The Creativist

AREA 241 Journal 未来を手づくりする人たち
Chapter 7 Vol.Four
LANDSCAPE ARCHITECT DESIGNER
Kei Amano

天野 慶

TEXT by SABU ISAYAMA
PHOTOGRAPHS by RYOYA NAGIRA
クライアントと対等に話がしたい。紹介してくれた人の顔は潰せない。愛のある仕事しかしたくない。だからこそ期待以上のモノを提案する必要があるのだ。そう語る天野さんを突き動かす「原動力」はいったいなんなのか? ひとりの庭師が誕生するまでの物語を追う。
造園の中の建築家になろう!

天野慶さんは1977年生まれ。

山梨県笛吹市春日居町で高校生までを過ごした。

父は和菓子職人で、母は薬剤師。姉と弟がいて、小さい頃から休みなく毎日働く両親の背中を見て育った。家庭は「自分で責任もってやれば、自由」という雰囲気だった。
18歳で大学進学とともに家を出て、千葉工業大学の工業化学科で無機化学(セラミック)を専攻。大学卒業後、半導体をつくる会社に3年間就職、その後にリフォーム会社に転職して、そこでも3年働いた。

もともと理系で建設的なモノの考え方が好きだった天野さんの趣味はDIYで、休みの日はホームセンターに行って資材を買い、家で棚やDJブースなどの家具をつくっていた。

天野さんは、モノづくりをするときにはいきなり作業に取り掛からずに、まず頭の中で完成形の絵や、そこに至るまでの道筋やストーリーを考え、逆算した上で作業を進めていく。図面を想像する時には「頭の中で消しゴムを使う」こともあるそうだ。

もともと建築家に憧れていたが、「建築家って頭も必要だし、運も必要だし、自分は敵わないと思った」ということで、建築家への道は考えていなかった。

ところが、ある日、転機が訪れる。

たまたま母親が通っているガーデニング教室に一緒についていったところ、その教室の先生が「植物で空間を成り立たせている」ことに衝撃を受けたのだ。

「もともとエクステリアをやっているリフォーム会社にいたんだけど、『なんか違うんだよなぁ』ってずっと疑問に思ってたわけね。何が違うんだろうって思いながら洋書とか見てたら、木があったの。『あぁ、木なんだ』って思って。その流れでその先生のところに行ったら、植物で空間が成り立ってて、えぇ?!  えぇ?!  やっべー! って思って」

言わば、今の〈ヤードワークス〉のランドスケープデザインの原風景とも言える空間設計哲学を目の当たりにした瞬間だった。自分の関心にピッタリと合う世界観を、もう既に実現している先人がいたことに驚き、天野さんは「これだ!」と直感した。
先生は小坂節子さんという女性で、英国でイングリッシュ・ガーデンを学び、甲府でガーデニングのお店と教室を営んでいた。高知県出身のいわゆる「はちきん」(男勝りの女性を指す土佐弁)で、サバサバしていて、負けん気が強く、意見をはっきりと主張するタイプの人物だった。

「普通の造園屋さんって、お客さんに言われたことをその通りにやるイメージだったんですけど、その先生は、『うちが提案するんだから!』っていうタイプで。お客さんとのやり取りを見ていたら、フェンスをデザインする時にメーカーのカタログじゃなくて、ガウディの作品集を手に取っていたんです。実はガウディも作品に結構ロートアイアン使ってたりするんだけど、先生は『あなた金物をするわけですよね、私だったらもうアイアン作家を使いますから』とかって言うんです。へー、既製品を使わないんだ、すっげーな! って思いました」

客と作家が対等にやりとりをする。
そんな姿が目に焼き付いた。

20年前。ガーデニングといえば当時はまだ一部の富裕層の趣味で、山梨県には外車などほとんど走っていないような時代だった。しかし田舎にも関わらず、小坂さんの店の駐車場には高級外車がずらりと並び、お洒落な時計を付けた綺麗なマダムたちが、先生に説教されながらガーデニングを教わっていた。
天野さんはそんな世界観や、小坂さんの生き方、プロ意識に感銘を受け「自分は造園の中の建築家になろう!」と、弟子入りすることを決意する。

