ONCE UPON A TIME IN PARADISE
- PHOTOGRAPHS:Hiroshi Suganuma,Tempei Takeuchi
- INTERVIEW & TEXT:Shinya Moriyama
小野塚彩那
スキーハーフパイプ元日本代表。スキーヤーである両親のもと新潟県南魚沼市に生まれ、物心つく前からスキーを履く。
二〇一四年ソチ五輪での銅メダルを皮切りに、X-GAMEや世界選手権にて表彰台の常連となる。現役を退いたいまは、雪と地形が織りなす山岳スキーに魅了されている。地元石打丸山でスキーアカデミー「HIGH FIVE」を立ち上げ、ハーフパイプの普及、選手の育成に努める試みも。
ソチ・オリンピックで銅メダルを獲得し、X-GAMEや世界選手権で数々のタイトルを総なめにしてきたスキーハーフパイプ元日本代表、小お のづかあやな野塚彩那。競技の第一線を退いた彼女は、圧雪されたバーンからありのままの冬山へと挑みはじめた。アルペンレース、基礎スキー技術選、ハーフパイプで培った応用力と確固たる技術、飛びワザを武器にナチュラルスノーと戯れるオリンピアンに話を聞いた。
オリンピアン小野塚彩那のスキーとの出会いについて教えてください。
小さいときから、冬の間だけ実家から九キロほど離れた祖父母のペンションにいました。石打丸山スキー場の麓にある宿で、冬だけ手伝いにいく母に連れられて。そして、スキー場が終わって春になると実家へ戻るという生活です。はじめてスキーを履いたときのことは覚えていなくて、気づいたら履いていましたね。
スキーバムがスキー場に篭るような生活ですね。幼少期はどんな少女だったんですか?
友達と自転車を乗り回したり、魚野川の支流へいって水遊びしたり、活発な子だったと思います。スキーのために特別なことをした記憶はなくて、平凡な子供でしたよ。ただ、冬はスキーをしていた記憶しかありませんね。
スキーは誰かの影響ではじめたんですか?
兄弟は七つ下に弟がひとり。お父さんはジュニアのスキージャンプのコーチをやっていて、お母さんは地元石打で生まれアルペンスキーをやっていました。
魚沼のサラブレッドじゃないですか!
ぜんぜんサラブレッドなんかじゃなくて。親にスキーを教えてもらったこともないですし。ただ、とにかくスキーを教えてくれるひとがまわりにいっぱいいました。宿の近くに日本人ではじめてスキーW杯に出られた小野塚茂さんという方がいてジュニアのコーチやられていたり。ゲレンデで練習するデモスキーヤーの後ろにくっついて毎朝滑ったり。宿のバイトの子と、お弁当持ってゲレンデ山頂へ行ったり。
周りの方に見守られて、スキーを日常生活の中で楽しめる環境が幼少期からあったんですね。
昔ってどこのスキー場にも「ちびっ子ギャング」がいたじゃないですか。わたしも含めて(笑)ちびっ子暴走族みたいな子が。練習前後の空いている時間で、ゲレンデを直下降でぶっ飛ばしたり、ゲレンデから外れて森の中へ入ったり。スキー場側も、いまみたいに厳しくなかったし、当時はみんな寛容的でしたよね。親の目を気にせず、ゲレンデで自由にのびのびと遊ぶ子供が昔は多かったけど、いまは少なくなりましたね。
オリンピアン小野塚彩那の原点は、ちびっ子ギャングだったのですね。
通常は小学三年生でジュニアチームに入るんですけど、わたしは二年生から入れてもらって練習していました。それから競技の道へいくんですけど、ずっと二、三番が多くて。それがずっとオリンピックまで続いて、万年二位、三位のポジションを、いまのいままで貫き通すという(笑)。小学校から高校まで、いつも大差で負ける常勝一位の子がいて、いま技術選で優勝争いしている金子あゆみって子なんですけど。いつもぶっちぎりで一位。いかにしてその子とのタイム差を縮めるか。そればっかり考えていました。一度も勝てなかったけど、いま思うとそれが楽しかったのかもしれませんね。
いい環境があり、いいライバルがいたからこそ、スキーを続けてこられたと。一番になれないことで腐ったり、辞めたいと思ったりしなかったんですか?
