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        Interview with Satoshi Saito

        241フォーカスInterview with Satoshi Saito

        「ダボス」という山々に囲まれた谷あいの小さな村がスイスにある。世界経済フォーラムが開催される、美しい草原の広がる山岳リゾートだ。
        長野県の菅平高原スキー場には、1920年代、まるでダボスのような場所だということから「日本のダボス」と命名された地域がある。現在のダボススキー場、ダボス牧場がそれにあたる。
        斉藤 哲(サトシ)は、このダボス牧場のせがれとして誕生し、今もこの地で牧場経営に家族で携わっている。敷地の広さは125ヘクタール、東京ドーム27個分。ちなみに東京ドームひとつの広さは畳に換算すると3万2472畳。それが27個分だから……まったく想像が追いつかない広さだ。そのうえ、観光業の無いダボス牧場、言えば敷地のすべてが経営者のプライベート空間。標高は1500mで、スキー場へ行かずとも滑れる斜面があり、奥には根子岳や百名山の四阿山などが広がっている。

        ここに、サトシのライフがある。
        彼のライフスタイルとはいったいどのようなものなのか?

        — このダボス牧場を経営しているのは、菅平発信のスノーボードブランド「GREEN.LAB」のチームメイト伊藤 高の家族とサトシの家族ということになるのかな?

        Satoshi (以下:S) 「そうですね。伊藤家と斉藤家の2家族でやってます。伊藤さんの家は肥育牛や繁殖牛、放牧地の管理がメインで、うちは機械を使った牧草つくりが中心になります」

        — この時期のサトシの仕事内容は?

        S 「ここの地主さんが、併設する菅平牧場を経営されてるんですけど、午前中はそちらで放牧牛の管理(牧夫)をしています。午後からはうちの牧場で草上げです」

        — 草上げってあのロール状になったもの?

        S 「そうです。家畜の粗飼料となるチモシー中心のオーチャード、レッドクローバーの昆播で最も栄養価の高い粗飼料を採草地で育てているんですけど、それを梅雨明けから刈って、その場で太陽光によって乾燥させてロール状にしたものです。雨にあたる前にトラックで運んで施設にしまい込まないと売り物にはならなくなるんで、その作業に時間を割いています。だいたいひとつのロールが約300kg、取れるシーズンだとそれを700ロールくらい採取します」

        — 正直その作業がどれほどのものか想像するのは難しいんだけど、ここがどれだけ広い場所なのかは理解できたよ。ナンバーの付いていない車で移動したのは、自動車学校以来だったからね。

        S 「採草地だけで敷地の半分ほどありますから、確かに広いですよね。そのおかげで、僕は子供の頃からここでバイクや車を運転して遊べでましたから」

        — マジか!? 最高じゃん。

        S 「小学5年生くらいでSUZUKIのハスラー50ccを敷地内で乗り回して遊んでました。ただ隣のタカシくん(伊藤 高)にバイクを教えてもらったわけで、小学生が小学生に教えているからもうメチャクチャですよね。結構危ない目にもあいました」

        — 車は?

        S 「中学生の頃に親父さんから2ストのジムニーSJ10を自分専用に渡されて。それも敷地内で乗り回してました。そんな環境だったから、乗り物やエンジンに興味を持つのが早かったんだと思います」

        — すごい環境だよね。敷地内には見たこともない古いトラクターやトラック、重機なんかがいっぱいあったけど、すべてがまだ現役ということは、自分で整備して使っているということ?

        S 「全部そうです。もともと親父さんが壊れたら何でも直して使う人だったんで、その感覚が自分も普通になってるんですかね」

        — 大量消費の時代だからこそ、その在り方は素晴らしいね。

        S 「いろいろ直しながら乗ってるから分かるんですけど、例えば農業用重機のタイヤでも、日本製はすぐにひび割れちゃったり、壊れたりするのが普通なんですよ。だいたい6年くらいで部品も在庫も入れ替わっちゃうんで、パーツ探しが大変なんです。でも北米やヨーロッパの重機は耐用年数が長いというか、細かいパーツ関係もメーカー側がずっとストックしてくれているんで、長く乗っていける。そういう部分も見えてくるから、面白いです」

        — 圧雪車も置いてあったけど、あれも動くの?

