昨年、三月から五月にかけて北緯七十七度から八十一度にかけてグリーンランド極北部を七十五日間かけて放浪した。途中、フンボルト氷河という百キロにわたって延々と連なる巨大氷河の脇を通過した。脇といっても氷河そのものから二、三十キロ離れた海上を移動しているため、私から氷河は見えない。私が歩いていた氷河近海は、北はワシントンランド、南はイングルフィールドランドという陸塊にはさまれた巨大な湾口を形成しており、すぐ西側の流れる細くて長い海峡の潮の流れの影響も受けず、毎年、乱氷のない真っ平らな新氷が形成される。私は新氷の上につもった軟雪を一歩一歩踏みながら、一頭の犬とともに重たい橇をのろのろ引いていた。
この新氷地帯に入りこんで四、五日目だったろうか。ふと私は一キロほど前方に、雪景色のなかで画然と目立つ黒い点を識別した。その黒い点には、なにやら風景のなかにこびりついた一粒の鼻糞といった異物感があり、太陽光線によってつくられた無数の氷の影の黒色とも色合いの様相を異にしていた。風景全体を構成するほかのあらゆる色素とはスペクトルの様態がちがっているのだ、と言わんばかりに、どこか突出した感じがあった。
即座に私はその黒い点が動物であることを認識した。海豹だ。海豹は陽光が力を増す四月、五月になるとしばしば海中から氷上に姿をあらわし、ごろごろとひとときの転寝を満喫する。長旅で空腹が高じ、人間以外の動物の姿を見かけたら即刻射殺し、腹いっぱい肉を食べることを希っていた私は、橇と犬をその場に残し接近を試みた。
そろりそろりと音を立てないよう細心の注意で近づく。海豹はしばしばひょいっと首をもたげてこちらを一瞥する。そのたびに私はぴたりと足を止め、風景となじむよう違和感をなくすことに努力する。とはいえ、私がこのとき着用していた衣類は黒いゴアテックスのズボンに灰色の防風服の上着。海豹から見ると、私から見た海豹同様、突出して違和感のある一粒の黒い鼻糞に感じられたはずで、案の定、まだ五百メートル以上離れているのに、するりと海のなかに姿を消してしまった。
がっくりとうなだれて海豹がいた地点に向かうと、そこには直径一メートル近い大穴があいていた。穴は海豹が海と氷上の移動につかうものだが、その大きさから推察すると、先ほどの海豹は海域最大の体長をほこる顎鬚海豹にちがいなく、重さ三百キロの大物だったかもしれない。
三百キロ。想像するだけで涎が出た。
その後も私はこのフンボルト氷河近海で何度も海豹を見かけ、何度か接近をこころみたが、結局、五百メートル以内に近づくことはできなかった。ただ、たしかに狩りの試み自体は徒労に終わったものの、大きな目で見れば海豹との出会いは決して無駄なことではなかった。無駄どころかこの経験は私に途轍もなく大きくて、かつ単純な覚醒をもたらした。
その覚醒とは次のようなものだった。
この海で海豹狩りに成功すれば私はもっと北の地に行けるのではないか――。
昨年から私は狩りで食料を現地調達することを前提に北極で長旅をおこなっている。この試みを通じて見えたのは、狩猟前提の長旅は、従来の冒険で当たり前のものとして問題にもされてこなかった行為の枠組み全体をゆさぶる潜在的な力を秘めているということだ。
どういうことかといえば、まず狩猟前提の旅をすると時間の流れるベクトルが変化する。従来の冒険は、ある地点から目的地までの移動行為である場合がほとんどだ。ヒマラヤ登山であればベースキャンプから頂上に向かい、北極点到達の場合だとカナダの最北地点を出発して極点を目指す。それが普通のやり方とされる。つまり目標地点が明確に定まっており、そこに到達できるように合理的に計算して綿密に計画することが求められる。それをひと言で表現すると〈計画的到達行動〉とでも呼ぶことができようか。
この計画的到達行動の図式のなかで時間というものがどのように立ち現れてくるかというと、目標地点が定まっており、そこに到達することが至上命題として設定されているわけだから、目標達成という未来における一点が中心となって、そこに向かって時間が流れるかたちとなっている。多くの場合、冒険では装備を軽量化してスピーディーに行動することが求められるので、持ち運べる食料も最低限のものとなり、途中で無駄なことをおこなう余裕はない。五十日の食料で北極点に行こうと思えば、五十日というリミットが決まっており、無駄なく、効率よく、まっすぐ前進しなければ目的地には到達できない。したがって時間は目標地点到達という絶対的かつ至高の頂にむかって一直線に伸びており、現在はその未来の一点にむかって効率よく消化されるためだけに存在している。言いかえれば現在は未来に従属しており、ある意味、未来のために殺されてしまっている。
計画的到達行動はこのような時間の流れになっているので、その行為の内部に可変性や意外性はまったく存在しない。結果にあらわれるのはゴールに到達できたかできなかったかという達成の成否だけであり、エベレストや北極点以外のどこか別の場所に到達しちゃいました、などといった予期せぬ結果が生じることは基本的にはありえない。今日何かをやったからといって、明日の道行が予定していたものからガラリと変わることはない。つまり結果の意外性が最初から排除されており、未来に新しい可能性が生まれるダイナミズムがそもそも存在しない。
ところが狩猟を前提とした長旅は時間の流れがこれとは完全に逆向きになる。