高校を卒業して、専修大学のスキー部に入って寮生活をはじめました。入学した当初は、思うような成績がでなくて、スキーを辞めたくてしょうがなかったですね。で、あるとき気持ちを切り替えて技術選にでたら、好成績が出はじめて。スキーに対するモチベーションが戻ってきた。そこから大学時代は、レーサーと基礎スキーヤーの二足のわらじを履いてスキーに没頭できるようになりました。
スピードを重視するアルペンから、滑っている姿勢やフォームを重視する技術選へ打ち込むようになった。それがよい方向へ転がったと?
技術選に出るようになってから、考えてスキーをするようになりました。滑走技術を上げて、スキーの幅を広げることができたので、結果的にやってよかったと思います。その甲斐があってか四年生のときインカレのアルペンで優勝もできましたし。アルペンと技術選を両方やっていたから、パイプにもすんなり入っていけたんじゃないかな。技術に対する絶対的な自信が生まれて、スキー操作をすることに関しては恐怖心とかもなかったし。スキーの応用力というか、振り幅を身につけられたと思います。
ハーフパイプに入るの、怖くなかったんですか?
石打には昔からハーフパイプがあって、パーク遊びのメッカのようなスキー場でした。だからパイプには免疫力がありましたね。高校生のころ、スノーボードの人たちとよく入って遊んでいたんですよ。板の踏み方とか教えてもらったりして。そのころからパイプに入るっていう恐怖心はぜんぜんなくて。大会に出るとかは考えたことはなく、あくまでも遊びの延長で楽しんでいましたね。
高校生になっても「ちびっ子ギャング」は健在だったんですね。はじめてハーフパイプの大会に出たのは、いつ頃なんですか?
大学三年生だったかな。新潟の上越国際スキー場でスキーハープパイプの世界大会をやるっていうんで出たんですよ。エントリーすれば誰でも出れるっていうんで、近いし、スケジュールも空いてたし、軽いノリで。そしたら、六位に入賞して。あとで出場選手をリストでみたら、世界から日本のトップライダーまで勢揃い。そのときにだいたい日本と世界のレベルがわかったんです。大学卒業して一シーズン終えた二〇一一年の春にハーフパイプがオリンピック種目になるということがわかって。子供のころから出たいと夢みていたオリンピック。アルペンじゃ到底出場できるようなレベルじゃなかったけど。これ、チャンスだなと思ったんです。
社会人二年目の二〇一一年にハーフパイプがオリンピック種目に決まったときは、そこそこパイプの技ができたんですね?
いや、ぜんぜんできない。エアターンくらいしか。だけどほかの人よりは絶対高く飛べるっていう自負がありました。しかし、世界は甘くなく、はじめて出場したW杯はブービー賞でした。ビリから二番目(笑)。トリックもなにもできないうえに転んじゃって、予選落ち。ほかの日本人選手は予選通過。それからめっちゃ練習しましたね。
具体的にどういう練習ですか?
一匹狼の旅がはじまりました。安いチケットを探して渡米し、コロラドのスキー場の近くに部屋を借りて、朝からゲレンデで練習する毎日です。ある日、ニュージーランド人から声をかけられたんです。「おまえ、コーチいるのか?」って。その人はプロスキーヤーとして活躍するウェルズ四兄弟のお父さんでした。ブルースっていうんですけど、ひとりで練習するわたしをずっと気にかけてくれていたようで。「コーチはいません」って言ったら、そこにいたスノーボードの日本人コーチを呼んできて「ナオキ!コイツにパイプを教えてやれ」って。お互い「ええー?!」ですよ。その方が、銅メダルをとるソチ・オリンピックまでわたしのコーチをしてくださった綿谷直樹さんでした。
綿谷さんとはまったく面識がなかったんですね?
