誰かと競うことで得られる成長がある
「最後に開催したのが2019年大会ですから、もう1年半以上経ちます。2年近くも大会から離れていると、自分の実力が今どんな位置にあるのかわからなくなって、クライマーたちが目標を見失ってさまよってしまっているように僕には感じられます。ワールドカップに出るようなトップ層はまだいいのですが、TNFCは、そこまでには至らない一般クライマーたちの成長の場となってきました。なんとかそういう人たちに目標となるものを届けたい。競技性だけでなく、『フェスティバル感』もTNFCの良さだったので、それを考えると静かなリスタートにはなってしまいますが、ともかく動き出すことが大切。まずは2021年内に3〜4会場で始めて、2022年からは本格的に再開したいと思っています」
そう語る平山自身が、クライミングコンペに育てられた半生を送ってきた。クライミングシーンにおいて、競技として本格的に大会が開催されるようになったのは1980年代中盤。ちょうどその頃に平山はクライミングを始めた。大会を転戦するために20歳で単身フランスに移住。1998年と2000年にはリードのワールドカップで2度の年間チャンピオンに輝く。それらの事実は日本のクライマーを勇気づけ、日本のクライミングの発展に大きな影響を与えた。
「僕は競技に取り組むことで、自分のクライミングスキルがものすごく向上したという実感があるんです。自分ひとりで登っているだけだとわからなかったことが、いろんな人と競ったり、揉まれたりしているうちに、多くのことを発見し、吸収できた。『勝ちたい』とか『成長したい』というのは人としてすごく根源的な欲求なので、自然と真剣になるんですよね。そういう場はやっぱり必要。競技の場を与えられるのは、クライマーとしての成長にとても大事なことだと思うんです。コロナ禍ではそれができなくて、とにかくもどかしい。その場を一刻も早く復活させたいという思いでいっぱいです」
20年前に産声をあげたTNFC
ワールドカップに新たにボルダリングカテゴリーができたのが1999年。まさに世界的にボルダリングブームが盛り上がり始めた頃で、日本国内でもその翌年から、平山ユージをチーフセッターとして7a(セブン・エー)を会場にしたボルダリングコンペが始まった。とはいえ、その大会は現在から見るとささやかなもので、ルートセッターやスタッフはすべてボランティア、出場者も顔見知りばかりが数十人というような時代だった。
「僕はその頃、海外の大会を選手として回っていて、ボルダリングコンペもいくつか見ていたんです。でも、なにか面白くない。もっと魅力的なコンペの形がないかなと思って日本に帰ってきた頃に、ちょうどその大会が始まりました。そして、後にこの大会がTNFCの前身となるんです。今思えば、個性的でワイルドなクライマーの集まりみたいな場で(笑)。まだボルダリングコンペのなんたるかも定まっていない時代だったので、選手とスタッフの境もあいまいだし、『オレはこうやりたい』『いや、こっちのやり方のほうがカッコいい』とケンカ腰でやりあっていて。でも、そこにすごい熱気を感じましたね。ここなら、自分が思い描いていた『面白いボルダリングコンペ』ができるんじゃないか。そして僕もそこにスタッフとして加わって、みんなで理想の大会を作り上げる作業を始めました」
そのときすでに、平山は現在のボルダリングコンペの風景を頭の中に思い描いていた。きらびやかな大きな会場で、場を盛り上げる音楽とともに試合が始まり、実況アナウンサーが選手の一挙一動に興奮して叫び、その動向を全国民が固唾を呑んで見守る。そして優勝者には大きな賞賛……。平山の言葉でいえば「クライミングでお茶の間をにぎわせたい」。それは20年後にまさしく実現することになるのだが、当時はそんな未来は夢でしかなかった時代。平山は抱いたイメージを現実のものとするべく、2001年からTNFCをスタートさせた。
クライミング界の甲子園
「当時はノウハウもないし資金も十分でない。でも関わるみんなが、未来のクライミングを作っていくんだという熱気にあふれてた。ああでもない、こうでもないと、ボルダリングコンペのあり方について一緒に語り合っていた仲間たちが、20年たった今、国際連盟の要職に就いていたり、世界の大舞台でルートセッターを務めていたり、国内外で有名なボルダリング課題を初登していたりするんですね。昔、一緒に同じ夢を見ていた仲間たちが今を支えている。それを思うと、僕らもクライミング界の発展に貢献してこれたのかなと感慨を覚えます」
クライミング界への貢献──。これはTNFCについて語るときに平山がよく口にするキーワードだ。そのひとつの表れが、TNFC初期からキッズカテゴリーを設けたことでもあるだろう。今でこそ、小学生がクライミング競技に出場することは珍しくもないが、20年前は年少のクライマーは非常に少なく、そもそも競技の場がきわめて限られていた。本格的なキッズコンペの場としてはTNFCが国内最初期の試みともいえる。その狙いについて平山はこう語る。
