夢にまでみたウルトラトレイル・デュ・モンブラン(UTMB®︎)で優勝を遂げ、2019年シーズンもウルトラトレイル・ワールドツアーの総合首位となったパウ・カペル。アスリートとしての絶頂期を迎えつつある彼が、2020年はどんな走りを見せてくれるのか。否応なく期待は高まった。
<UTMB®︎でソロ20時間切りを目指す Breaking20>
しかし、COVID-19が世界の有り様を一変させた。彼が拠点を置くスペイン、そしてヨーロッパも大きな社会情勢の変化に直面した。国際的なレースイベントが軒並み中止になる状況は、プロアスリートにとって死刑宣告にも等しいものだ。活躍の場を無くしたアスリートは、自身と社会の健康に留意しつつ、いつあるともしれないレースに向けてモチベーションを維持するという難儀な日々を強いられた。とりわけ、タイトルホルダーとして2連覇を目指していたUTMB®︎の中止が報じられた時の、彼のショックはいかほどだっただろうか。
だが、UTMB®︎中止を受けてカペルが表明したのは、チャンピオンの気高さと決意に満ちた挑戦だった。
「2020年は確かに難しい1年だったけれど、いくつかのプロジェクトにチャレンジしてみたんだ。レースや競技が再開されますように、と祈りつつね。新しいプロジェクトや、いつもとは違うアプローチでトレーニングをすることができた。その意味では2020年は良い年だったと言える。この苦しい状況下でも、ポジティブな面にフォーカスすることが大事だからね」
カペルが発表したプロジェクトは、『Breaking 20』。前年に勝利したUTMB®︎のコースを1人で走って、20時間を切ろうというチャレンジだ。
彼にとって、UTMB®︎は他のレースと別格だ。夢にまでみたレース、そしてアスリートとして最高の喜びをくれたレースでもある。2019年、カペルはUTMB®︎の歴史上誰よりも速い男になった。ならば、2020年は自分自身に挑むしかない。優勝タイムは20時間19分07秒。この19分07秒を、レースではなく、一人のランナーとして走ることで縮めたい。現行のコースにおいて誰もまだ成し遂げていない、20時間切りという未知の領域への挑戦だった。
「もともとレースの中で、UTMB®︎の20時間切りに挑戦したいというモチベーションがあったんだ。でもレースが中止になった。だったら一人で走ろうと」
世界最強のウルトラトレイルランナーにして、UTMB®︎のコースレコードホルダーが、1人で20時間の壁に挑む。これは、世界中のトレイルランニングファンに衝撃とインスピレーションを与える発表だった。そして世界中の視線がカペルに注がれた。
<プレッシャーとの戦い 時計との戦い>
チャレンジの数日前に、スタート/フィニッシュ地点のシャモニーに踏み入れたカペルはリラックスした表情を浮かべていた。だが、その日が近づくにつれ、プレッシャーが彼に押し寄せていく。度重なるメディアの取材、SNSでのファンからのリアクション、20時間という壁……さらには悪天候の予報を受けて、スタートが1日早まるというハプニングが発生した。
2020年8月27日、スタートまで数時間前。極度の緊張の中にいたカペルの頬には、涙が伝っている。
「スタート直前になって、プレッシャーをコントロールできなくなってしまったんだ。あまりに苦しくて、泣いてしまった。自分にとってあれは象徴的な瞬間だったと思う。トレイルランニング界のみんなが今、僕を見ていることに押し潰されそうだった」後日彼は、その涙の訳をそう語っている。
しかしこのプレッシャーから、どうすれば開放されるかをカペルは知っている。走り始めること。これまでに何度もそうしてきたように。
Breaking20は、レースではなく、カペルの個人的な挑戦だ。走り出したカペルの近くに、先頭を競うライバルたちの姿はない。あるのは20時間という、超えるべき高い壁だ。「時間との戦い」はいつものUTMB®︎とは確実に違っていた。
