ついさっきまで、自国の首都よりも台湾が近くにあるような南の島にいた僕にとって、雪の大地は遥か彼方の世界のはずだった。なのに、いま僕はもうその地を踏んでいる。
一歩一歩、足を踏み出すごとに呼吸する雪の音。しんっ、と静まり返った空気の中に広がるオホーツクの海。大量の水が海の厚みを感じさせる。濃紺なその色は水平線まで変わらない。上空から海の底が目視できるほど澄み渡り、沖へと徐々にグラデーションしていく宮古島の海に慣れている僕の身体にとって、知床の「底知れない」海は異世界だ。
真っ暗なウトロ港にひらひらと雪が降ってきた。オレンジ色の街灯が軽い雪たちを踊らせる。暗闇に鎮座するゴジラ岩とオロンコ岩は遠い惑星に来た気にさせるし、街灯の光を借りて浮かぶ岩の輪郭と凹凸した岩肌の陰影は、僕を宇宙へ連れていく。
オロンコ岩の頂上で、かつてここにオロンコ族が住んでいたという話を思い出した。外敵が侵入できないこの場所での生活を選んだ彼らのことを想像する。いつの時代にも危険はそばにあるけれど、どんな営みにも光がある。その一つは夜の星だろう。ウトロ港の灯りは控えめで、満天に輝く星の光は邪魔されることなくこちらに降りて来てくれた。
ここで動いているのは自分ひとり。時が止まったような暗い静寂の世界で、自分も自然の一部であることにハッとする。自然との駆け引きに価値を見出し、遠くの光に感動し、贅沢な沈黙に大地の尊さを実感する。
いくら豊かな自然がそばにあろうと、その間に人間が入ることで貴重な時を失うことがある。僕の知る南の島のビーチでは、当たり前のようにビビットカラーのパラソルがたち並び、タピオカ屋の兄ちゃんがフードトラックから声を張り上げ、波の音は愛のないJ-POPに沈み、潮の香りは甘いミルクティに消えていく。
知床では、そんな都合のいい空気を僕は吸っていない。自然の中にも静かな間が存在し、すべてがただここに然ると教えてくれた。海も、山も、岩も、人も、ここに住む生命は決して相対するものではなく、同じリズムを尊重しあって生きている。
知床には今も無垢な時間が流れているのだろうと僕は勝手に想う。そんな勝手な人間の「間」の意味を考ながら、雪を掬った両手で墨をゆっくり温めた。
新城大地郎 (しんじょう・だいちろう) 1992 年生まれ。アーティスト。宮古島出身。