地元の人にクライミングスポットとして愛されている山間の岩場に、カラビナの音が響き渡る。その音の主は、赤と黄色のジャケットに身を包んだ屈強そうな隊員たちだ。この日は、長野県警山岳遭難救助隊の定例訓練日。岩場での訓練に同行しながら、岸本俊朗隊長に、山で生きる遭難救助隊の思いと、山岳遭難の実際について訊いた。
山の情報が増え、エキップメントの質も向上した現在、登山に挑むハードルはかつてよりも低くなっている。この10年は「登山ブーム」と呼べる人気の高まりがあり、さらに2020年のコロナ禍は、多くの人を身近なアウトドアに向かわせた。ハイキングや軽登山は活況を呈し、それに伴って本格登山の人気も増している。そしてそれだけ山岳遭難も増えている。
岸本「この10年の県内の山岳遭難は増加傾向にあります。平成25年の300件をピークに、しばらく290件ほどが続いています。10年前には山岳遭難救助隊員は28名でしたが、今は39名が在籍しています。特に独立した庁舎があるわけではなく、警察本部・機動隊のほか、22の警察署のうち5つの警察署に配置されていて、通常時は交番の地域警察官で山岳遭難救助隊を兼務している者も多いのです。」
長野県のような山岳県には、山岳遭難救助隊が設置されるが、そのほとんどが普段は交番に勤務する『街のお巡りさん』だ。彼らが有事になると山岳遭難救助隊員として山に急行しているとは、意外な事実だった。山岳遭難救助隊を志望して警察官を志す若い人も多いのだという。
岸本「山岳救助の知名度が低かった昔は、若くて体力のある若手が任命されていましたが、今はやりたいという希望者しかいません。大学で山登りをしていたとか、スキーをやっていたという山に親しんだ者から、体力に自信があるので人の役に立ちたいとという者まで背景は様々です。この10年で増員はしていますが、若手ばかりでも組織として経験不足になるので、経験ある者とのバランスをとっています。若手が一人前になるのに5年くらいはかかりますから。」
岸本隊長ご自身はなぜ、救助隊を志したのでしょうか。
元々は私も山登りをずっとやっていました。自分の好きな山登りを生かしながら、世の中に役に立つ仕事を探していたんです。とはいえすぐに救助隊になれたわけではなく、2年間くらい交番の警察官をやって、たまたまご縁があって、当時の上司に推薦してもらって救助隊へ入ったのです。
実際に隊員になられて、その『山登りを生かしながら世の中の役に立つ』という思いは実現していますか?
若いうちはとにかく現場に出たいと思うものです。出動して、仕事をしたという達成感を得られる。私もそうでした。しかし長くやっていると色々な立場を経験します。救助の現場だけでなく、亡くなった方のご遺族や、行方不明者のご家族の対応をしたり。そうしていると、ただ救助をするだけの遭難救助隊ではなく、遭難の背景や裏側も見えてきます。救助だけではなく、遭難を防止することに目が向くのです。これは警察だけでやることではなく、県や他の関係機関と連携して活動しないといけないことですが。長く仕事をするうちに、ただ行って助けるだけではなく、それ以外のところでも役に立っていかないといけないというのが今の感覚です。
岸本隊長は10年以上も山岳遭難救助の現場に在籍されていますが、その間に登山者が増えていると先ほどお話がありました。助ける対象には、レジャーとして山に登られる方達もいるかと思いますが、山を登る上でどんな心構えをしてほしいとお考えでしょうか。
いま登山はどちらかというとレジャー・観光の延長というアプローチが強いと思います。長野県もそうですが、行政の区分でも登山は商工観光の部が持っていたりします。観光の目的が強くなると、遊びに来て山で楽しんで、という考え方になる。私たちの立場からすると、登山はリスクのあるスポーツであり、冒険です。レベルはいろいろ大なり小なりあると思いますが、とはいえ冒険なのです。荷物を担いで長時間歩く、かなり持久的なスポーツです。そんなスポーツですから、それなりの体力と事前の準備、冒険なのでリスクに対する備えが必要だということを、我々が声を大にして伝えないといけません。
スポーツという面では、近年トレイルランニングや軽快なウルトラライト登山の流行もあり、登山のスタイルが変化しています。救助の現場ではこうした新しい流れをどう感じられていますか。