「当時、自分の子どもが幼稚園くらいの年頃で、家族で岩場に行ったときに一緒に遊んだりはしていたんですが、クライミングジムには子どもが登れるような課題はなかったし、そもそも子どもを連れていって楽しめるような場でもなかった。子どもがクライミングできる環境はほとんどなかったんですよ。なにかクライミングに触れられるきっかけを作ってやりたい。そんな思いからキッズコンペを始めました。でもコンペといっても当初は遊びみたいなもので、競技性を求めたものではありませんでした。個人的には、勝負するようなクライミングは中学生か高校生くらいからでいいと思っているんです。それまでは『楽しい!』という体験を得ることのほうがよほど大事。なので、TNFCのキッズコンペはそういうコンセプトで始めたんですが、回を重ねるたびに参加者は倍増していくし、競技として厳密にやってほしいという要求がどんどん増えていって、キッズクラスも勝負の場に変貌していきました。時代の進化は僕の想像以上に早かったということでしょうか」
「TNFCをクライミング界の甲子園にしたかったんですよね」。これもまた、平山がよく語るTNFC像である。そのイメージはこうだ。全国各地にいるトップクライマーの卵たちが、その地域で行われる大会に出場する。まずはその地域大会でいい成績を上げることに彼ら彼女らは努力する。地域大会でトップに立った人は、年に1度開催される本戦に出場することが可能になり、そこで全国各地から集まってきたライバルと戦うことになる。そこで優勝あるいは上位の成績を残したクライマーには、日本代表につながる道が開かれる──甲子園で活躍した野球選手にはプロへの道が開かれるように。その狙いに基づいて、2009年からはTNFCを全国展開。各地での地域大会を開催し、シーズンの最後に本戦大会で優勝者を決定する仕組みに発展させた。
TNFCから多くのクライマーが世界へ羽ばたいていく
「TNFCはクライミングに触れるきっかけでありたいのと同時に、クライミングを追求していくとその先にはどういう世界があるのかを、示してあげる場でもありたいと考えています。いろんなレベルで楽しめる、勝つ喜びを味わえる、そして少しずつ階段を上っていった先に日本代表がある。そんな道筋をさらに明確にしたいと思って、ディビジョン制というシステムを作りました。これはJリーグからヒントを得ました」
ディビジョン制とは、レベルに応じてクラスを分け、各クラスで優秀な成績を残した人は上位クラスへの出場が許されるというシステム。かつてはビギナー、ミドル、エキスパートという3段階くらいしかなかったレベル分けをより細分化し、それぞれのレベルに応じて勝つ喜び、ステップアップしていく楽しみを体感しやすくした。この仕組みはキッズ3ディビジョンを含め、12ディビジョンにまで拡大している。
そして現在、20年前に参加者数十人で始まったTNFCは、全国13会場で計2000人以上が参加するビッグイベントとなった。この間、2004年大会に当時14歳で優勝した野口啓代を筆頭に、数多くのクライマーがここをきっかけに世界に羽ばたいていった。その歴史を見つめてきた平山は今、何を思うのだろうか。
「今、日本は世界屈指のスポーツクライミング強豪国になりましたが、その発展の一翼を担うことはできたんじゃないかなという自負はあります。日本のクライミング界にとって重要な大会に成長できたと思うので、その流れを止めないためにも、一刻も早くリスタートしたいんです。一方で、1年半流れを止めている間に、世界のクライミングシーンも大きく変わりました。2021年はクライミング界にとってエポックメイキングな年になったと思っています。これまでのクライミング界は、突き詰めた専門家たちの思いでシーンが作られてきましたが、これからは、その枠を超えた広い視野でクライミングと向き合っていく必要を感じています。TNFCも新しい時代に対応して変わっていくことが求められるかもしれない。そんな未来を模索しながら、また新しい時代を作っていきたいですね」
平山ユージ
プロ・フリークライマー。1969年2月23日生まれ、東京都出身。15歳でクライミングに出合い、10代の若さで国内トップに。その後、欧米でトップクライマーとして30年以上活躍。世界一美しいと評されるクライミングスタイルで「世界のヒラヤマ」として知られる。1998年ワールドカップでは日本人初の総合優勝、2000年には2度目のワールドカップ総合優勝を飾り、年間ランキングも1位となり世界の頂点に登り詰める。活躍の場はコンペティションの他に自然の岩場で高難度のクライミングで世界中に衝撃と未知の可能性を与える。2010年には長年の夢でもあったクライミングジム、Climb Park Base Campを設立。近年ではワールドカップなどでテレビ解説等も務める。