26歳の時だった。

ヒラリー夫人です

小坂さんはガーデナーでありながらジュエリーデザイナーでもあり、絵描きでもあり、クリスチャンで、ワイン好きなアーティストだった。天野さんはそんな小坂さんの愛に溢れる人柄や堂々と生きる姿に惹かれていった。

「夜とかワイン片手に賛美歌を歌い出すんですよ。師匠、ごっきげんだぜ~とか思いながら(笑)。しかも土佐の人で、めちゃ気が強いんですよ。もう半端ないんすよ。顔を真っ赤にして俺を怒るみたいな。それが凄い良くて。一時期、先生と同じ美容院に行ってた時があったんだけど、その時、『髪型どうしますか?』って聞かれて、先生は『ヒラリー夫人です』って言ってたんです。もうどんだけかっこいいんだよ! とか思って。痺れるでしょ、ちょっとビックリするというか。『予算がこれしかない!』っていう時にも、その5倍くらいの額で見積もり出したりするような人で。師匠は業界に対する僕のイメージを変えてくれた人なんです」

天野さんは弟子入りと同時に、区切りよく30歳で独立することを決めていた。

やるなら徹底的にと一切の交友関係を切って約5年間、小坂さんの下でストイックに修行に励んだ。夜間は別の場所でアルバイトをして現金収入を得た。植物の知識、配置や色のバランス、土壌の重要性といった基本に加え、師匠独特の感性も学んだ。

「ある日師匠が『あなたね、切るわよ!』みたいなこと言ってたんです。何かなって思ったら、カリンっていう木に向かって『あなたね、今年実が全然つかなかったから、これ本当ね、来年切るからね!』って言っていたんです。で、その翌年めっちゃ実がついていたんです。うわ、なにこれ、使える! って思って僕もやり始めました」

そんなふうにして、天野さんは師匠の下で刺激的な5年間を過ごす。

勝手にフォロワーが増えていった

天野さんがひとりでヨーロッパ一周旅行に出かけたのは、29歳の時、下積み修行を終えた後のことだった。

本ばかりで実物の庭を見ていなかったので「本場の空気感を知らない、自分が頭でっかちになりつつある」と危惧し、ユーレイルパス(ヨーロッパ諸国以外の外国人に対し発行される一定期間鉄道乗り放題の周遊券)を取得して、約3ヶ月間、ヨーロッパ中の公園と美術館をひたすら歩いて回ることにしたのだ。
旅の途中、天野さんはあることに気がつく。

それはどの有名な美術館に行ってもキリストが十字架にかかっている絵ばかりだということだった。さすがに同じような絵に見飽きてしまった天野さんは退屈しのぎに、そこで「どの時期に、どの場所で、どんな人がその絵を描いたのか」という当時の状況を勝手に「妄想」し始める。

「繊細なタッチでキリストさんが描かれてるけど、これはきっとスペインの南の方でハゲオヤジが窓を全開にして、汗ぎったぎたになりながら描いたんだろうなとかって妄想しだしたら、もう勝手に面白くなっちゃって。そんなことを毎日やっていたら、想像力がめっちゃ鍛えられました。例えばいまここに『バドガールよ、現われろ』って思ったら、ほんとに、すぐ出ちゃいますよ」

まるでVRスコープがなくても、自分でVRをつくりだせるような能力だ。ヨーロッパにいる間中、毎日「妄想」を通じて、そこにないものや、あったら面白いストーリーを脳内につくりだす想像力を養っていった。そこで訓練されたスキルはそのまま〈ヤードワークス〉のランドスケープの設計に活かされている。
帰国後に〈ヤードワークス〉を立ち上げた天野さんが、その後どんなランドスケープをつくる作家になっていったのかということについては、既にこれまでに見てきた通りである。

15年間で会社は大きくなっていき、2019年には個人事業主から株式会社に法人成り。東京にも事務所を構え、社員は6人にまで増えた。天野さん自身は会社を大きくするつもりは全くなく、東京に事務所をもつことにも最初は乗り気ではなかったというが、いろいろな人たちとの出会い、御縁、流れに身を任せた結果、いつの間にか現在のような形になっていったという。