「Breaking20は、時計との戦いであり、2019年のパウ・カペルとの戦いなんだ」
スタートから快調なペースを刻んだカペルは、全工程の約半分である80km地点、クールマイユールを予定タイムより5分早く通過した。だがライバルを一蹴した2019年のレースタイムよりさらに速いペースを刻んだつけが、後半にやってくる。
「昨年のタイムより、1時間で1分を縮めていけば、20時間を切れる計算だった。でもラ・フリ(109km地点)で疲れを覚えて、シャンペ・ラック(123km地点)で20時間切りはできないかもしれないと考え始めた。スタートで飛ばしすぎたんだ。最後の40kmは、想像以上に辛い状況だった」
20時間切りができないとなると、そこに走り続ける理由はない。カペルはタイムギャップと自身の走りから、目標を達成できないことを悟った。しかし走り続けた。
「メンタルが崩壊しそうだった。20時間を切れないことがわかっていながら、それでも走り続けなければならないことに。最後は自問のようになった。ただフィニッシュしたい。ならフィニッシュまで走るんだ、と」
世界中が注目した『Breaking 20』を、カペルは21時間17分18秒で終えた。タイムだけ見れば、2019年のUTMB®︎で3位相当の好記録ではあるが、20時間切りはならなかった。
しかし彼は、シャモニーにたどり着いた喜びを全身で表しながら、その前年に栄光を手にしたフィニッシュラインを踏んだ。ひとりのチャンピオンのプライドと、トレイルランナーとしての生き様を、シャモニーで彼を出迎えたファンに、また配信映像を見て応援していた人たちに見せたのだった。
「もちろん、20時間は切りたかったから、パフォーマンスという点では満足していない。だけど自分の挑戦に、あれだけの人たちが声援を送ってくれたことで、幸せなフィニッシュになった。自分が彼らのモチベートできたと知って、それによって自分がモチベートされたんだ」
<「トレイルランニングが大好きだ」>
1人で走っていた『Breaking 20』だが、世界中のトレイルランニングコミュニティが彼を応援し、そのチャレンジに刺激を受けた。カペルは1人で走ったが、1人ではなかった。
「多くの人が見に来てくれて、一緒に走ってくれた。その熱量は想像以上で、この挑戦をして良かったと思っている。一番重要なのは、僕たちはトレイルランニングが大好きだということ、そして『Breaking 20』がそれを示してくれたことだね。今回、多くのことを学べたし、2021年は20時間切りにまたチャレンジするつもりだよ!」
世界の頂点に立ってもなお、挑戦をやめないパウ・カペル。トレイルランニングを心から愛しているからこそ、彼は走り続ける。
「走っている時は特別な感情が湧き起こる。自分が何者なのかハッとわかる時があって、自分が生きている意味を理解するんだ。普段から大自然の中を走っていると、山と対話できる瞬間がある。こんなに楽しいことは、無いよ」
PROFILE:
パウ・カペル (PAU CAPELL)
1991年生まれ。
バルセロナ近郊サン・ボイ・ダ・リュブラガート出身。サッカーで膝を負傷し、医師の勧めでトレイルランニングを始める。2016年にウルトラトレイル・オーストラリア、TDS®で優勝し国際レースで頭角を現すと、数々のレースで活躍。2018年、ウルトラトレイル・マウントフジ(UTMF)参戦を果たし、最終局面までデッドヒートを演じ、2位。2019年はウルトラトレイル・デュ・モンブラン(UTMB®︎)で独走優勝を果たした。2018年、2019年ウルトラトレイル・ワールドツアーで年間総合優勝に輝く。
公式レースがキャンセルされた2020年は、個人プロジェクトとして、UTMB®︎のコースで20時間切りに挑む〈Breaking 20〉を敢行。先行き不透明な時代に、多くのトレイルランニングファンを勇気づけた。