非常に経験の少ない方がパッと山に来て、遭難されている印象が強いです。道迷いや、疲労で動けないとか、夜になってヘッドライトが無くて真っ暗で動けないとか。そういう事前の準備不足に起因する遭難が目立っているのです。怪我をして救助要請した方と、怪我をしていないが動けず救助要請した方の割合をデータで見ても、怪我をしていない方の救助件数が年々増えてきています。これはさきほどお話しした道迷いや、疲労、装備・技術不足に起因する遭難の増加と繋がる話で、我々の感覚がデータ的にも裏付けされていると思います。そういう人たちにどうやって、ちゃんと準備をしてきてくださいと伝えるかはひとつの課題です。Twitterやyoutubeで情報発信も行っていますが、遭難の実態を伝えていく、準備の必要性を伝えていくことが引き続き大事かなと思います。
今年(2021年)のゴールデンウィークは全国的に山岳遭難の多さが話題になりました。今夏も多くの人が山を目指すと思いますが、山で実際に気をつけるべきことがあれば教えてください。
近年の傾向をみると、全国的には道迷い遭難が多いと思います。長野県は山が急峻なので滑落や転倒が多いのですが、その背景にはまず道迷いがあり、ルートを外れたところで滑落しているのです。やはりこれも準備不足に起因する遭難ですね。コロナの反動で密を避けて山を目指すという傾向が長野だけでなく関東近郊で多いことは他の警察関係者からも聞いています。地図アプリがあれば今どこにいるかがリアルタイムでわかることもあり、『これさえあれば登れちゃう』という感覚に陥ってしまいがちです。天気予報もそうですね。山は行ってみないとわからないものですし、行ったら行ったで常に空模様を気にしながら歩き、行動も慎重になれば道具も準備を万全にするものです。情報だけで分かった気になり、慎重さが無くなってきていると感じています。情報があるがゆえの欠点ですね。便利さに寄りかかって山に入るとしっぺ返しに遭うので、ちゃんと客観的な自分の物差しで見て欲しいといつも伝えています。
長野県の山で特に遭難の多いエリアや、危険なエリアはありますか?
長野には全国的に名の知れた山が多く、夏山シーズンには全国から登山者が訪れるので、遭難が頻発しますが、そういった山の昔から危ないと言われている場所は、皆さん用心をされているので、通る人の数に対して遭難件数は多くないのです。昨今はそういった場所以外の山に入る傾向があり、我々もなぜこんな日のこんな天気の時にこんな場所で道迷いするんだろうと感じさせられます。少し遭難の質も変わっているのかなという印象がありますね。
登山計画書の提出は登山者のマナーと言えるはずですが、昨今はそれが疎かになっているという話も聞きました。しかし予期せぬ遭難が増加傾向の今、改めて登山計画書の提出が重要になっているのではないでしょうか。
長野県では条例があるので登山計画書は出していただきたいです。何のために提出するかというと、自分が音信不通になってしまったときに、最初に動いてくれる人に自分の軌跡を残しておくためなのです。最近は1人で登られる方や、SNSなどで知り合った人と登られていることも少なくない。その人の家族背景だとか、緊急連絡先を知らないけれど、とりあえず一緒に行こうよ、みたいなこともあると思います。そういった関係で山に行き、パートナーが滑落事故を起こして通報をした時に、その方の名字しか知らないとか、ご家族の連絡先がわからないということが結構あるのです。そこで登山計画書ですが、そこには必ず緊急連絡先を書かないといけません。緊急連絡先は、そういう最悪のケースになったときに、その人のご家族に素早く警察や行政機関が連絡をとるために必要なのです。同時に、登山計画書を作るというのは、そういうリスクがあるんだなっていう意識を身に付けることにもつながります。日程的に無理があるなとか、予備日とか食料品のチェック欄を見て、自分の登山は大丈夫かと客観的にチェックする機能もあるんですね。その意味でも計画書はちゃんとしたものを作り、自分でよく見て提出することを心がけていただければと思います。我々が必要としているというよりは、本来はみなさんがご自身の登山を安全なものにするために必要なのです。
山岳遭難救助隊の、通報を受けてから救助までの一連の動きを教えていただけますか?
