Chapter.03
Interview with Kazushige Fujita
雪山を、ゲレンデを、軽やかに滑らかに、そして深く、重力と踊るように滑るスノーボーダー、藤田一茂。TOYOTA BIG AIRで日本人最高位に輝いたスノーボーダーは、フィルムチームの一員として世界の雪山を股にかけ、自分だけにしかできない新たな滑りを追求している。“スノーサーフィン”と呼ばれるジャンルに属するその滑りは国内はもとより海外からも注目され、インスタフォロワー数は1.5万人を超え、コメント欄には英語の歓喜が並ぶ。長野県の山村に住み、畑を耕しながら自然のリズムに合わせて生きる愛称“シゲ”の生い立ちと、これからの目標を聞いた。
はじめて雪を滑ったときのことを覚えていますか?
「生まれたのは、京都府宮津市という、日本海と山に挟まれた小さな街です。シングルリフトが2本かかる、ちっちゃいスキー場が家の近くにあって、そこで小学校低学年のときにはじめてスキーをしました。それから両親と妹ふたりの家族5人でよくスキー旅行へいきましたね。 スキーは、身近な遊びというよりは旅行先でするものって思っていたから楽しい記憶しかないですね。小さい頃は、庭でカマクラを作れるくらい雪が降ったけど、昨今の小雪でスキー場は潰れちゃいました」
スノーボードとの出会いはいつ頃でしょう?
「中学1年の冬ですね。スキー場で見かけたスノーボードに興味を持って『あれ、やってみたい』って親にお願いして、レンタルしてはじめて乗りました。いきなり逆エッジくらったけど、なんかコレ楽しいぞって。それから安い板を買ってもらい、ひとりだけスノーボードで家族旅行に行っていました」
それでスノーボードにどんどんハマっていったのですね。
「高校1年の冬に、友達と、その姉ちゃんの3人で兵庫の神鍋高原スキー場へ行ったとき。姉ちゃんが、いきなりジャンプ台でスピンしながら飛んだんですよ。『やべー、スノーボードってこんな感じなの?』って驚いた。
それから姉ちゃんを通して、スノーボードカルチャーに触れることになりました。雑誌とかDVDを借りて、ロックバンド系の洋楽を聴くようになって、『俺もそのダボダボのウェア着たい』ってウェアをもらったり。姉ちゃんの知り合いに新潟県妙高市の全日本ウィンタースポーツ専門学校の卒業生がいて、その人から話を聞くうちに、プロになってみたいって感情がはじめて湧いてきて、その専門学校へ進学することにしたんです」
それでスノーボードにどんどんハマっていったのですね。
「その姉ちゃんの影響でしかないですからね(笑)ほんとに。それまでの人生で一番ハマったのがスノーボードだった。それまで熱中できるものってなくて、強いていえば、理数系の勉強が好きで、いい大学にいくんだって思っていましたから。なんかわかんないけど、俺、これ頑張りたいって思ったんですよね。それからバイト代を板とかウェアにつぎ込むようになりました」
バイトはなにをしていたんですか?
「宮津市に日本三景の天橋立があるんですけど、股のぞきするやつです。そこのリフト係をしていました。『はい、どーぞー』って。冬は休業で滑りにいけるから、ちょうどよかったんです」
雪国、新潟県妙高市での学生生活は、どうでしたか?
「プロになりたいという志を持っている同世代の友達と一緒に滑ったりするのは、すごく刺激的でしたね。スポンサーがついている先生を単純に追い抜けばいいんだなって、プロへの具体的な目標が見えました。そんなに遠くないな。結構近いぞみたいな(笑)。日本スノーボード協会(JSBA)のプロ資格を取ることを目標にして、2年目の冬には取得できました。だけど、メーカーから相手にもされないし、「なんだよ、この資格!」って。
卒業後、夏は地元に帰って冬にむけてバイトばっかりしてました。なんかプロになるのって、難しいなーって」
人生の転機となったのが、2009年の国内最高峰のスロープスタイルコンテスト『THE SLOPE』ですね。
「この『THE SLOPE』で優勝することを目標に、夏も人工雪の室内ゲレンデに通ってジャンプばっかりやってましたね。会場へ行って並んでいるメーカーブースに挨拶しても『誰だよ、おまえ?』って、相手にされない。
で、俺が決勝トーナメントへ行くってなったら態度がコロッと変わって、『シゲ、これ乗って決勝行けよ』って板を手渡してくれたり。ムチャブリでしょって思ったけど、嬉しかったから『じゃあ乗ります』って、そしたらその板で勝っちゃった(笑)。賞金100万円もらって、メーカーさんも『シゲ、ご飯食べ行こうぜ』って世界が変わりました。
次の日、雑誌の撮影で張り切って飛んだら、しょうもないところで転んで、スネの骨が三つに縦割れして『あいつ、終わったな』って天国から地獄へ。次の冬が来ても完全には回復しなくて、あのときはどん底でしたね。でも、スノーボードを続けたかったから、もう一回いちから頑張ろうって、コツコツトレーニングを続けました」
そして、その努力が報われて2011年『TOYOTA BIG AIR』で日本最高位の5位に入賞すると。
「5位になったらステージが一段上がって、当時スポンサーだった『HEAD』のインターナショナルチームに入れてもらい、外国人クルーとアルゼンチンやニュージーランド、ヨーロッパへ撮影に行くようになりました。
