ARTIST
CHEF
これだ、という料理を出すために。
ベストなコンディションを
生涯をかけて追求し続ける。
- PROFILE
- 鈴木美樹 / MIKI SUZUKI
- 料理人
- 料理人を志し、19歳から都内のイタリア料理店に勤務。1998年よりイタリアの料理学校「ICIF」で約14ヶ月に渡り研修を受ける。帰国後、澤口知之シェフの「ラ・ゴーラ」に勤務。2001年に再び渡伊し、数々の星付きリストランテで経験を積む。2004年より再び澤口シェフの「リストランテ アモーレ」に復帰。2011年より、目黒区・元競馬場前に自身のイタリア料理店「メッシタ」をオープンし、予約の取れないお店として連日賑わう繁盛店に。2018年6月からは、都内にて屋号のないお店、通称「鈴木家」を営業している。
人からダメだとか、言われたくないんですよ。
「ダメは自分で決めるから」って。
料理人を志したのはいつからですか。
父が日本食の料理人で、小さな頃からお店を手伝っていたりはしました。それも、椅子を上にあげたり、床を掃いたりっていう程度ですけど。なぜかその作業は嫌いじゃなくて。幼いころから興味のないことに対してスルーしてしまう性格で、習い事もほとんど続かなかったんですが。イタリア料理に出会ったのは、中学生の頃。同級生のお父さんがイタリア料理のお店をやっていて、誕生日に振る舞ってくれたパスタっていうものに衝撃を受けました。単純に、白くて高いコック帽をかぶった料理人が熱々のパスタを盛っている姿を「かっこいい」と思ったんです。味もそうですが、イタリア料理人という存在そのものに憧れました。
その後、イタリアの料理学校「ICIF」へ。
18歳の頃、その同級生の店でバイトさせてもらえることになって、イタリアへの興味がますます高まって。まずは旅行に行ったんです。その2週間ばかりの旅で「なんかいいなあ」って。それから、イタリアの料理学校への入学準備を進めました。こういう、まず、飛び込んでみる旅が大事で。いろいろなことを知った上で行ってしまうと、自分の中に勝手な判断基準ができてしまうじゃないですか。そうではなくて、何も分からないなりに、飛び込んで、素敵だなと純粋に心を動かされたことって、その後の原動力になると思うんです。
言語など大変な壁があったと思うのですが、帰国後の日本では、さらにハードな修行時代を過ごされたと聞きました。
イタリア語は、日本で家庭教師についてしっかり勉強してから、修行に出ました。言葉ができないとなめられますから。でもそうやって、本場で料理を学んだ気になって帰ってきた私に、日本の師匠である澤口知之シェフは「あなたは一人前ではない」と言うことを毎日突きつけてきました。もちろん、私が仕事ができないからなんですけど。それは認めた上で、悔しいからできるようになりたい、見返したい。これが毎日の繰り返しでしたね。わたしは何か壁があると、なんとかして超えてやるって火が着いちゃう性格で。なので、人からダメだとか、言われたくないんですよ。「ダメは自分で決めるから」って。例えばそれを、データとか、普通はこうでしょ、みたいな語り口で言われるとすごく腹が立つ。「今に見てろよ」って思いますね。本当にそうなの? 例外もあるんじゃないの? と思いたい。
その後、再びイタリアに。
2回目のイタリア修行は、自分の中でも吸収してやろう、一つ旗を立ててやろうっていう明確な目的意識があるから、料理学校時代とは全く違っていましたね。最初、仕事って自分が何ができて、何ができないのかっていうことすら分からないじゃないですか?そこがある程度分かっていたから、自分の経験にないものや、より足していかなければいけないものにフォーカスして働くお店も選んでいました。季節や食材のことも考えながら、最初はひとつ星のお店に入って、とにかく懸命に働いて。休みを使っては、そこで次に働きたいお店に見つけてアプローチして、という風にステップアップしていきました。そうやってイタリア各地を巡りながら、トータル4年半で帰国しました。
その経験から、料理への考え方も変わりましたか?
他の国でも言えるんですが、イタリアは特に、土地によって料理がすごく変化するんです。食材もワインも、その土地でとれるものしか使わないっていう文化がある。例えば、海沿いの崖っぷちにあるワイナリーだから、酸があってミネラルが多いんだとか、そういうことを体感として得られるのがおもしろかったし、すごく納得できた。これは、いわゆる情報として聞いても、身体に入ってこない。頭で知ることと自分の体感を持ってわかるのとは、全く別物なんです。わからないことが原動力になる。わからないから、行って確かめたい、知りたいっていう気持ちですね。
日本に帰ってからの自分の料理も変わった?
そうですね。旬のもの。魚も野菜もそうですけど、今だったらこれが美味しいっていう食材を使うような意識が高まりましたね。日本に帰って、澤口さんの店で再び働くことになるんですが、その頃から築地に通うようになったんです。そこでも、最初は舐められるんですよ。帰りにすっごく悔しくて泣いて帰ったこともあるくらい。築地は、仲買人の方々との関係性がすごく大事になる場所。量をたくさん買うからいいお客さんっていう定義ではないんですよ。最初はしんどかったですね。 ものすごく時間かかりました。
料理人として、女性だからというハードルはあったんでしょうか。
私の場合は幸い、日本でもイタリアでもそういう差別はまったくない職場でした。女の人が料理をするっていうのはまだまだ少ない時代だったのも事実ですが。ヨーロッパってシェフの社会的なポジションがすごく高いんですよ。料理の技術さえあれば、のし上がっていけるような風土はありますよね。私は、女だから大変だっていうのは言いたくない。女だからっていうのは自分で差別している。ただ、もちろん、身体的な負荷っていうのは、男の人にくらべてあると思います。
今、テーマとしてあるのは、
ベストをキープするのはもちろん、
いつまでベストな状態でやれるかということ。
2011年からご自身のお店を開かれました。大事にしたことはなんでしょう?