ちなみに〈ヤードワークス〉のインスタグラムのアカウントは現在フォロワー約1.3万人。天野さんは12年前、インスタグラムがまだ日本で普及するよりずっと前にアカウントをつくって、作品の画像を投稿してきた。作品が人を惹きつけ、フォロワーは自然と増えていった。今ではインスタグラムを通じて仕事の依頼や「〈ヤードワークス〉で働きたい」という人からのDMも届く。
師匠・小坂節子さんから受け取った「種」は、〈ヤードワークス〉という「芽」を出し、15年かけて、大きな木へと成長を遂げていたのだった。

ところで、話を聞くほどどうしても「能力が高く、メンタルが強く、努力家で、運の良い人」に見えてしまう天野さんなのだが、果たして彼は「最初から完璧な人」だったのだろうか?

実は、師匠と出会う前の20代前半、天野さんには「精神的に落ち込んでいた時期があった」という。その時の経験があったからこそ、今の自分があるのだそうだ。

いったい何があったのか?

最後にそのあたりの話を伺ってみた。

借金5,000万円の連帯保証人になる

「僕がまだ真面目なときの話ですね」

23歳の時、リフォーム会社に転職した天野さんは、安月給ながら毎日コツコツと仕事を頑張る日々を送っていた。

ところがある日、会社の金回りが悪くなり、見るからに柄の悪そうな人たちが会社にやってくるようになった。後からわかったことだが、実は会社の社長がヤミ金からかなりの額のお金を借りて詐欺行為を繰り返していた。

「人を魅了するのが上手い社長で、いろんな人からめちゃくちゃお金を集めて、増やして返すっていうのを繰り返していたんです。実際には増えていないんですよ。でも人から借りたものを増やして、それをもとの人に返してっていう感じで、だんだんみんな信じていくわけですよ。話が上手いから」

そうして社長はある日、金を持ったまま突然、姿を消してしまった。
会社には多額の借金だけが残った。

「ちょっと社長飛んじゃったんすけど」

会社に出入りしていたヤミ金業者たちと既に顔見知りになっていた天野さんはまず彼らに電話で一報を入れた。するとすぐにヤミ金の不良と若い連中が事務所にやって来た。言われたのは「まずは天野君、俺に先に言ってくれてありがとう。何か困ったことがあったら言ってくれ」ということだった。天野さんは意外にも好意的な反応に「え?」と驚いた。

しかし、社長は他にもいろいろなところからお金を借りていたので他の債権者たちも事務所に来るようになり、その責任は会社のNo.2だった天野さんに押し寄せた。責任感の強かった天野さんは「どうにかしないと」と焦りを感じるようになる。

そうこうしているうちに、ある債権者から脅され、言われるがまま書類に署名せざるを得ない状況になり、天野さんはなんと借金5,000万円の連帯保証人になってしまう。よくわかっていなかったが後で調べてみて、連帯保証人になるということは実質、債務を全て自分が請け負うことであるということが判明する。当時、結婚していた妻は外で別の男性と遊び回っていて、仕事だけでなく、家庭内もめちゃくちゃだった。
「俺、何にも悪いことしてないし、仕事だってこんな真面目にやってんのに、これどういう状況だよって思って。凄い信じていた社長もそういうふうになったから、もう誰のことも信用できなくなったのね。今思えば精神的に病むって、あぁこういうことなんだなって」

常に誰かに追われているストレスとプレッシャーから、天野さんは家にも会社にもいられない精神状態に陥り、偽名を使ってホテルを転々としながら生活を始める。目の前を走る車も、道行く人も、みんな自分を探しに来てるのではないかという不安に襲われ、疑心暗鬼になっていた。携帯電話の着信は鳴り止まなかったが、一切出なかった。

ところがいよいよ天野さんの本家の方に「息子さんどこいる?」と電話が入ったことを機に「もういい加減やべぇな」と感じた天野さんは、腹を括って、泥だらけの格好のままスコップを片手に、電話してきた債権者の会社に殴り込みに行った。