現場にいたことは知っていたけど、名前も知らないし、話したこともなかったです。当時、綿谷さんはヨネックス所属のスノーボーダーのコーチをしていました。ヨネックスに許可をもらって、わたしも一緒に合宿へ参加するようになったんです。そこからですね、本格的にハーフパイプのイロハを教えてもらったのは。パイプの踏み方とか、抜け方とか、ひたすら練習です。突然チームに加わったわたしにも綿谷さんはすごく親身になって教えてくださいました。日本ではトップクラスの指導者でしたから、めっちゃラッキーでしたね。
世界へ飛び出す勇気が、幸運を引き寄せたんですね。それにしてもブルース、いいひとだなー。
外国人に日本人のコーチを紹介してもらうっていう逆パターン(笑)。綿矢さんもスキーヤーを教えるのは初めてだったようです。その頃からハーフパイプのナショナルチームには合流せず、完全にひとりで動いていましたね。コーチの綿矢さんを呼んで、サービスマンだったいまの旦那さんを呼んで、自腹で大会をまわる。自分勝手に動いていたから、ナショナルチームには嫌われたけど。即席のハーフパイプ・ナショナルチームは、あってなかったようなものだったんで、オリンピックに出るためには、自分でどんどん動くしかなかったんですよ。
パイプ競技から離れ、いまは自然の雪山を滑る山スキーを楽しんでいるようですが、はじめての山スキーデビューはいつだったんですか?
二〇一四年の三月にスキーヤーの児玉毅さんとカメラマンの菅沼浩さんに連れられて十勝岳へいったのが初めてのバックカントリースキーです。銅メダルをとったソチ・オリンピックが終わってすぐのことですね。児玉毅さんにずっとまえからバックカントリーに行きたいってお願いしていたんですけど「オリンピック終わってからね〜」と言われていて。終わってすぐに「行きたい、連れてって!」って連絡したら撮影を組んでくれて、いきなり十勝岳(笑)。
そもそもなぜバックカントリーに行きたいとずっと思っていたんですか?
やったことがなかったことに挑戦したかったのが大きいですね。これまでアルペンやって、基礎やって、ハーフパイプやって、あと一歩踏み出すには山しかないなって思っていました。いろんなスキーをしてきてもゲレンデしか知らないわけで、さまざまなリスクが伴う未知の雪山の世界を知りたかったんです。
いきなり十勝岳とは、ハードですね?!
結構、激しかったですね。BCデビュー戦でいくような山ではない(笑)。シールやアイゼン、ピッケルとかはじめて手にする道具ばかりで、使い方もわからない。「はい、これ付けて」って。めっちゃスパルタでしたよ。でも、すごい充実感があって、楽しかったですね。
二〇一八年に競技を引退してから、バックカントリースキーに拍車がかかるわけですね。
二〇一九シーズンは一月の八甲田からはじまりました。五年前に買ったシール、ショベル、プローブ、ビーコンなどのBCギア一式は消防士の弟に「オレのほうが使うでしょ」ってとられたので、装備をいちから買うことになりました。地元新潟のスキーヤー佐藤藍ちゃんと一緒に、長岡の山道具店へ行って「全部買うから必要なものカゴに入れて」ってお願いすると「はい、コレ。はい、コレ」って(笑)。ナルゲンボトルからツエルトまでめっちゃ買った。ほんと初心者と一緒ですよね。八甲田をガイドしてもらった八甲田ガイドクラブの相馬浩義さんにシールの畳み方とか雪がついたときの落とし方とか、細かいところまで道具の使い方を根掘り葉掘りその場で教えてもらいました。振り返ってみると、ずっと指導者には恵まれすぎていますね(笑)。
それからフリーライド・ワールド・ツアー(FWT)の白馬大会に初出場しました。本戦への切符をかけて行われたフリーライド・ワールド・クォリファイアー(FWQ)では圧巻の優勝。BC経験は十勝と八甲田だけなのに、いきなりビッグマウンテンでのフリーライドって順序がおかしい。
FWT白馬のあとの三戦、カナダ、オーストリア、アンドラにも出場しました。BCスキー経験が浅いのに、いきなり世界最高峰のフリーライドの大会にポンって投げ出されて「どうすんのわたし?」ってなりますよ。滑るラインとかもわからないし。主催者側はフリーライドのオリンピアンを招待して、結果を期待していたけど、ぜんぜんたいした滑りができなくて申し訳ない気持ちになりました。できるならもう一年、FWTのツアーを回りたいですね。なんかもっとこう、攻め込みたい(笑)。結果は伴わなかったけど、いいフィーリングはあって、何かを掴んだ感じはあります。まずは白馬のFWQで優勝するのが絶対条件ですね。
