The Creativist

AREA 241 Journal 未来を手づくりする人たち
Chapter 3 Vol.Three
SNOWBOARD BUILDER & WOOD WORKER
Naoyuki Watanabe

渡辺尚幸

TEXT by SABU
PHOTOGRAPHS by KAZUMA ITO
高校生ロッククライマーとして活躍し、その後もマウンテンバイク・ライダー、ラリー・ドライバー、プロ・スノーボーダーと、自然を舞台にさまざまな活動を繰り広げてきた冒険家が追い求めたのは、限界を超えた先に見える景色だった。
兄は憧れの存在だった

ナベさんの人生を語る上で、4歳年上の兄、一儀(かずよし)さんの存在は欠かせない。

一言で言えば、憧れの存在だった。

兄は新潟県立新井高等学校工業科で「地学クラブ」という部活に入って、地元の妙高火山の研究をしていた。
顧問の先生が若くて熱心だったこともあり、兄は地質調査やボーリング調査などを精力的に行う。その成果は、全国の研究発表大会で文部科学省最優秀賞をとったことがあるほどであった。

次第にヒマラヤ登山に関心をもつようになった兄は高校卒業後、長野県にある豆腐屋に就職。
寮生活をしながら働き始める。
なぜ長野県に居を移したのかというと、長野県の社会人山岳会グループ「グループ・ド・モレーヌ」に入るためだった。
当時はヒマラヤなど辺境の地へ行くためには、さまざまな段階や手続きを踏まなければならず、そうした組織に所属する必要があったのだ。

そんな兄に連れられて、ナベさんはある日、山岳会の岩登り講習会に参加する。
いわゆる「ロック・クライミング」である。
当時まだ中学生だったナベさんは、岩にへばりついて必死になってみんなについていった。

「ダメっす、俺!」
「弟、がんばれ!」

くじけそうになりながらも、社会人の先輩たちに励まされ、ナベさんはなんとか岩山を登った。
長野市にある「上杉謙信 物見の岩」という25mほどの岩場である。
この物見の岩はその後、ナベさんのホームグラウンドともいうべき思い入れの深い場所になっていく。

一方、兄は精力的に海外登山へと出かけていった。

10代後半~20代前半にして、韓国の雪山や標高6194メートルある北アメリカ大陸の最高峰、マッキンリー(現・デナリ)などを登った。
20代後半にはネパール北部にあるヒマラヤ山脈のダウラギリ(標高8167m)にも挑戦。
あまりの過酷さに途中下山したが、諦めず、その10年後にまた同じ仲間たちとダウラギリに挑んでいる。

矢継ぎ早に海外の山に挑んでいく兄の後ろ姿を、弟のナベさんは眺めていた。


遠い世界に旅に出ようか

当時は「みんなが行ったことのないところへ行こう!」という気運の高まっていた時代だった。

1968(昭和42)年、西岡たかしが中心となって結成したフォークグループ「五つの赤い風船」の「遠い世界に」という曲が若者のあいだで人気を博した。

「遠い世界に 旅に出ようか」「明日の世界を探しに行こう」というフレーズが印象的なその曲は、徐々に戦後復興を遂げていく日本の若者たちの「未知なるものへの好奇心」を象徴した歌だった。
「俺たちの時代ってのはさ、その時代の価値観や空気っていうものが、色彩や風景や物語といった"メロディー"を伴って入ってくるのさ。ニュアンスの変化が生まれてきて、感性の新しいページをいったような気がする。今はコロナ禍だけどさ、なんかそういう時代の"ツヤツヤ"っていうか、艶っぽいものを磨くって、結構面白いんじゃないかって、俺は思うんだ」

ナベさんはそう言ってギターを手に取って、ポロポロとアルペジオを弾きながら「遠い世界に」を歌ってくれた。

ふわっと抜けた、いい声である。

「ニュアンス」「メロディー」「時代の艶っぽいもの」といった言葉を使っているように、ナベさんは常に時代の空気感を敏感に読み取ろうとしていることがわかる。

それがナベさんの楽曲制作やものづくりの話にも繋がっているように思われた。


活字が重要な手がかりだった

行ったことのないところに行く時に必要になるものは何か。

それは「地図」と「情報」である。

今のようにGoogle mapやインターネットが存在しない当時の日本では、行ったことのない山へ登ろうとしても地図や情報がないため、どうやって行くのか、常に手探り状態だった。

そこはどんな山で、どんなルートがあるのか。
そもそも登ることができるのか。
春はどうか、冬はどうか……。

そうした手がかりを得るために、何か情報を知っていそうな人たちに手紙を送って、やりとりを重ねながら現地の情報を得ていくのが一般的な時代だった。

つまり「活字」が重要な手がかりとなる。

山岳と文学に密接な関係があり、物書きや詩人の登山家・クライマーが多いのはこのためだろう。

山岳会において、会報や年報といった冊子を定期的に刊行し、そこに旅の紀行文やルートの記録などを残していくことは、重要な活動のひとつであった。
それが後に続く人たちにとって、貴重な情報源となっていった。