        S 「もちろんです。Pisten Bully社のPB200D ってモデルですね。だいぶ昔のロートルマシーンなんですけど、ちょっと前にネットのオークションで落札しました。野沢温泉で働いていたピステンです。運んでくること自体が大変だったんですけど、パーツが多いので直すのも結構手こずりましたね」

        — それって何用?

        S 「冬、この牧場内の作業道から裏の四阿山などにアクセスするためです。敷地内から歩いてアプローチするとなるとめちゃくちゃ遠いんですよ。古いモービルを直して使っているんですけど、雪が多いとそれも大変で。だからそういう日は、山の入り口まで圧雪車で道をつくって、モービルの機動力を高めるんです」

        — スノーボーダーズ・ドリームでしょそのスタイル。この環境だからこそだね。子供の頃からスノーボードは身近にあったの?

        S 「最初はやっぱりスキーでした。2~3歳から敷地内の坂でスキーして遊んで、小学校ではジャンプ部でノルディック競技をしてました。10歳の頃ですかね、ジャンプ部の友達がスノーボードをしてて、教えてもらって滑ったのが最初です。親に3点セット19,800円の道具を買ってもらいしばらく遊んでいたんですけど、中学に入ってから、時々ギブスで登校してくるほどスノーボード好きな技術の中山先生が、僕にBURTONのカスタムをセットでくれたんですよ。授業で一緒に滑る機会もあって、グランドトリックやオーリーを教えてもらってそこで激ハマりしました」

        — ファンキーな先生がいたもんだね。その他に影響を受けたものはある?

        S 「友達や中山先生が持っていた雑誌とかビデオを見て、初めてスノーボード・カルチャーってものに触れたんですけど、純粋にカッコイイと思えたんですよ。FORUMムービーのJP Walkerを見てからは、敷地内でタカシくんとレールをつくって夜でも照明つけてずっとやってました」

        — 近くのスキー場でディガーとかやらなかった?

        S 「高校に入ってからやりました。当時、菅平のシュナイダースキー場が、ファースト・チルドレンの人たちで盛り上がっていて、18mくらいのキッカーもあったんですよ。そういう場所だったんで、他のディガーの人たちも濃くて濃くて、名前を挙げたらキリがないんですけど、影響は受けましたね。それからGREEN.LABの中山一郎さん二郎さんの兄弟の影響はかなり大きかったです。カセットデッキから聞いたことのない音楽(ピンクフロイドだったらしい)を流してストリートレールでステア出してセッションしてるところに、タカシくんと中山先生(卒業後も仲良し)と3人で見に行った時は衝撃的でした。その頃から一郎さん二郎さんはフォトグラファーHi-seeさんに撮影してもらっていて、写真がFREERUNに掲載されていたんです。そういう表現方法を見て、こうなりたいって思いましたね。ちなみに、その時初めてストリートのエントリーにトライして、タカシ君はステアに叩きつけられてケガ。自分も2本目で同じくステアに叩きつけられて撃沈。ストリートの洗礼を受けました(笑)」

        — 2000年代前半だね。早くから近くに刺激があったんだね。

        S 「時代と菅平という環境が良かったんだと思います。その頃、スケートシューズのI-PATHを扱っていたBPトレーディングという会社が、スノーボード・ムービー『Scene this one』の撮影で菅平に来ていたんですけど、そこで見た……今思えばあのスタイルは五明 淳さん(PRANA PUNKS)だと思うんですけど、その滑りを初めて見て相当影響を受けました。人工降雪機が吹き付けたモンスターみたいな雪の塊に当て込んでいたり、それまで見てきたジャンプやレールとは違う、スケートライクなスノーボーディングの表現方法がカッコ良かったんです」

        — 今のサトシはマウンテン・フリーライドへ向き合っているようだけど。

        S 「18歳くらいの時に、in anamawokというフィルムプロダクトで、『NO SELE OUT』っていう自作販売のDVD撮影に関わらさせてもらえることになったんですけど、山の中でドカタ作業でビッグキッカーをつくって、ナチュラルのジャンプ撮影をよくしていたんです。その頃から山の世界に少しずつ引き寄せられて、今があるんだと思います」

        — でもダックスタンスを貫いているでしょ。どんなスノーボーディングにお熱なの?