FWTのための練習ってなると、ひたすら雪山をガシガシ登って滑ることを繰り返すことでしょうか。
だからどんどんいろんな山へ行きたいですね。雪山で経験を積みたい。地形とか雪質とか、ラインの読み方とか、なにが良いか悪いかもわからないので、いろいろ勉強したいです。二〇一九年は経験を積んでステップアップするシーズンだと思っていたけど、いきなり世界最高峰へいっちゃったから(笑)。経験値はいきなりあがったけど、時間をかけて確固たる自信をつけていきたいですね。アルペン、技術戦、ハーフパイプをやってきて、いま新しいフィールドの山へ入っていこうとしている。やっぱり楽しいですよ、新しいことにチャレンジすることは。
FWT白馬のあとは、どこの雪山へ行きました?
FWQ 白馬のあと妙高で撮影し、FW T 白馬に出て、引退試合のX-GAME、カナダのFWT、白馬のジャパン・フリーライド・オープン(JFO)に出て、北海道キロロで一週間撮影して、FWTオーストリア、FWTアンドラ、帰ってきて利尻山。二〇一九年は滑りまくってましたよ。利尻では初めて雪山でテント泊しました。夏山でさえ一泊しかしたことないのに。すべてがあたらしい経験。懸垂下降にも挑戦して超ハードだったけど、超たのしかったですね。自分は登ることが好きなんだと新たな発見もありました。シールからアイゼンに履き替えて急登を登るのは大変だったけど、登ったあとの一本が快感でしたね。八時間半くらいかけてピークにアタックして、夕日に向けて滑った一本は、すごい特別でした。たった一本。ザ・ノース・フェイスチームとの遠征は、いつも刺激的で、わたしを成長させてくれます。
そのザ・ノース・フェイスのサポートライダーになった経緯を教えてください。
ザ・ノース・フェイスのチームに加えて欲しいと、自分からお願いにいきました。自分のやりたいことを考えたとき、ザ・ノース・フェイスがいちばん理想的だったんです。同じように競技から雪山へ舞台を移したスキーヤーの先輩、河野健児さんや佐々木明さんもいましたし。ずっと映像とか写真とかを見てきて、チームで動いている一体感もあって、いいなぁと。なおかつ女子のスキーヤーがひとりもいなかったから「きたっ」と思って(笑)。
男性ばっかりのチームに飛び込む躊躇もなかったと?
ぜんぜんないし、むしろその方がいい。ドライだし。高みへ押し上げてもらえるし。チームで動くだけでなく、健児さんや明さんからプライベートでどこどこ滑りにいこうって声がかかることもでてきて、すごくありがたいです。いまの環境はめちゃくちゃいいですよ。一生ついていきますって感じ(笑)。
チームに入ったばかりなのに、すぐに馴染んで、すでに溶け込んでいる印象がありますね。
ザ・ノース・フェイスのチームに入って、一番心に響いたのは「ハーフパイプスキーヤーとしての小野塚彩那を評価しているわけじゃない」と言われたことです。あ、最高と思いました。オリンピアンだからって特別扱いすることなく、純粋に自分がやりたいことに対して応援してくれる、サポートしてくれるっていうのがザ・ノース・フェイスのスタンスでした。オリンピアンじゃなく、ひとりの女性として雪山を登って滑りたいという情熱。それを評価してくれたのだと思います。嬉しかったですね。
ONCE UPON A TIME IN PARADISE
- PHOTOGRAPH:Tempei Takeuchi
- INTERVIEW & TEXT:Shinya Moriyama
座間 幸一
六九歳。長野県白馬村で「鉄工房 村の鍛冶屋」を営むアイアン職人であり、モノスキーヤー。東京飯田橋に生まれ、ローラースケートやスキーなどの乗り物に幼少期から親しむ。ファンスキーの伝道師としてさまざまなメディアに出演し、モノスキーのレジェンドとして、いまもシーズン中は雪山を毎日滑走する。二〇一九年の白馬ジャパン・フリーライド・オープン(JFO)では、最年長出場で唯一のモノスキーヤーとして場を盛り上げ、喝采を浴びた。愛称は、ザマーン。
白馬の雪山で見かけた、ヘンな板を自由自在に操るヘンなおじさん。スキーでもない、スノーボードでもない。やたら速い。やたら楽しそう。やたら目立つ。そのおじさんの正体は、モノスキーでパウダーを食い尽くすザマーンこと座間幸一。御歳六九歳。白馬のパウダージャンキーから慕われる鍛冶屋の大将は、ファンスキーとモノスキーを日本に広めたレジェンドだった!あとSUPも?
