トラになった男の人生を思った。果たして不幸せなのだろうか。
走りながらそんなことを考えていた。
しなやかな筋肉が躍動する様子を頭に思い浮かべる。野山を駆け、うさぎをむさぼる。寝たいときに寝る。思うままに走り回るトラは不幸せどころか、きっと幸せなはずだ。
タイ北部・チェンマイで開催されたトレイルレース「Chiangmai Thailand by UTMB」に出場した。5つあるカテゴリーの中で、もっとも長い160kmにエントリー。12月の寒い時期に日本を離れて、南国で走るというのは、それだけで幸せだ。ほほえみの国でほほえみたくなる。
もっともレース自体は、ほほえみを絶えず浮かべていられるほど易しくはない。アップダウンの連続で、温暖な気候は大量の発汗を促してくる。
厳しくも長い道のりを走り続けるには、リラックスすることが肝要だ。先をゆくランナーを追いかけることなく、マイペースで走る。気分だけは常夏のバカンス。気持ちも体もゆるく構えているくらいがちょうどいい。
ペースを抑えているのもあるが、コースは2年前に出場した時よりも、走りやすくなっていた。バナナの森を通過し、木の枝を渡しただけの簡素な橋を渡り、エイドステーションではドライマンゴーやスイカ、バナナを口にする。
気温は心地よい暑さで、タイにしては低め。すべてを満喫しながら楽しく走れていた。
気持ちがほぐれているからか、あれこれと考えが浮かんでは消えていく。その中のひとつが、トラだった。タイの熱帯雨林にすむ野生の虎は、密猟や生息地の減少で、ごくわずかしか存在しない。トラに遭遇することはないだろう。
トラのイメージが頭に残り、レース中にも関わらず「山月記」を思い出した。国語の教科書でお馴染みの短編小説だ。
唐代の中国で、詩人になることがかなわずにトラになった男・李徴の話である。
やや時代が古いので、現代的な設定に置き換える。官僚であった主人公が退職して、歌手デビューを目指すような内容になる。デビューできずにくすぶった状態が続き、妻子持ちということもあり、金に困って公務員として再就職。そこで鬱屈とした思いが募り、限界を迎えてトラになってしまうのであった。こじらせた男の悲哀が描かれている。
なぜトラになるのか。そこは深く考えてはいけない。そういうものなのだ。
考えるべきは、トラになった主人公は不幸だったのかという点にある。自意識の高さゆえに己の置かれた環境に満足できなくて、トラへと変貌を遂げた。そして、人間であった頃の記憶が薄れ、日に日に獣になっていくことを主人公は嘆く。転職失敗、自分の成功を信じきれなかったことへの後悔などが胸中を渦巻いていたのだろう。
けれども、トラのようにしなやかに走れるのだとしたら、トレイルランナーとしては、こんなに幸せなことはない。トラ、万歳。トラのイメージを膨らませながら、下りの斜面を抜けていった。こんなことを考えている間は、たとえトラになっても幸せになる自信がある。
こんなお気楽なことを思考できていたのは、50kmほどまで。そこからは両脚がつり、それどころではなくなった。
ひとつの山を越える間に、20〜30回は足つりに見舞われた。倒木を右足でまたげば足つり。おさまって左足を上げれば再発するといった具合だ。登り、下り、平坦地。ところ構わずに足がけいれんし、激しく収縮する。
痛いだけで、特に問題はないのだが、なにせ思うように走れない。この区間だけで大幅に遅れてしまった。巻き返そうにも、足つりは続く。
記録を狙うという面では、思ったように成果を挙げられそうにない。まともに走ることが困難なのに、まだ100km以上残っている。上位を目指すのは困難だった。
自分の置かれている状況はひどいものだ。しかし、完走するという意思にかげりはない。好転する要素はひとつもないが、面白いとさえ感じていた。ひどい有り様でも、どうやったら進めるのかを考える。そこにやり甲斐があった。
順位という評価がどうでもよくなっていた。トラになって、伸びやかに走りたいが、僕はトラになれそうもない。ごく個人的なやり甲斐の優先順位が高く、山月記の主人公が望んだような成功、他人から見た成功は二の次になっていた。
トラは無理でも、野良犬にはなれるだろう。タイの路上で見かけた犬たちのように、のんびりと自由に進んだ。
マイペースなので、体力的には余裕があるものの、困ったのは真夜中から明け方にかけてだ。ぼんやりと眠い。
普段のペースで心拍数が上がっていれば、アドレナリンも出るのか、眠気を感じずに済む。ところが、この日はゆっくりなので、心拍数は低いまま。眠気が堪えられなくなり、虫に噛まれないところを探して、山の中で思い切って仮眠をとる。数分から10分ほどでもスッキリできる。
南国といえども、湿度の高い深夜は、山ではひんやりとしていた。そんな中でも気にせずに仮眠できたのは「メリノ125クールライト スピード ショートスリーブT」のおかげだ。
夜間の冷えを予防するために、汗で濡れたシャツを着替えるランナーもいたが、メリノは着替えいらず。予定よりも大幅に遅れて32時間でゴールしたが、冷えとは無縁。着の身着のままというスタイルは、なんとなく野良犬っぽい。今回のレースにはぴったりだった。
着用アイテム
-Profile
若岡 拓也(ワカオカ タクヤ)
1984年生まれ、金沢市出身。走ることが好き。山や砂漠、極地、ジャングル、凍った海の上など、さまざまなフィールドを走ることが喜び。2023年には北海道から鹿児島まで山をつなぎながら約4,500kmを走破。