「俺は関係ねぇぞ!」

ところが行ってみると「いや天野くん、なんとかやっててよかった」「あそこですげー働いてたからみんな心配で」と言われて「えっ?」と拍子抜けしてしまう。

てっきりみんなから追われているのかと思いきや、最初に「社長飛んじゃったんすけど」と一報を入れたあのヤミ金業者たちがみんな、天野さんのことをずっと心配して気にかけて電話をかけてくれていたのだった。彼らは天野さんが普段から真面目に、誠実に働いていて、何も悪いことをしていないことをよく理解していた。

ヘナヘナと全身の力が抜けて膝をつく天野さん。

「ほんと、いろいろご迷惑かけて申し訳ないです」と頭を下げ、その場を後にした。

無知って本当に怖いなと思った

「天野君、元気しているかい?」

後日、心配してくれていた例のヤミ金業者からまた電話がかかってきた。そこで天野さんは5,000万円の借用書の件について「いや実は、書いちゃったんすよね」と事情を話した。すると「マジか、わかった。じゃあちょっとそいつの電話番号教えろ」と言って借用書を作成した債権者にすぐに電話をかけ、「お前借用書を書かせたらしいな。それは破棄しろ、わかったな」と連絡を入れてくれた。

以来、借用書に関する連絡は来なくなった。

どういうわけか天野さんにはよく理解できなかったが、借用者の話はそこで立ち消えとなったのだった。それから10年後には消滅時効を迎え、借用書は法的にも「無効」となっている。

「別に俺はその人に対して何もしてないんだよ。ただ社長が飛んだ時、一発目に電話しただけ。そこ?! みたいな。でも電話一本で終わったの。信じられないような話だけど。今思えば対処する方法なんていくらでもあったはずだけど、当時は若くて経験もなくて、無知だったし、人を見る目もなかったから、全てに怯えていたというか。勝手に物事を大きくしていたんです。無知って本当に怖いなぁって思いました。でもそれがあったおかげで、人生ミスっても逃げずにその場でちゃんと対応すれば道は開かれるし、後ろ向いたら後ろ向いただけのことしかないって思えるようになって。その時にちゃんと信念もってやっていこうっていうのが見えてきたんです」
当時結婚していた妻とは、家に帰れば喧嘩ばかりだったし、「男と遊んでいる」という話も友人づてに聞いてはいたものの、「結果フタを開けてみると、俺が仕事ばかりでちゃんと構っていなかったからで、結局は俺がいけなかったんだな」と天野さんは振り返る。

親に相談して天野さんは相手の両親に挨拶に伺い、「彼女を幸せにできなかった、ごめんなさい」と頭を下げ、離婚したい旨を伝えた。相手の両親とは仲良くやっていたので「なんとかやり直せないか」と引き止められもしたが、天野さんは「いや、ちょっともう無理です、すみません」と頭を下げ続けた。

天野さんの父は「相手が悪くても、お前が自分が悪いって言って行って来い」と息子に伝えていた。正直行きたくはなかったけれど、天野さんはもう何が起きても全てを受け入れようと覚悟していた。

そしてその通りに事は進み、全ての問題が落ち着いていった。

26歳で一気に人生のどん底を経験し、それを乗り越えた天野さんだったが、しばらくの間はまだ人間不信で落ち込む日々が続いていたという。

天野さんが師匠・小坂節子さんと出会うことになるのは、そのすぐ後のことだった。母親がガーデニング教室についてやたら熱弁してくるので、天野さんは興味本位で一緒について行ってみることにしたのだ。

「ちょっと俺、それ見に行っていい?」

こうして天野さんの人生が、本当の意味でスタートを迎えるのだった。
PHOTO by 241
それがあったから今がある

一連のトラブルを乗り越え、天野さんは全てのことにおいて「それがあったから今がある」と思えるようになった。

「市村さんにしても小佐野さんにしても、ジャンルは違うけどいろんな修羅場はくぐってると思うの、絶対。そういうのがあるから、今があるのだろうし。そういうのがあるからこそ強く生きれるし。今があるのには、必ず理由があるんです。例えば僕が今さぶさんとここで会って話しているっていうのも、絶対なんか運命があるわけで。会わなかったら会わなかった人生になってるかもしんないし、会ってるから会ってる人生になってる。うん。だから全てを受け入れるというか。で、今、幸せに暮らしてます」