雪山で一度目にしたときからあなたのことがずっと知りたくて。生い立ちから教えてください。
生まれは東京の飯田橋です。実家が鍛冶屋をやっていて、小さい頃おじいちゃんが東京タワーを家で作っていたからね。作業場が遊び場でした。東京タワーのどっかに名前が書いてあるよ。東京タワーの一部になる鉄骨に幸一って書いて遊んでたから(笑)。小さい頃から高いところによく登って遊んでいましたよ。で、高校出て、家を手伝うようになった。鳶職もやっていて、池袋にサンシャインってあるでしょ?あの鉄骨も建てたよ。
現職の鍛冶屋は生家に原点があるんですね。
四〇歳くらいのときかな、おじさんと大げんかして家を出た。それからビデオの撮影会社をつくって目黒雅叙園で結婚式の撮影をしていました。撮影から編集まで。その頃はバブル絶頂期で、いろんな遊びをしたよ。ハンググライダーとかバイクのレースとか、危ないこといっぱい。危険なことが好き。ふふふ(笑)。高いのは慣れているし、バイクのレースもやっているからスピードも怖くない。だからスキーも怖くない。スピードに目が慣れているんだね。
スキーをはじめて履いたときのことを覚えていますか?
うん、たしか一〇歳だったかな。ガチャガチャした鉄のローラースケートで遊んでいた頃で、おじさんに連れられてスキーをやった。場所は、たしか万座だったか。硫黄の匂いを覚えている。滑り方を知らないし、おじさんは勝手に滑ってるから、とにかく上までリフトであがって、ばーって滑って転ぶっていう。竹のポールと革靴でさ。革靴がはみ出るくらい細い幅七〇ミリくらいのまっすぐの板。ローラースケートよりスキーのほうがおもしろいじゃんって。真っ白い雪のなかを滑るっていうのが楽しかったねー。ただ自分ひとりでは絶対行けない場所だから、とにかくねだらないと行けない。自分でいけるようになったのは、高校生から。バイトしてお金を貯めて春休みとか冬休みに仲間と行こうぜって。でも、シーズン何回も行けないわけですよ。バスで行くんだけど八方なんて一日がかりだもんね。往復で二日とられて、三日間でも「なか一日」しか滑れない。リフト一時間待ちなんて普通じゃん。一日券を買った記憶がないね。回数券で滑って、残った券は春に持ち越し。一日一〇回も滑れなかったんじゃないかな。
モノスキーは、どういう経緯ではじめたんですか?
おれが三二、三歳のときにスノーボードが日本に入ってきた。ちょうどモノスキーも同じタイミングで入ってきて。その頃は、まだハンググライダーをやっていたんですね、自分でイチから作って。
え?ハンググライダー自分でつくったんですか?