世界を旅しながら、各国の文化や歴史、自然に触れるようになると、コンテストに魅力を感じなくなりました。大会ってどこにいてもやることは一緒なんですよ。国や生活、環境が変わっても自分の技をやりにいくだけ、何回転するかみたいな。それに飽きちゃって、もうコンテストはやめようって思っていたときにフィルムクルーの『Heart Films』と出会いました。彼らは、世界を舞台にスノーモービルで山へ深く切り込んで、すごい斜面を滑って映像を残すっていう世界レベルの動きをしていた。
なにかのイベントで、そのメンバーのひとりコニタン(小西隆文)と会って、俺にしたら怖い先輩ですけど『興味あります。俺も行きたい』って直談判したら『じゃあ、こいよ』って誘ってもらいました」
26歳でパークからビッグマウンテンの世界へ飛び込んだのですね。
「はじめて同行したのは2014年のカナダです。それから毎年、参加させてもらっています。ほかのメンバーよりトリックは俺の方ができたし、現地へいくまで完全に舐めていましたね。雪山へ行ったら『すいませんでした。調子乗ってました』ってぜんぜん滑れなかった。思い通りのラインにも行けないし、飛ぶときにビビっちゃうし。飛んでも着地できないし。パークのジャンプは、ある程度飛び方が決まっていて、2通りくらい想定していれば飛べるんですけど、山はそれがまったく通用しませんでした。パークはリフトを使って反復練習ができるけど、山はできない。いまこの瞬間を逃しちゃダメだって全身全霊を目の前の1本にささげる。そういうスノーボードってこれまでしてこなかったんですよね」
自然の山へ通うようになって、ライフスタイルに変化はありましたか?
「5年前に長野県美麻村に家を借りて、畑を耕しはじめました。いつも食べている野菜はどうやって作られているんだろう? って考えるようになったのがきっかけです。土を作って、タネを撒いて、太陽が当たって、雨が降って、芽が出て、食べるまで、すべてのプロセスが見えて、それが自分の身になる。最近は、雪も同じようなものなのかなーと思ったりします。雪が降って、風が吹いて、太陽を浴びて、雪もさまざまな形へ成長して、その雪から俺は力をもらっている。そのツールがスノーボードであると」
ときにはカメラマンとして、ライターとして、さまざまな角度からスノーボードの魅力を発信していますね。
「ハードな斜面を滑るときでも、映像と写真を撮れるミラーレスカメラをザックに1台入れています。カメラがなかったらもっと滑りにフォーカスできんじゃね? どっちも中途半端じゃね? っていう意見があることは知っていて、でも俺は撮影することで得られることもあると思う。例えば、ライダーとしてだけでなく、撮影する側の意見とか、視点に寄り添うことで、その現場を深く、広く、俯瞰して見られることもある。ライダーはついつい切り取る一瞬を忘れて、できるだけいっぱい滑りたいって欲求が勝ったりするけどカメラを持つことで立ち止まれるというか。自分にとっては大切にしたい感覚ですね」
スノーボーダーとして、こうありたいっていう理想像はありますか?
「もちろん、山に登って、山頂からあの斜面を滑りたいっていう野心はあります。だけど、それは誰かがやればいいことで、俺がやるべきことは、滑りのスタイルを追求して、スノーボードの限界値を引き上げることかなと思っています。ターンの限界といえばいいのかな。みんなが『そんなことできるんだ!』『そんなに深く曲がれるの?』『その次に、それやる?』っていう意外性な滑りを発信していきたいですね」
いわゆる世界的に流行っているスノーサーフィンと呼ばれているスタイルですね。
「スノーサーフィンていう言葉はあまり好きじゃないんですよ。サーフィンじゃなくてスノーボードなんだけどな(笑)。インスタの反応を見ていても、この類の動画や写真はすごい伸びます。そのスノーサーフィンと呼ばれるジャンルで替えがいない存在、自分らしい滑りを求めていきたいと思っています。いまはそれができているのか分からないけど、俺の滑りを見て、真似したい人は増えている実感はありますね。
山頂を目指すスタイルは、体力のあるなし、装備のあるなし、経験のあるなしで、切り捨てられる。スノーボードってそういう遊びじゃないと思うんです。もっと単純に、誰でもその板に乗れば、気持ちよくなれて、心も豊かになれる。たった短い1本だけでも、雪上の幸せを感じられる。そういう道具であり、そういう遊びであって欲しい。だから俺は、これからもスノーボーダーらしいスノーボーダーでいたいと思います」
(取材日:11月5日 THE NORTH FACE GRAVITY 白馬にて)
PROFILE
藤田一茂(ふじた・かずしげ)
1988年生まれ。京都府宮津市出身。プロスノーボーダー。15歳でスノーボードをはじめる。2009年国内最高峰のスロープスタイル大会『THE SLOPE』で優勝。2011年『TOYOTA BIG AIR』で日本人としては史上最高位の5位入賞。2014年からフィルムクルー『Heart Films』のメンバーとして国内外のビッグマウンテンを滑り、数々の作品を残す。映像作家、企画プロデューサー、ライターとしての顔も持ち、さまざまな角度からスノーボードの魅力を発信。長野県美麻村に居を構え、雪のない季節は、家庭菜園や波乗りを通して自然のリズムに合わせた生活を実践している。セッションの日程やライディングムービーは、HPにて公開中。 https://www.forestlog.net
TEXT : SHINYA MORIYAMA