当時のトップクライマーであり詩人・エッセイストでもある遠藤甲太さんの『山と死者たちー幻想と現実の間に』(1983, 白山書房)や、日本アルパインガイド協会専務理事を務めた長谷川恒男さんの『北壁に舞う:生きぬくことが冒険だ』(1979, 集英社)といった書籍のように、多くの活字記録が後世に残されている。

海外だとアルプスの名ガイドであり「山の詩人」とも謳われたレビュファ・ガストンの『星と嵐』が古典的名著として知られ、1954年に山岳文学大賞を受賞している。

こうした山岳文学の名著、名作は挙げればキリがない。

死生観や人生哲学を説いた文学作品に感化される若者も多かったが、ナベさんもまたそのうちの一人である。

黙々と本の世界に浸った。
兄の背中を追って

自分も兄のように、山登りがしてみたい。

兄の後を追うようにして、ナベさんも新井高等学校に入学し、地学クラブへ入部する。
ところがなんと部活のテーマが妙高火山の研究から地元の川や井戸の水質調査の研究へと変わっていたことを知り、ナベさんは愕然とする。

「やっべぇ~、川かぁ……。行けねぇのか、山!!」

しかし当時15歳の律儀な渡辺少年は仕方なく、

「すんません、こんにちはー、新井高校地学部です、井戸の水位を測らせてください」

と地元の人たちに頭を下げながら、市内の井戸の水位を測定した。時には川にロープを張り、激流に身を流されそうになりながら川の年間の水量も調査していった。見えない地下のことを見ようとしていたのだ。

兄のマネをして、新聞配達のバイトも始めた。
しかし職場では「お兄ちゃんはよかったんだけど、ナオちゃんはねぇ……」と言われてしまう。

朝は5時起き。

玄関を塞ぐほどの高さの雪が降り積もっていて、雪の中に飛び込んでいくような形で外へ出てバイトに向かった。
ハードな新聞配達なため遅配が相次ぎ、しまいには仕事を投げ出したこともあった。

「俺はもう全然だめなやつで(笑)。冬は本当にキツイのさ、笑い話じゃなくて。兄貴すげーなって思った。それでも3年間続けたけどね」

そんな風にして始まった高校生活だが、やはり山への思いを諦めきれなかったナベさんは体育系の顧問を探してきて、山岳同好会を立ち上げる。

なんとかして山に行こうとした。
命がけの日々だった

「渡辺、あそこ行こうぜ」

ちょうどその頃、東京の大学の山岳部や社会人クライミングクラブなどでバリバリ活躍するようになっていた新井高校のOBたちが山登りの誘いで声をかけてきてくれるようになった。

「うっす! でも俺みたいな高校生が、そんなとこ行っちゃっていいんすか……」

誘われたのは全国レベルの、ハードな山ばかりだった。

しかし、誘いを断らずにナベさんは先輩たちに付いていき、徐々に登山家・クライマーとしてのキャリアを積むようになる。

オーバーハング(90°よりも手前に傾斜している岩壁)のスポットでは「こんなんどうやって届くんすか……。でも越えないと帰れないしな」という極限の状態も経験した。

高校卒業後もクライミングを続けていったので、次第に全国各地に仲間が増えていった。

後に数々の名クライマーを輩出した「山岳同志会」の人たちとも何度か同じ岩場で合流したことがある。ヒマラヤ最難ルートに挑んだ唯一の日本人であり「天国に一番近い男」とも呼ばれる山野井泰史さんとも、2人で冬の大町の巨大な岩場を登ったことがある。
前述の長谷川恒男さんもまた、ナベさんが「ハセツネさん」と呼んで慕う大先輩であった。
「ナベちゃんも南米のフィッツ・ロイの壁行こうよ」なんて声をかけてもらうなど、よく面倒を見てもらったものだった。

「全てが命がけ。俺、もう今日で終わりかなっていう毎日。でもそれがどういうわけか、楽しかったのさ」

戦時中に死を覚悟した父と、ナベさんの姿が、どことなく重なって見えた。
人間の限界までいってみよう!