だって売ってないんだもん。最初は竹で作りました。これが危ないんだよ、竹はすぐしなって、あまりにも反りすぎて。次はアルミでやろうって、アルミのパイプを買ってきて作ったんだけど、強度が低いアルミだったみたいでバキンって折れて。
鳥人間コンテストみたいですね。
鳥人間コンテストには第一回目から三回目まで出たよ。調子よく飛んだんだけど、いきなり失速して水へ落っこちた。グライダーだけが沈んで、ライフジャケットを付けられているから水中で宙吊り。グライダーと体が放れ離れなくて。とにかくもがいて、ようやくダイバーが助けてくれて。一分くらい沈んでいたんじゃないかな?これは危ないっていうんで、それから安全装置をつけるルールができたみたい。
で、夏はグライダー、冬はモノスキーの生活にどっぷりつかっていくと?
いや、グライダーは冬のスポーツなの。グライダーに必要な上昇気流は冬の方ができやすい。ある日、スキー場の上を飛んでいて「あ、スキーだ。またスキーやりたいなぁ」って思って。東京に帰ってすぐ神田のスポーツ店へスキーを買いにいったの。そこにナイデッカーっていうブランドのモノスキーがポンって一本置いてあった。「なんだこれ?スキーのビンディングがついているのに一本だし。スノーボードじゃないよね」って店員に聞いたら「入ってきたばかりなんでよくわかりません」という。「じゃあ、コレくれ」って(笑)。
新種のアウトドアスポーツに対する探究心がハンパないですね。
で、乗ってみたけど、すぐコケる。だって乗り方知らないんだもん。前行っちゃ逆足踏んで、どーんと大転倒。山足を踏まずに、谷足をひきあげるとエッジがかかりながらターンしていくのがわかってきて、少しずつ乗れるようになった。解き放たれて自由になるときが、いきなりやってくる。これはおもしろい、すごく自由だなって。でも、モノスキーで遊ぶことをスキー場が許してくれなかった。滑らせてくれないの。スノーボードと同じ扱いだっていうんだよ。おれはスキーだって言ってるのに。ストックも持っているし。タテ乗りだし。でもダメだっていう。それは一枚の板だからスノーボードだって。
見た目は完全にスキーなのに。
頭にきたからモノスキーを二枚履いて遊んだりしたよ。左右の足に一枚づつ履いてリフトに乗って上にいったら、一枚脱いで背中につけて滑ってくる。これでも文句あるか? って。当時は白馬も全部滑走NGだった。もうやんなっちゃうよ。
どこで滑り続けたんですか?裏山ですか?
モノスキーをはじめて三年目くらいかな。どこいってもダメだからめんどくせーなってときに、友達がドイツからケスレーっていうブランドの短い板を持ってきた。こんなおもしれー板があるよって。それがその後、盛り上がったファンスキーだった。全長六〇センチくらいしかなくて。借りて、パッと乗ったときに、あ、これストックないほうがいいなって直感でわかった。ローラースケートみたいな感覚で、面で滑れる。これはおもしろいってなって。モノスキーがだめなら、これで遊べるねって、それからファンスキーをやりはじめたの。
モノスキーもファンスキーも、日本ではじめて乗った人がザマーンだったとは。
どんどんファンスキーにのめり込んでいって、まわりに人が集まってきて、チームを作った
モノスキーよりもあとに入ってきたファンスキーの方が日本人やスキー場に受け入れられたんですね。
おれが四〇歳の頃に、うわーっと盛り上がった。ファンスキーの世界では、今もレジェンドで通っているよ。監修して「ザマーン」っていう名前の板も作ったり。テレビとかコマーシャルにも出ていたね。雑誌にもいっぱい出たし。当時、オールドイングリッシュシープドッグっていうでっかい犬を飼っていて、いつもローラースケートで飯田橋界隈を散歩していたの。上に乗って「馬だー」とかいいながら(笑)。そしたらタモリの番組に出てくれっていわれて、ローラースケート履いて犬と一緒に。ミュージックステーションにも出たよ。テレビの番組で飯田橋から鎌倉まで二日間かけてローラースケートで犬と一緒に走ったこともあったなあ。犬がバテたらおれがおんぶしてローラースケートで走る。それがCNNに取り上げられたりしてね。だから今回も撮影やるって声がかかったときに「また来たか?」って思ったよ(笑)。こんなじいさんをザ・ノース・フェイスの広告に出していいのかよってカミさんと話していたよ。
話を聞けば聞くほど、ザマーンさんが何者なのかわからなくなってきました。スキーに話を戻します。当時はファンスキーでバックカントリーにも入っていたんですか?
