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伊賀焼を代表する窯元「圡楽」で、8代目当主を務める福森道歩さん。昔ながらの里山の風景が広がる伊賀の地で、作陶に励みながら、代名詞ともいえる土鍋を日常的に利用できるようにと奮闘する道歩さんを訪ねた。

陶芸家が担う、美味しさへの責任

三重県の伊賀で、江戸時代からつづく窯元の四女として生まれた福森道歩さん。家には粘土があったため、幼い頃より気が向いたときには手慰み程度に土に触れていたというが、自分が窯元を継ぐことは想像すらしていなかったという。
「4番目ですからね。最初は、動物が好きだったのでムツゴロウさんの動物王国に入りたかったんですけど、却下されました(笑)。それで、料理のほうにいけたらなぁと漠然と思っていました。とくに和菓子。ああいうの好きだったんですよ、粘土にも似てるでしょ」
父親である雅武さんに、和菓子の道に進みたいと伝えると、女には無理だと一蹴されてしまう。道歩さんは「今だったらきかないですけど、聞き分けのいい私はきいて(あきらめて)しまった」と笑う。

「圡楽」7代目・福森雅武さんは、知る人ぞ知る存在。白洲次郎・正子夫妻をはじめとする人びととの交流に薫陶を受けながら豊かな自然のなかで器作りに邁進し、伊賀焼の魅力を最大限に伝えてきた。そして客人をもてなすことの上手な、料理の達人でもあった。そんな父・雅武さん、道歩さんが料理の道に進むことには反対しなかった。
「その頃はまだ、大学を卒業した長女が家を継ぐばかりだと思っていました。でもまぁ父が専制君主というか(笑)、意見が対立して長女が家を出ていってしまったんです。次女は中学の頃から父とはまったくソリが合わなくて、そもそも考えられなかった。となると、三番目が、私やろうかなって手を挙げました。だから、そらお願いするわ、私は料理をするからって。器や鍋を作る家なので、調理道具も食器もあって、自由に使えるでしょ。これはいける!そう思って、調理学校に行くことにしたんです」

料理の道に進むと決めたが……

こうして道歩さんは調理学校で料理を学ぶことに決めた。なんでも吸収してやろうと意気込み、積極的に修業に励む日々。しかし、あるとき突然、エビを捌こうとして、締められなくなってしまう。包丁が握れなくなってしまったのだ。
「どうしようかと思いました。料理人を志している者としては致命的ですよね。そうして悩んでいたら、お寺で考えを整理してみたらどうか、という話をいただき、家に帰るのもはばかられるので、お寺に行くことにしたんです」
縁あって京都・大徳寺 龍光院での生活がはじまった。早朝に起床すると掃除をし、お経を唱え、毎日の料理を担当。こうして一年間過ごすなかで、さまざまなことがクリアになり、また料理をできるようになったという。
「畑で採ってきた野菜だって命があるんですよ、といったようなことを和尚さんにポロっと言われて、そりゃそうだ、と。じゃあどうしようか。それまで27年間生きてきたということは、それだけ殺生してきているということでしょう。自分の命を絶ったらこれからは殺生しなくて済むよな、とか究極な考えに行き着いたりもしました。でも、それでは今まで繋いできた命に失礼だし、生きなければいただいた命に申し訳がない、と思い直しました。だったら食べ物に対してはしっかり責任をもとうと、美味しく食べることに重きを置くことになったんですね」
料理をする、食べる、ということへの向き合い方を見つけた道歩さん。大徳寺 龍光院での生活を終えてからは、屋台料理屋をするか、いや弁当屋から始めようか、キャンピングカーを買うのもいいな。そういったアイデアが湧いてきて、方向性を考えていた矢先、三女の姉から結婚を機に家を出る、と電話があった。「なるようにしかならんし、わかりました、私やるよ」と二つ返事。そのときの道歩さんには覚悟が備わっていた。

当主として、自分にできることは何か

圡楽窯には鍋だけで100以上もの種類があるが、代表的な「黒鍋」は、まだ20代だった父・雅武さんが考案したもの。当時は型押し機械による大量生産の波が押し寄せ、伝統的な伊賀焼も衰退の一途をたどっていた。そんななかで雅武さんはろくろ挽きを貫き、新しい土鍋を次々に生み出して圡楽窯を再建した。そんな偉大なる父のあとを継ぐことを決めた道歩さん、プレッシャーは相当のものだっただろう。
「プレッシャーはありました。“天才肌”の父のようなものは作れないし、家に帰ってきたのが28とかでしょう。今から間に合うだろうか、といった年齢的な心配もありました」

はじめの2年ほどはろくろを挽くこともなく、窯詰め作業の手伝いや経理の仕事をしていたという。そのうち兄弟子に少しずつやってみたらどうかと言われ、陶芸を教わるように。

取材で訪れた当日、工房での制作過程を少し見せてもらった。大きな土の塊を荒練りし、菊練り(土を捏ねて練り、空気を抜いていく)をする。鍋ひとつ分で右まわり100回、左まわり100回。それを多いときには1日で50個、練っては挽きを3日繰り返した後、2日かけて削り、取っ手を付け、完成させるのだ。

陶芸家としてろくろを挽く姿は優雅に映るが、体力的には女性に難しいこともある。たとえば、一尺以上の大きなサイズの土鍋は熟練の男性の職人さんに任せ、道歩さんは作らない。効率が悪いからだ。でも、自分にはできないことがあるという葛藤を、道歩さんは逆手にとった。

「私に何ができるんだろうと考えたとき、料理ができる、土鍋もある、それなら土鍋で料理したらええやないか。秋冬だけのイメージになっている土鍋を、なんとか年中使ってもらえるような調理道具にしよう。土鍋料理を広めることが、私のできることなんじゃないか。そういうふうに、できることを探しました。そこからですね」

料理人として、陶芸家として

工房で制作過程を見せてもらった後、囲炉裏のある母屋の客間で、伊賀牛のすき焼きをふるまっていただいた。空焚きした“育てた鍋”に、お肉を入れて焼きつけ塩をふり、お酒とお醤油をひとまわし。
とろけるような柔らかさのお肉を熱々のうちに口に含むと、お肉の甘さがじゅわっと広がった。
一般的に土鍋の空焚きは推奨されていないが、使い方次第なのだと道歩さんはいう。土鍋には熱しにくく冷めにくいという特徴、つまりゆっくり火が入るという性質がある。だから鍋料理だけではなく、焼く、炊く、蒸す、炒めるといった調理法で、洋食やエスニック料理、ステーキなど、さまざまなメニューに活用できるのだ。「夏にはお刺身を盛り付けることもおすすめですよ」と道歩さん。なるほど、気温が高くなっても、保温力のある土鍋が冷蔵室のような役割を果たしてくれるのだ。
そんなふうにして、料理人でもある道歩さんは父・雅武さんとは異なるアプローチで、伊賀焼・土鍋の魅力を日々伝えている。もちろん、陶芸家としての熱意も忘れてはいない。

「誰もがふだん使いしやすい調理器具や器を作りたい。たとえば、ご飯だったら吹きこぼれないものがいいとか、お客さんが求めている感覚は分かっているつもりです。でも、かたちが格好いいと美味しく見えたりすることもあるので、そのバランスは大切にしながら、料理をする人の目線で製作していきたいですね」

工房の庭先には、近所で出土したという土が干してあった。「どんなものができるか、一度試してみようと思って」と道歩さん。土鍋作りは土作りからはじまるのだ。田んぼで米を作り、畑で野菜を育て、野山の恵みをいただきながら暮らす道歩さんの挑戦は、生きること、食べることの尊さを教えてくれる。