時代は高度経済成長の真っ只中。

その頃からクライミングの世界にも「ある変化」が生じ始めていた。

アブミと呼ばれる縄梯子を使ったり、手がかりがなければ岩の割れ目にハンマーを使ってハーケン(楔状の金具)を打ち込んだりして、安全を確保しながら人工的に登る最新型のスタイルが導入されていったのだ。


オーバーハングのある困難な岩山でも道具を使って登れるようになったことで、各地の至るところで新たなルートが続々と開拓されていき、そこには最初に登った人のルート名が残されていった。

まさに高度経済成長時代のクライミングだった。

一方、「いや、ここはハーケンはいらないじゃないか」「ここは使わなくても行けるんじゃないか」と言って、あえてそうした道具に頼らず、できる限り人間の力だけで登ろうとする人たちも増えていった。

これがいわゆるルートの「フリー化」と呼ばれるムーブメントで、「フリー・クライミング」の始まりである。
「人間の極み、限界までいっていいんじゃないか! みたいな時代だった。ボルトというプロテクションがあれば、たしかに安全ではある。でもプロテクションがなかったら、その分ものすごく真剣になるでしょ。細かい、小さな、何かを掴めるんじゃないか。そうやって掴んだ何かの上に立つんだ! って。でも最初からボルトがあって安全がキープされていたら、その"何か"は見つからないと思った。そこが違うとこなんだなって思う」

人工登攀の技術や道具が確立されていく一方、気づけば全国の岩山は埋め込まれたボルトで傷だらけになっていた。

アメリカではパタゴニアの創業者であるイヴォン・シュイナード氏が金具の打ち込みで岩壁を傷つけない「クリーン・クライミング」を提唱。
1972年、アメリカ最大のクライミング用具メーカー「シュイナード・イクイップメント」初のカタログの中で「クリーンクライミング」をこのように紹介した。

「キーワードは『クリーン』だ。プロテクションにナッツとスリングしか使わない登り方をクリーンクライミングと呼ぶ。クライマーが登っても岩が傷まないという意味でクリーン。岩にハンマーでなにかを打ち込んだり抜いたりすれば岩が傷つき、次のクライマーは自然のままを体験できなくなるが、そういうことをしないという意味でクリーン。プロテクションの痕跡がほとんど残らないという意味でクリーン。クリーンとは岩を変化させることなく登ることであり、自然人として本来のクライミングに一歩近づくことでもある」

シュイナード・イクイップメントはそれまで鋼鉄製ピトン(ハーケン)を主力製品としていたが、その事業が愛する岩を壊していることに気づき、ピトン事業をやめることを決断している。

金具を使わないということはそれだけ墜落死のリスクが高くなることを意味する。しかしそれを承知の上でなお自然破壊の上に成り立つようなクライミングのあり方に、シュイナードはきっぱりと御免ですと表明したのだった。

こうしたエコロジーへの強い意識は大きな賛同を集め、フリー化のムーブメントは世界各地へと波及していった。そしてナベさんたちもまたこの声に呼応するように仲間たちと一緒に打ち込まれた金具を抜いて回った。「抜いては打たれ、抜いては打たれ……」の日々が続いたという。
ナベさんはこのような「フリー化」の現象について「おそらくスポーツの世界に初めて持ち込まれたエコロジー的な考え方だったんじゃないかな」と振り返る。
雑誌では喧々諤々の議論が巻き起こり、それぞれの立場の人間が、それぞれの意見を活発にぶつけていった。

ちなみにナベさんは過去にアメリカに何度もクライミングをしに行っているが、50代の時に訪れたヨセミテではキャンプグラウンドが20~40代の頃と比べて見違えるほどキレイになっていて、「あれま~!」と驚いたものだったと言う。

「劇的に状況が変わらなくていいから、ほんの少しだけでも前よりよくなったじゃんって、言えたらいいよね」

地道な作業の繰り返しとその時間の蓄積が、風景をゆっくりと変えていった。


自分たちの足跡を残す

クライミングには「グレード」と呼ばれる、達成難易度を示す評価基準が存在する。

といっても、そこには厳格な基準や定義が存在するわけではなく、登った人の感覚でつけられることが多い。
日本では初心者向けの「1級」から、上級者でも非常に困難な「6級」までの6段階評価だ。
ある時期から「5.10a」「5.10b」といった表記を用いるUSA基準の「デシマルグレード」が用いられるようになり、現在の日本ではそちらが一般的となっている。

同時代のクライマーたちの中には、国内に留まらずアメリカのヨセミテなどを訪れ、日本と異なるスケール感を体験して帰ってくる人たちも少なくなかった。
そこで得た体感を日本に持ち帰って、USA基準で国内のさまざまな岩場に自分たちでグレードをつけていった。

今やフリークライミングのメッカとして知られる小川山や、前述の物見の岩にはナベさんがグレードや名前をつけたルートが数多く残されている。
時々「渡辺さんの名前知ってます、先月登りに行きました!」と声をかけられることもあるそうだ。

地元の人に酒を持っていって「ここ登っていいんですかね?」と挨拶しながら、自分たちのローカルな山に、自分たちでルート名やグレードをつけ、クロニクル(形跡)を残していく。