そう、ファンスキーで雪山に登ってパウダー滑ったりしてたね。斜度さえあれば、どんな雪だって滑れるから。小回りがきくから木がどんなに密集していようが森にも入っていける。みんなが入っていけないところに入っていける。春のシャバシャバ雪はトップを斜面にズボズボッて刺して登れるから楽なんだよね。おもしろかったなあ。ただ、平らになると、もう大変。早く後ろから長い板こないかな?ボードこないかなって。仲間を集めて一人五〇〇円をペットボトルに入れて麓にボンと置いといて、みんなで山のてっぺんまで行って、ヨーイドン!で早く下ってとったヤツが勝ち。そういう遊びをよくやっていたね。
ファンスキーからモノスキーへ戻っていったのは、なにかキッカケがあったんですか?
モノスキーOKのスキー場が増えていったというタイミングもあったのかな。ある日、友達が一二〇センチの短いスノーボードを改造してモノスキーをしていたの。じゃあおれも作るよって、スノーボードの板をネットで二〇〇〇円くらいで落札して、穴開けて、インサートつけて、ファンスキーのビンディングをつけて、スキーのハードブーツで乗り出したの。で、乗ったら昔の感覚を覚えているからすぐに乗れるようになった。やっぱりおもしろいなって。一二〇センチだと浮力がないから物足りなくなってきてだんだん長い板が欲しくなって、エンデバーの一四〇センチの板を手に入れた。これくらいがちょうどいいやって。市販のモノスキーって長さ一八〇センチくらいあるの。トップが太くてテールが細い。センターよりも後ろに乗って、テールを沈めて、トップを浮かせて滑る。でも、おれはそうじゃないやと思って、とにかくセンターに乗りたくてしょうがなかった。
市販のモノスキーだと自分の滑りには合わない。だから中古のスノーボードから手探りで自分の滑りにあう板に仕上げていく。なんてクリエイティブな遊びなんでしょう。そんな面白い遊びが、なぜ日本では流行らなかったんですか?
同じ時期に入ってきたスノーボードにはファッション性があった。でも、モノスキーはファッション性ゼロで滑っているヤツが多かったの。転んで打つのはいつもお尻の横で、痛い痛い。だから、女の子が増えなかった。女の子が増えないスポーツはダメだよね。で、なくなっちゃったの。ずっと滑っている残党はいるけどね。
白馬にモノスキーヤーは何人くらいいるんですか?
いない。ほとんど見ない。たまに見かけるけど、外国人ばっかり。白馬はニュージーランド人やオーストラリア人が多いけど、モノスキーはフランスが発祥でヨーロッパ系だから、ほとんど見ない。モノってフランス語で1っていう意味だからね。
へー、そうだったんですね。それじゃ、全国のモノスキーヤーは?
全国に二〇〇人くらい。そのうち日常的に滑っているのが五〇人くらい。戸隠で毎年モノスキーフェスティバルっていうのをやってるけど、三〇、四〇人くらい集まっているんよ。モノスキーヤーって我が強すぎちゃって、新しい人を呼ぶとか、受け入れるっていう体制が整っていないのかもしれないね。
たとえば、これからモノスキーをやりたいという若者がいたとして、スキー経験なしに、いきなりモノスキーへ入っていけるものなんでしょうか?
最初からそういうもんだと思ってはじめれば、すんなり入れるよ。ショップだと静岡のシラトリスポーツがいいかな。モノスキーは慣れるまでが、ちょっと忙しい。はじめはみんな逆エッジくらって。あれは痛いよー。
モノスキーがどこのゲレンデでも滑れるようになったいま、どこで滑ることが多いんですか?
