさいとは言わなかった。『ここで辞めさせたら、この子はダメになる』と思ったそうです。海外遠征では外国人の子どもが参加したり、現地の人と交流したりして、カルチャーギャップもありましたけど、そういうことも全部含めて学びになったと思います」
今も大切にしている中国での体験を綴った作文には、力強い大きな文字で、こう記してあった。
「ナイフで大けがをしてしまったのがざんねんだ。だけど、こんど島などでナイフを使うときには、気をつけよう」「中国人は、いいかげんだけどやることはちゃんとしていて、やさしい人たちだ」
高所登山への目覚め。
小学校4年生のとき、遊び塾で初めて冬の八ヶ岳に登った。見たことのない雄大な風景に心奪われたが、もっと心躍ったのが、「自分より強いと思っていた人を追い抜ける」気持ちよさだった。
「どうやら高所に強い体質みたいで、標高が上がるにつれて、自分より体の大きい子や年上の子、男の子たちもどんどん追い抜ける。それが自信につながって、高い山に登るのが楽しくなったんです。これは私にしかできないことなんじゃないか。そう思ったのが、今の高所登山に向かうきっかけになりました」
もうひとつ、高所登山で発見した楽しみがある。それは「時間」だ。
「高い山に登ろうとすると、そこまでの行程が長くなります。仲間と過ごす時間が長くなればなるほど、自分や人の知らなかった一面が見えてきます。キャンプは共同生活みたいなものなので、色々なハプニングも起きる。遊び塾のときと同じで、それが面白いんです。ヒマラヤ遠征ともなると2ヶ月以上のキャンプになることも普通なので、最高に楽しいですね」
様々な国籍の登山家が集うヒマラヤのキャンプ。多くは山頂アタックを控えて準備や天気のチェックに余念がないが、渡邊さんはネパール人の調理担当者たちが食事を作るキッチンテントでシェルパ(登山をサポートする現地のガイド)たちとおしゃべりに興じる。どんな暮らしをしているのか、ネパールでどんなものが流行っているのか、ときには恋の話なんかも。
「ほかの登山家からしたら、おかしな奴だと思いますよ。でも、私が一番好きなのは、そういう人間関係や人間模様。その過程で表れる自分や他者の喜怒哀楽も含めて、そこで誰かと一緒に過ごす時間が魅力。8,000m峰の山がどれほど美しいか、過酷かということは、これまでたくさん語られてきているので、私はそうじゃない魅力を伝えたいんです」
“アジア人女性初”を目指して。
高校卒業後は長崎大学に進学した。登山は好きだったが、仕事にするという発想はなかったし、これといった将来の目標も見つかっていなかった。水産学部を選んだのは、なんとなく山と真逆のことをやってみようと思ったから。卒業論文では韓国・済州島の伝統文化である海女をテーマに選び、登山と同様、島での“生活”を楽しんだ。
転機となったのは大学時代に誘われて登ったヒマラヤの6,000m峰・アイランドピークでの体験。登山隊の中で看護係を担当したことで、看護師という仕事に興味を持った。
「医薬品を管理して、調子が悪い人に薬をあげたり、すごく簡単なことなんですけどね。それでも人の役に立っているという実感があって、なんかいいな、と。それで看護師の勉強をすることにしたんです」
大学卒業後、改めて看護大学に入学し、資格を取得。在学中には初めての8,000m峰となるヒマラヤのチョ・オユー登頂を果たす。その後も看護師として働きながら資金を貯め、2022年3月現在、8座の8,000m峰に登頂。世界に14座ある8,000m峰完登を目指し、この春からの遠征ではローツェやナンガパルバットなど、一気に残り6座の登頂を目指している。
「8,000m峰14座登頂は、アジア人女性ではまだ誰も達成していないんです。最近は各国のライバルがそのタイトルを狙って猛スピードで登り始めていて、お金持ちの令嬢とか、経済的に優位な人たちが短期間で何座も登頂しています。私は20年くらいかけてコツコツと登ってきたので、お金のパワーに負けるのはちょっと悔しいなという気持ちもあって(笑)。少しペースを上げて計画を立てているところです」
当初は興味のなかったタイトル。それを本気で狙う気持ちになったのには、もうひとつ大きな理由がある。
山がくれたバトンを、次の世代へ。
3歳から参加した遊び塾。引っ込み思案だった性格は徐々に外向きに変化し、体も心も強くなった。小学校の頃にいじめを経験しても、学校以外の逃げ場があったことで救われたし、何より、負けないぞという気持ちを持つことができた。
「登山や野外活動を通して、チャレンジすることを躊躇しない人間になれましたし、おかげで今、ユニークな人生を歩めているなと感じます。小さな悩み事も、非日常の体験をすることで吹っ飛ばすことができるということも知りました。そんな体験を、これからの子どもたちにもしてもらいたいんです」
今は初心者や子どもでも安全にヒマラヤ登山ができる時代。渡邊さんの夢のひとつは、子どもたちをヒマラヤの自然の中に連れて行くことだ。
「そのための組織をつくるとしたら、やっぱり自分に知名度があった方がいい。それで“アジア人女性初”というタイトルがあったらいいなと。あとは、プロ登山家ではない、私みたいな“ふつう人”でも、こんなことができる。そういうメッセージも伝えられたらいいなと思っています」
かつて異国の地で感じた文化の違いや世界の広さ、面白さ。山で学んだ、失敗を恐れない生き方や、自分で考え、問題を打開していく姿勢。今の自分をつくり、支えてくれた体験を、この先を生きる世代に伝えていきたい。今、渡邊さんを新たな挑戦へと後押しするのは、そんな想いだ。
「どんな人にも可能性はある。山に登る自分の姿を見て、そんなふうに感じてもらえたら。次の挑戦がどうなるかわかりませんが、登頂できても、できなくても、その過程から何かを感じてもらえたら嬉しいです」
4月、渡邊さんは今まで通り、気負いの代わりに好奇心をザックいっぱいに詰めて、ヒマラヤへ出発した。
INTERVIEW
渡邊直子
登山家
NAOKO WATANABE
Mountaineer
1981年、福岡県生まれ。長崎大学水産学部卒業後、日本赤十字豊田看護大学看護学科卒業。看護大学在学中に8,000峰のチョ・オユーに登頂。日本人女性として初めて8座の8,000m峰に登頂する(2022年3月現在)。今も看護師を続けながら、8,000m峰の全山登頂を目指し、活動する。
Photography / Kazumasa Harada
Edit & Text / Yuriko Kobayashi