長野県内の場合は遭難者や同行者などのほか、山小屋から110番や119番通報があったりと様々なケースがありますが、全件が警察本部の私がいる課に連絡が入ります。それを受けて、管轄する警察署と一緒にどう救助するかというのを、その時の現場の状況なりを判断して決定します。ヘリでやるか、地上とヘリを一緒にやるか、あるいは地上だけでやるか。決めた方針に必要な人数を集めて出動をかけます。人数が足りなければ後発で応援部隊を送りますし、1日で終わらない場合には今日はここまでやるかとか、行方不明の場合はどこを明日やるかとか、そういったことを段階的に検討して判断していくという感じですね。
通報をしてきた救助を必要としている方の生命と同時に、救助隊員の方の安全管理も重要になってくると思いますが、どのような線引きをされているのでしょうか。
私たちが一番気にするのは、例えば今日みたいな落雷、そして落石です。落石のリスクが高い谷間に滑落していた場合、危険性が高ければ落ち着くまで待つ判断をします。冬には雪崩の危険性もありますし、大きな低気圧の通過など、行くことそれ自体のリスク高い場合には活動見合わせも含め状況判断をします。ただ、雨が降っているから行かないとか、夜だから行かないかというとそうではありません。状況をコントロールできない時は活動を見合わせますが、それは二重遭難を起こすと私たちの活動自体ができなくなるからです。そこはバランスをどうとるか。使命感だけで行っても駄目だし、かといって臆病になりすぎても駄目。安全になりすぎても駄目だし、スピードばかり重視していても駄目です。そこは遭難の度にバランスをどうとるか悩むところです。
そうしたあらゆる人々の生命に直結した仕事をする中で、責任の重さや生命とどう向き合っているのでしょうか。
そんな高尚な気持ちを持っているわけではありません。ただ、いろんな仕事がある中で、瀕死の人や危ない状態にある人を救助して、その人たちからお礼を言ってもらったり、後日元気になりましたって挨拶をもらったりすると、その人の人生に深く関われる、いい仕事だなと思いますね。今の立場だと隊員の安全を預かる立場でもあります。隊員にも大切な家族がいるので、仕事とはいえ危険な業務をする上で、可能な限りリスクを排除して、安全に任務遂行することを考えています。どういう訓練をやっていくか、装備品に関してもそうです。そういう裏方的な仕事ですが、そこにこそ私たちの責任があると思います。
今日も長野県山岳遭難救助隊の訓練に臨む真剣な表情が印象的でした。彼らに望むことや、こうした気持ちで仕事に当たってほしいなどありますか?
気持ちのところは隊員のみんながすでにいいものを持っています。あとは前の隊長の頃から伝えていますが、バランスです。安全になりすぎても、臆病になりすぎても駄目だというのは、メンタルも問われることになります。体制面でいえば、ヘリコプター頼みだけではなく、地上の対応をどう入れるかというところ、それがどちらかに傾いちゃうと、やはり危険性が出てきたり、質に落ち度が出たりするので、両方のバランスをしっかりとって任務に当たってほしいと話をしていますね。各隊員の潜在能力というか、気持ちの部分では非常にやる気をもってやってくれていると感じています。人材には非常に恵まれていますね。
岸本隊長ご自身も山が好きで、この仕事を選ばれました。立場や山を取り巻く環境が変わる中で、今は山に対する思いとしてどういうお気持ちを持たれていますか。
私も人をとやかく言える感じではないんです。山登り中心、クライミング中心といった生活をしていたときは山で親や周囲に心配かけてきました。ですので山に行く方の気持ちや山の楽しさもわかります。救助の仕事で山に携わって月日も経ち、私自身はいろんな意味で、登山を通じて育ててもらったなと感じています。非常に幸せなことです。自分の立場で今まで経験したことを、登山全体の安全向上に貢献したいという思いを持っています。
最後に、これから長野の山を登りたいという方へ、お伝えしたいことがあれば教えてください。
繰り返しになりますが、登山の楽しいところだけを見ないで、もしかしたら遭難するかもしれない、という慎重さ、臆病さを持つこと。他人事とは思わず、山に入る以上は、そこで帰れなくなった時のことに備えて準備して入ってもらえたらと思います。
私たちが楽しんでいる登山の裏側には、自らの生命を賭して救助にあたる山岳遭難救助隊の活動がある。滝のような雨が降り続く中、濡れた岩場で訓練を繰り返す隊員の真剣な眼差しをみていると、安心を覚えるとともに、彼らが出動する機会が無くなることを願わないではいられない。私たち一般の登山愛好家は、今夏より一層の準備と心構えをもって山に入りたい。
PROFILE:
岸本 俊朗 (SHUNRO KISHIMOTO)長野県警山岳遭難救助隊・隊長として県下38名の隊員を指揮し、年間およそ300件ある山岳遭難の救助活動に日々従事している。
STAFF CREDIT :
WRITER&PHOTOGRAPHER:YUFTA OMATA