コルチナと八方のシーズン券を買っています。じいさんは安いから(笑)。冬の一日は天気次第。ぱっと山をみて、行けると思ったら行って、ばーっと滑って帰ってきて仕事する。晴れたから行かないと!雪降ったから行かないと!風止んだから行かないと!って、空を見上げながら忙しい。ほぼ毎日雪山に入っているから二年でウェアは色あせちゃうよ。
二〇年前に東京から白馬へ移住したキッカケって、なにかあったんでしょうか?
ネクタイするのがイヤで、会社は友達に任せて白馬にきたんですよ。四九歳のときだったかな。五竜スキー場にパークを作ってくれっていう仕事があって、それで白馬に来たの。エア台作ったりレールを引いたりしてパークを作るじゃん。でも、作るたびにパトロールが壊す(笑)。ゲレンデにこんなん作られたら困るって。こっちは会社に依頼されて作っているのに。現場のパトロールはバリバリのレーサーだから、そういうものは一切受け付けない時代だった。外部の人間がおもちゃみたいな板でやってきたって。一年で辞めたよ。辞めてからも「ザマ・ファンスキースクール」っていうスクールを五竜で続けていて、その受付に採用した女の子がいまの奥さん。岡山から出てきたファンスキーヤーで二〇歳下。おれが元気だから若くないとダメなの(笑)。
で、すぐ白馬にいまの鍛冶屋を開いたわけですね?
いや、しばらくは遊んでいたよ。夏は青木湖で、ウインドサーフィンってあるじゃん?あのセールを取っ払ってボードのうえに立って、パドルで漕いで遊んでた。そしたらSUPってのが出てきて、おれの板を見て、「それなんですか?」って逆に聞かれて。Tシャツをターバンみたいに頭に巻いて、体が真っ黒のオヤジがウインドの板に乗ってふらふら遊んでる。「SUPって遅いねー」って。おもしろかったなー。
モノスキーとファンスキーだけじゃなかった!SUPも日本人初だった?!
いまでも夏は青木湖で漕いでるよ。
いまはさすがにSUPですよね?
いや、いまだにウインドの板だよ。だって安定してるのっておもしろくないじゃん。誰でも乗れるものより、乗れないやつを乗るのがおもしろいじゃん。モノスキーもそういう感じだったんだね。ファンスキーだってそう、みんな最初はゴロゴロ転がって。シンプルで簡単なんだけど不安定なもの。モノスキーやファンスキーに乗ると、雪を見る目がすごいよくなる。しょっちゅうよく見てないと、いきなり柔らかいところ入っちゃうと飛ぶからね。長い板に乗っていると雪質なんてあまり気にしないじゃん。どこでもいけちゃうから。
モノスキーの魅力は、ズバリ、難しいところ?
たえず不安定なところだろうね。左右のバランスがすごく不安定。ちょっとエッジが外れたら終わり。バツンってエッジが外れたら次の足がでないから、転んで流れるまま。スキーなら片方の足で耐えて切り替えができるけど。それに、モノスキーは点で乗っていないといけない。ごまかしがきかない。不安定なところがいいんだよ。
二〇一九年、白馬で行われたジャパン・フリーライド・オープン(JFO)に最高齢で、かつ唯一モノスキーで出場して、会場を沸かせましたね。ザマーンさんのトライでモノスキーが認知されつつあるようです。
あと何年大会に出られるか?もうそろそろガタがくるんじゃないかな。協賛のザ・ノース・フェイスが一番目立ったスキーヤーへ贈る「ザマーン賞」というのを設けて、そのトロフィーを鉄で作りましたよ。今年もまた作んないといけない。滑りたいのにねー。
ザマーン哲学がわかってきました。誰もやったことのないことに、一番はじめにチャレンジしたいんですね。そして、それを自分のものにしたいと。
そうそう、最初にやったほうがおもしろいし。あとからやるってことは、誰かに教わってやるってことじゃん。ということは、その人を抜くことはできない。その人が先生だから。たとえば、教え子がオリンピックで優勝するじゃん。その先生はオリンピックで優勝したことないんだけど、あいつはおれが教えたんだぜって立場は変わらない。先生はいつまでも先生。イヤじゃん、そんなの。いつも教える立場じゃないと、おもしろくないじゃん。