澤口さんの店を辞めてからは、やりきった!という気持ちで、しばらく脱力していた時期もあったんですが、他にやりたいこともなくて。やっぱりわたしは料理するしかないんだなっていうのが、わかって。もう他の人にはつきたくないから、自分で店を出そうと。その時まず条件にしたのが、店の家賃を一日の売り上げで払えること。料理以外のコストが高いと、例えば原価500円の料理に1500円の値付けをしないと成り立たなくなってしまう。そういうのが嫌だったんですよ。その分、素材や料理の部分では手を抜かない。ラグーボロネーゼと書かずに、ミートソースと書くような。ワインも足つきのグラスではなくて、コップで飲んでもらうような。くだけてはいるけれど、絶対に間違いのないイタリアン。本質はブレてないお店がやりたかった。それは、昔からずっと温めてきたものではなくて、実際にお店を作っていく過程の中で、浮かんできたことですけどね。
『メッシタ』は、6年間の営業でしたが、連日満席で予約が取れないことで知られていました。そこから、現在のお店に移られたのは、どんな理由からですか?
まず、働きすぎました。2時間半3回転で毎日36人のお客さんと向き合って、それを週6日。ほぼ何も考えられない状態だったんですよ。それで、1番やっちゃいけない、楽しくないっていう状態に入ってしまった。それで、元々自宅を建て替える計画があったんですが、1階をお店に急遽変更して、そこで働き方を変えようと。
「楽しくない」状態から環境を変えて、気持ちは戻ってきましたか?
時間がかかりましたね。ひとつずつストレスになることを取り除いていきました。たとえば、最初はアラカルトでやってたんですが、お任せのコースのみに変えました。ひとりよがりのコース料理を出すのは嫌だったんですけど、自分自身がその日、自信を持っていいと思える料理でないと、出す意味がないなと思うようになって。そもそも自宅に店をかまえたのも、環境づくりの意味合いが大きかったですね。だから、着る洋服もそうで、よくノースフェイスのパンツやダウンを着ているけど、軽いとか、洗ってすぐ乾くとか、何回洗ってもタフで丈夫とかっていうのは、絶対条件なんですよ。そうやって、身の回りの細かなことを整理していくことで、料理に集中できるようにしていく。自分のコンディションを自分で把握するために、五感をフルで働かせています。
まるでアスリートのようですね。そして、すべてのことをお一人でされていますね。
これが絶対いいと思えていなかったら、出す意味ないなと思って。そう言う意味も含めて、ひとりで全部やっています。一皿の料理を作るにも、お客さんの前に出すまでにいろいろな工程がある。アシスタントがいると、何かしら仕事を任せていけなければいけないし、雇っていくために、お店の仕組みや料理の値段を変えなければいけなることもある。そうするともう、純粋な料理っていうところから離れてしまう気がして。私の料理じゃなくなっちゃうんですよ。
とんでもなく責任感が強いんですね。
とにかく後悔するのが嫌なんですよ。振り返って後悔がないように、自分で責任を持ちたい。そいういう意味でも、今、テーマとしてあるのは、ベストをキープするのはもちろん、いつまでベストな状態でやれるかということ。そしてそれを見極めること。経験を積んで自分を知っているからこそ、自分はこれからまだまだいけるっていう感覚はないですね。だから、引退するときも自分で見極めたい。最初に「人にダメって言われるのが嫌だ」って言ったのと同じ理由です。たとえば、料理人としてベストを保つという意味では、今のわたしは、もう3日間続けてで働くことはできない。料理はもちろん、掃除もそう。身の回りのことをしっかりやった上で、今日は何を仕込もうかなと考える余裕が必要になっている。だからこそ、営業日数を減らして負荷をコントロールしていく。ベストな状態を保つことの難しさっていうのは、今はどんどん自覚しているので、どれだけできるかっていう興味と同時に、怖さも実感してます。ただ、やる以上は、ベストであると言い切れるようにしたい。自分自身との戦いです。
年齢を重ねていくからこそできる料理やお店というものには興味はないですか?
現時点では。もちろん、良いと思うけれど、お金は取れないかなって思っちゃう。
鈴木さんのなかで、これだけは貫いてきた事はありますか?
自分が「これでよし」と納得した料理以外は出してないことですかね。美味しいっていうのは人それぞれなので、受け手がどうっていうことではなくて、自分自身のなかにある感覚。ちょっとでもダメだなと思ったものを出したことはないです。お任せではあるけれど、すごくギリギリまで考え抜いて、今日の料理ができましたっていうことって割と多いんですよ。すごくLIVEなんです、その瞬間。料理している中で上がってくる瞬間。それって自分だけにしか分からない感覚。それこそ、無防備な状態でいるお客さんに、差し出していいタイミング、悪いタイミングも含めて。
この先、追求していきたいことはありますか?
さっき、ベストをキープして、ベストを見極めるって話をしたけれど、でも逆に、自分がここまでだろうなって思うラインがあったとして、それを自分自身で裏切りたいとも思うんです。自分を知っているからこそ、どこかでそれを超える自分に出会えるんじゃないかって期待もしている。そこですかね。品数は減っているけど、作ってみたい料理もまだまだある。誰に従うわけでもなく、自分のやり方で試行錯誤して、自分の五感を大切にして、これだ!っていう料理を出せる環境を整えてきました。今が人生で、一番ベストなコンディションなんです。
- Photo / Chikashi Suzuki
- Illustration / Aona Hayashi
- Copywriting / Miwako Hosokawa
- Text / Haruki Kanda(kontakt)