ただでさえ人よりも動物の影のほうが濃い知床にあって、半島を貫く知床連山は、野生を全身で感じられる場所だ。冬はわずかなエキスパートを除いて人を寄せ付けないけれど、短い夏のあいだは、一般の登山者にも門戸が開かれる。といっても、道中に山小屋があるのは出発点の岩尾別温泉だけで、連山を縦走しようとすればテントや寝袋、食料などを自分でかついでいくほかない。どうしても、ある程度の経験は必要だ。
カムチャツカやアラスカに繋がる最果ての山々を、一人で縦走してみたかった。知床に来るたびに視界に飛び込むあの山々を繋いで歩くことができたら最高じゃないか…。ある夏、前々から抱いていた計画を実行に移した。
最初に登った羅臼岳では何人かの登山者に出会ったが、その先の縦走路に入ると人の気配が消えた。三ツ峰の花畑で時間を忘れて写真を撮りまくり、キャンプ地に着く頃には夕方になっていた。
無人のキャンプ地には、フードロッカーが設置されている。あたりはヒグマの生息地なので、食べ物をテント内に置いたり、テントのそばで調理したりすれば、匂いにつられて熊を呼び寄せてしまう。そのため、食料はステンレスの頑丈なロッカーに入れておくことになっている。日本では聞き慣れないフードロッカーだが、アラスカの国立公園などではめずらしくない。
小さなテントを立て、中にマットと寝袋を敷いてもぐり込んだ。地図をひたすら眺め、読める文字をすべて読んでしまうと、あとは寝るだけだ。あたりはまだ少し明るかったが、明日に備えて寝袋にくるまった。
夜中に、ふと目が覚めた。あたりはすっかり暗くなり、気温も低くなっていた。ぼくはむっくりと上半身を起こし、テントの入口をあけて顔だけ外に出した。クマがいないか確認しようと顔を出したのだが、目前に広がる夜空に目を奪われた。星々の光が濃く、空全体が発光しているかのように瞬いている。この空の下に、一人でいる。それが、ただただ嬉しかった。
翌日はサシルイ岳、オッカバケ岳、南岳、知円別岳を経て硫黄山へ向かった。羅臼岳と硫黄山を繋ぐこのコースは、2泊3日で登られることも多く、1泊2日で踏破するのは健脚向けとされている。さらに自分は、1泊2日なのに、二ツ池のキャンプ地ではなく、もっと手前の三ツ峰に泊まってしまった。これは、2日目がやたらと長くなる変則的な行程だったのだが、余裕がない分、雑念が消えて歩くことに集中できた。
ヤブ漕ぎは体力を奪われるし、浮石や木の根っこなどで足場が悪いところも多く、硫黄山からの下りは道に迷いやすかった。だからこそ、五感をひらいて常に周囲の状況を意識しながら歩いた。熊はいないか、水場はどこか。そんなことを常に考えながら原野と向き合っていると、おのずと自らの野性も奮い立ってくる。なんだかずっと歩いていられるぞ。そんな気持ちになるくらい、満たされた2日間になった。 半島のゴツゴツした背骨を自らの足で歩くことは、知床の自然を全身で受け止める充実した体験をもたらしてくれるだろう。それだけは間違いない。
石川直樹(いしかわ・なおき)
1977年東京生まれ。写真家。
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