今まで世の中に存在しなかったスポーツウエア
2021年春、ザ・ノース・フェイスはまったく新しいウエアを創り出した。スポーツウエアを作ったことは、もちろんある。ただ“クライミング競技に特化させた専用ウエア”となると、初の試み。約3年前から極秘裏に、かつ手探りの状態でスタートした開発プロジェクトにおいて、ヒントとなったのは、楢﨑智亜が漏らした一言だった。
「足の引き上げが速くなったら、もっと速く登れるかもしれない」。
「これまでもスポーツクライミング用のユニフォームを作ってはいましたが、あくまで一般的なスポーツウエアの延長線上のものでした。そこでまずスポーツクライミングの複合三種目の特性を調べ上げ、どんなウエアが最適かというところを追求したんです。スピードに関しては世界共通のルート課題があって、決まった動作をいかに素早くこなせるかが勝負を分けます。そのため少しでも速く登らせることのできるウエアを目指しました。選手が持っている能力以上のものを引き出してくれるような」(ザ・ノース・フェイスMD 青柳友梨)
BEYOND ABILITYのため、ロジックを徹底追及
重きが置かれたのは「アスリートと共同開発すること」。
「これまでもアメリカ本社からは繊細かつ真摯な日本のモノ作りを評価してもらっていました。機能性の高さなら日本は間違いないと。加えて楢﨑選手をはじめ、世界有数のクライマーが揃っています。そこで、日本だけでなくアメリカ、オーストリア、韓国と4カ国のナショナルチームが着用するウエアの開発を日本主導で進めてくれないかと」(ザ・ノース・フェイスMD 後藤太志)
「代表選手が着るからこそ、他国の選手と比べて明確なアドバンテージを持たせられるウエアを創りたい。でも、最初は何をすれば速くなるかというのが分かっていなかったんです」(ゴールドウイン テック・ラボ 木村航太)
そこでヒントになったのが、楢﨑智亜の冒頭の言葉だ。
「登るときに、蹴り上げた足を素早く上がることと、体が流れないことがスピードでは大事だと思っていたんで。開発チームの方と一緒にいろいろなヒアリングをしていくなかで、それを率直に伝えただけなんですけど」
果たして足の引き上げが速くなれば本当にタイムが縮まるのか。ザ・ノース・フェイスが富山県に所有するゴールドウイン テック・ラボを中心に、数値での裏付けを得るための計測が何度も行われた。楢﨑自身もモーションセンサーと筋電図デンサーをつけ、スピード専用ウォールを繰り返し駆け登った。
「タイムが良かったときとそうでないときの登りを複数回比較してみると、確かに足の引き上げが力強くスピーディになされたときのほうが良いタイムだったんです。スピードという競技の一側面を数値化できたことで、何をすればアドバンテージのあるウエアが作れるか実証できた。いわばパフォーマンスアップのためのロジックが固まった。あとはそれを突き詰める作業でした」(ゴールドウイン テック・ラボ 木村航太)。
クライミングのウォールでは足でホールドを蹴ったあと、引き上げて戻ろうとする動きに反するモーメントがかかる。それが引き上げのスピードを邪魔してしまう。そこで、スピードのウォールを登る姿勢をとった際に、足を引き上げる張力が働くよう大腿部・臀部の周囲にシリコンプリントが施された。要はゴムバンドを貼り付けて引き上げをアシストするイメージだ。そしてその性能を最大限に発揮させるため、体に隙間なくフィットする圧着タイプの上下一体型ワンピースウエアが選択された。
5秒台の、そのまた向こうへ
最初はこのウエアを着て登るのは少し怖かった、と楢﨑は振り返る。
「ウエアに限った話ではないのですが、体の一部に張りがあったり、クセが残っていると、登りに影響が出てしまうんですよ。ましてや一人だと背中側のジッパーを締め上げるのも一苦労なほどのウエアですから。でも、自分が実際にマシンの中に入って、3Dスキャンで体型に合ったものを突き詰める過程には驚きましたし、その点では間違いのないモノが出来るという期待はありました」
プロトタイプの段階から片手では数えきれないくらいのサンプルが試作された。楢﨑自身も再度テック・ラボへと足を運び、クライマーならではの独特な体型に合わせたパーソナライズも行われ、シリコンプリントを施す位置が最終決定した。
2020年夏の記録更新を受けて、ユニフォームもアップデートされた。
「トレーニング方法もガラっと変えていて。以前は下から上まで通してが多かったのですが、各パートを小分けにして繰り返す練習を取り入れてからは、一つ一つのムーブの精度が格段に上がりました。タイムを狙っているときはこのユニフォームを着て練習しています。ただ、正直に言えば最初は上半身の拘束感が強く、前に引っ張られるような感覚があったので、その点はストレートに相談しました」
その感想には、登り方の姿勢を変えたという点も関係している。
「スピードって下部と上部の2パートに大きく分けられるんです。下部では少し前かがみになったほうが速く登れるんですけど、上部は胸を立てて、手を少し後ろの位置で引いたほうが速いと気がついて」
開発に携わることで、自身のクライミングをより客観的に見ることができているのかもしれない。2020年12月には再度3Dスキャンを行い、新たなポジションに合わせてユニフォームもアップデートされた。
2021年の3月のスピードジャパンカップという公式の舞台で、5.72秒という驚異的な日本新記録をたたき出している。世界記録まで、あと0.24秒。
「とにかく、2021年に勝負したいという気持ちが強いですね。ワールドカップがどれぐらい開催されるかというのも分からないですけれど、自分としては、年間チャンピオンはもちろん、世界選手権を含めて、大きな大会は全部優勝したいなと思っています」
楢﨑智亜
プロ・フリークライマー。1996年6月22日生まれ、栃木県出身。生来の指の関節の強さと幼い頃体操で培ったしなやかさを武器にプロ転向から、わずか2年間で世界のトップに立つ。2016年の世界選手権では、日本人初の優勝を飾る。2017年のスポーツクライミングのワールドカップではリード、ボルダリング、スピードの3種目で争われる複合部門で初の総合優勝を達成。同じく日本代表選手の3歳下の弟・明智がいる。