        S 「ん~、やっぱりオールラウンド・スノーボーディングですかね。結構な急斜面だとテールが必要だし、スイッチじゃないと危なかったりクリアできない場面もあるんで、今はツインでなるべくダックで滑ってます。深いパウダーとかだとまた違ったセッティングなんですけど、基本ハーフパイプでもパークでも、ストリートのジブでも、山の中の地形やビッグラインでも、どこを滑っていても飛んでトリックしたいし、スケートスタイルを軸にして自分のスタイルを追求したいですね」

        — そこまでスノーボードにのめり込んでいるのに、牧場を出ることは無かったんだ?

        S 「高校は下宿だったんで実家を離れていたし、高校を出た後もお金を稼ぐために立山の室堂山荘で働きながら滑ったりもしてみたし、牧場じゃなく菅平の丸文農場でレタス畑の仕事をしてみたり、スノーボード中心の生活をするために揺れ動いていた時期はあったんですけど、外で働いてみてはじめて牧場での生活と仕事の技術の凄さを感じて。正直、賃金労働者をしていた方がよっぽど自由に使えるお金と時間を持てるんですけど、技術とかそこでの家族との生活は本当にプライスレスで一生残るものなので、今はそれを吸収して学んでいくことで、自分のスノーボーディングが明確にいい方向へ向かってると思います」

        — 裏に根子岳や四阿山があって、すぐ近くにスキー場がいくつもあって、環境はどうしたって恵まれているもんね。

        S 「そうですね、あとはGREEN.LABの存在も自分にはもの凄く大きいです。二郎さんたちがブランドを始める準備段階から話を聞かせてもらっていて、長野県産材の間伐材を有効利用してつくることや、テストボードで感じた唐松の粘りある乗り味など、間近でブランドができるまでの過程に触れられたんです。そうして出来上がった初号機を、ブランド創設メンバーの渡辺尚之さん(現PRANA PUNK社長)から『はいコレは一本やる。乗ってみて』と渡された時は相当アガりました。地元に最高のベースがあるうえに、視野を広げて北信エリアを動けば、素晴らしい山々が広がっている。それに長野には241ファミリーの美谷島 慎さんもいる。オールラウンド・スノーボーディングを地で行く人なんで、セッションは毎回刺激を受けますし、自分は本当に恵まれた環境にいるなと思っています」

        — これからもここをベースに滑り続ける人生だと思うけど、定めている狙いとかあったりする?

        S 「そうですね、これまで外の世界も見てきて、その分、広がりも実感できたので、今後は海外含めてもっといろんな場所へ行ってみたいです。そしてそこで広がった世界を菅平に持ち帰って、遊びにも仕事にも活かしていきたいなと思います」

        — 菅平の中で、となれば?

        S 「それこそ圧雪車で登っていって、牧場よりも上の方にベースをつくってシーズンを過ごしてみたいってのはあります。ツリーランも沢も滑れる場所はまだいっぱいあるし、沢の中は風が当たらないんでベースを置きやすいですし。ただ菅平はめちゃくちゃ寒いけど雪がそんなに多くないんで、良い日が限られる分、どうしても視野は北信エリアに広がると思いますけど」

        生きるため、遊ぶために、四肢をフル稼働させ、智恵を絞る。
        そこにあるもので事を成し得るサトシのシンプルでいてワイルドなライフスタイルを見ると、”これが本当のDIYってものなのか”と改めて理解を深めることができる。
        「和製マイク・バシッチ」。
        サトシをこう表すと今の段階では誇大表現かもしれない。けれど生まれ持った環境と、身に染みついたDIY精神。この点においては、存在がダブって見えるのは事実。これから築きあげていくライフとスノーボーディングがどんな色になっていくのか、その過程を見届けたくなる興味深い男だ。

        Text : DIE GO
        Photo : Gaku Harada Satoshi Saito