そこにはクライマーとして、あるいはそこに住むローカルの人間としてのアイデンティティを確認していく独特の楽しさがあった。

こうして全国に残されていったさまざまなルートやグレードが基礎となって、今やフリークライミングがオリンピックの種目にまでなっているというのは、とても興味深い。

ちなみにナベさんが一番最後にルートを開拓したのは40歳くらいの頃である。群馬県吾妻郡中之条町・有笠山にある「ちっぽけ岩」近辺の「翁」という名のルートで、グレードは5-11cだ。

「俺も結構歳をとったから、なんかもう"翁"でいいかなって(笑)」

こういう笑えるエピソードがちょいちょい出てくるところもまた、ナベさんのユーモラスで魅力的な人柄を表している。
環境庁に反対表明の嘆願書を出す

新聞配達バイトのほか、ナベさんは妙高市にある山小屋「黒沢池ヒュッテ」でもバイトをしていた。

池の湖畔に立つ八角形のドームの珍しい山小屋は、ネパール・カトマンズに「ホテル・エベレスト・ビュー」を建設した宮原巍さんの設計である。

そこでナベさんは、山明けの5月からシーズン終わりの11月まで、毎週土日に住み込みをしながら、山小屋の掃除、登山道の整備、草刈りなどをして、高校卒業まで3年間(3シーズン)働いた。

最初は2~3時間かけて山小屋まで歩いて通ったが、慣れてきたらクライミングエリアに行って「よし、今日は妙高の正面東壁だな」などと心の中でつぶやきながら、仕込み用のキャベツハンバーグの入ったバッグを背負って岩壁を登ってから仕事場へと向かったものだった。

そんな生活をしていたナベさんにとって妙高山、火打山、新潟焼山、大毛無山などのエリアは、まさに自分のテリトリーのような場所であった。

ところが、そうしたローカルの風景も時代の変化を迫られることとなる。

1970年代の日本は観光道路の新設ブームで、有料の観光道路計画がどんどん進められていった時代だった。
「~スカイライン」や「~バードライン」といったような名前の道路が全国的につくられていったのは、この時代である。

道は土からコンクリートへと変わっていき、その波はナベさんの地元にも押し寄せる。
妙高山の中腹にも観光道路がつくられようとしていたのだ。

そのことを小耳に挟んだナベさんたちは「新井高校地学部として反対表明をしなきゃいけない」ということで、当時の環境庁の初代長官・大石武一氏に嘆願書を出しに行っている。
山から産業が消えていった

「それまではパラダイスだったよ」

当時は、地元の人たちが山の中に焼き窯を自分たちで持っていて、冬の間に切った木を引っ張って行き、炭焼にして売って商売をしたり、そこで遊んだりしていたものだった。

そこには地場産業があった。

しかし昔であれば田舎の山奥に行けば必ずあったようなものが、華やかな開発計画の裏側で、はかなく姿を消していった。

木を切る人や、乾燥させる熟練士がいなくなった。
木を乾燥させる窯や、近所の製材所がなくなった。
人々の生活や仕事の拠点は、山から街の方へと下っていった。

「日本って不思議だよね。大きくなった木を神のように守りもするし、ゴミのように捨て去りもする。巨大な木を信仰してるけど、木を愛してるのかな、この国は、とかって、すげー思ったりする」

あと何十年、何百年もすれば山は大木だらけになるだろう。
しかし、そこに産業がない以上、資源を持っていても使いこなすことができない、とナベさんは指摘する。

「資源のある現場から人が遠ざかるということはさ、それだけ人件費も輸送コストもかかるっていうことでしょ。こうしたことが日本全国の産業の中で起きていったのよ。でも本質から考えたら逆じゃん、商売って。資源のあるところにいなきゃだめじゃん。だってそれが一番強いわけじゃん。たとえば6000円のモノを送ってもらうのに送料6000円かかるって、どういうこと? みたいな、おかしなことが各地で起こり始めるわけ」

戦後復興から高度経済成長を遂げ、急速に変化していく日本の光と闇の両方を目の当たりにした高校時代であった。

渡辺尚幸/スノーボードブランド〈PRANA PUNKS〉代表。デザイナー。アートディレクター。スノーボーダー(241所属)。

1958年、新潟県新井市生まれ。ロッククライマー、ラリードライバー、山岳ガイド、プロスノーボーダーなどの活動を経て、2004年、信州産の間伐材を芯材に使ったスノーボードのブランド〈Green Lab.〉を、中山一郎、中山二郎らと設立。グラフィックとディレクションを担当し、2015年、個人ブランド〈PRANA PUNKS SNOWBOARDING〉を設立。自らが作詞作曲を手がけるフォーク・ロックバンド「Fighting Farmers」ではヴォーカルとギターを担当。
  • facebook
  • Instagram
  • Youtube
© GOLDWIN INC.