これまでに見てきた天野さんの徹底したモノづくり、プロ意識、仲間との信頼関係、そして愛のある仕事をやっていきたいという思いが、ようやく一本の線で繋がった。なぜ天野さんが「枯らすことを恐れないで」と言っていたのか、今ならわかる気がする。

「今の若い人たちって怒られないように上手くごまかしたりする人が多いけど、いや別に怒られりゃいいじゃんって思うのね。だって怒られないと次に行かないでしょ。ごめんなさいっていうのも、みんな言わないしさ。なかなか謝らないよね。簡単なのにな、とか思うけど」

人生には節目節目で「ここが頑張り時!」という試練のタイミングが誰しも必ず訪れる。その時にどういう選択をするのか。そこが人生の大きな分かれ目となるのかもしれない。

取材の最後に、あまりにベタな質問かもしれないが「結局、庭って何なんですか?」と尋ねてみた。庭は「あったらなお良い」けれど、水や食べ物のように「ないと生きていけない」ものではない。

なぜそこまで植物や庭にこだわるのか?

「例えばアートがない生活ってどう? っていうのと同じことだよね。世の中がコロナになった時、庭とか金属とかっていらないよねって思われがちだったけど、意外にもジュエリーの売上は上がったんですよ。結局、心の豊かさが重要だってこと。簡単に言うと、家に庭やアートがあると愛着が湧くでしょう。果樹を植えたら世話をするでしょう。水もやるし収穫もするし四季も感じるでしょう。それは教育の場でもあるんです。うちにバカでかいケヤキの木があるのね。もう30年級かな。僕が小学校3年生くらいの頃、父親が2.5メートルくらいの木を植えている姿を見てるんだけど、それがいま大木になってるわけ。木1本が、うちの家族を何十年も見てたんだなって思うと、むちゃくちゃ面白いなって思うわけ。木の目線というか。だから庭は必要なんです。要は、そこに愛が必要なんですよ」
PHOTO by 241
この原稿を書いている間も、天野さんのインスタグラムは頻繁に更新され続けていた。そこには自分たちの植えた植物が、その後どうなっているか気になって、わざわざ水やりのために東京や宮崎へと飛び回る天野さんの姿があった。時間の使い方が上手な天野さんのことだから、もちろんそれだけのためでもないのだろうけれど、どんなに忙しくても天野さんはこうした「ケア」の時間を忘れない。

スー・スチュアート・スミス(Sue Stuart-Smith)という精神科医が著した『庭仕事の真髄 老い・病・トラウマ・孤独を癒す庭』(築地書館)という本には、このような記述がある。

「植物の世話をすることは本質的に心を今に向ける活動で、無頓着に配慮しないで行うケアは真のケアではない。真のケアを実行するということは、自分以外の誰かや何かの必要性を理解し、それに集中する時に、他者に対して受容的になることを意味する」

天野さんが「経年美化」と言っていたように、ヤードワークスのつくった作品は、水と光、そして人々の愛情を受けながら、これから何十年もの時を経て完成していくのだろう。枯れることがあっても、受け入れてしまえば、それもまた美しい景色のひとつ。

できれば年に4回、その成長の物語を目に焼き付けたい。
日本には四季があるのだから。

天野 慶/ランドスケープ・アーキテクト・デザイナー。〈ヤードワークス〉代表。

1977年、山梨県生まれ。千葉工業大学を卒業後、半導体メーカーに3年、リフォーム会社に3年勤める。その後、イングリッシュガーデンを専門とする師匠との出会いを機に、植物を主体とした空間設計(ランドスケープ・アーキテクト)のデザイナーとなる。2007年に〈ヤードワークス〉を立ち上げ、2019年に〈株式会社ヤードワークス〉として法人化。全国の個人住宅、商業施設、公共施設など、さまざまな空間の植栽設計を手掛ける。
〈ヤードワークス〉ホームページ:www.yardworks-web.com
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